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僕は書評が書けない

昔から「書評」を書く人に憧れていた。

「書評」とは、日曜の新聞や書評をまとめたいわゆる書評本に出てくる、1冊を手早くまとめ、その本の意義をそれとなく紹介するあれである。文化人や新聞記者の方が担当していることが多い。

僕は昔からこのコーナーをなんとなくすごいなと思っていた。

だから、自分でもそれを真似て、「書評」を書いてみようとしていた。

でも、何回やってもうまくいかない。

読んだ本からどれだけ深い感動を受けても、どれだけ素晴らしい内容がそこに含まれてても、書いたあとに言いようのない"未達成感"が自分の中に残る。そんな書評を何本も書いてしまった。

こんなものが書きたいわけではないのに、なんで。

そんな思いを何度も何度も経験した。

今考えてみれば、あの時僕が書いていた書評は、自分が直前に読んだ本の下手な要約になっていたり、感動が紋切り型の表現になっていて、読んでいるときに味わった感動をそのまま伝えることができない、試用品を使ったあとのサクラみたいな文章だった。

素晴らしい1冊を読んだ。さあ、この読書体験をそのまま文章にするぞ。

こんな安易な発想で1冊の本の良さを伝えられないのは当たり前だった。本当にその1冊を理解できているのかも怪しい。

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...と、自分でも納得はいかなかったけど、どうすればいいかは分からず、ここ数年の間、何回もこのパターンを繰り返してきた。のだけど、最近そこを抜け出す手がかりを得た。

ヒントは、(あくまでも自分の場合は、ということだけど)会話の中に出てくる、本の立ち位置にあった。

誰でもそうかもしれないけど、僕が本を会話の話題で出す時、いきなり、「こんな本があってさ〜」と切り出すときは少ない。そうではなくて、話の流れで、「そういえば、そのことだけどあの本にちょっと詳しいことかいてあってさ、実は〜なんだって」みたいに本は話の中で出てくるのだ。

丁寧に要約して、全体の意義の中にその本を位置づけ、それをそれなりにコンパクトな字数にまとめた文章は、会話には出てこない。そんなことを話してたら誰も聞く耳を持たないだろう。

日常の中の本はもっと身近な存在だ。

そして、本の特徴として、これは誰もが言っていることだけど、本は自分からは話しかけず、誰かが開いてくれるのを気長に待ってくれている。そして、ひとたび開くと、磨き抜かれた言葉をこれでもかと披露してくれる。それが読み手の心にふれることの領域は深い。

だから、一冊の本の存在の身近さを伝えてあげて、それを知った人が本を一度開いてくれさえすれば、「書評」の目指すところの、「本を紹介する」目標は達成されるのである。ずっと少ない手間で、自然な形で。

これは村上春樹の「ノルウェイの森」の中で自然にヘッセの「車輪の下」が出てくるような紹介法だ。こんな感じで自分が本から感じたものをさりげなく伝えれば良い。

最近、こんなふうに考えられるようになった。

だから、僕はもう下手な書評を書くことはなくなるだろう。というか、もう書けない。

僕はひょっとしたら、書評を書くことで、「こんな素晴らしい本を読んだ素晴らしく読書センスの良い自分」をひけらかしたかったのかもしれない。

でも、「本」を心から好きでいる者の一人として、僕は本を利用しないことに決めた。自分に響いた本の中身や言葉を、その時その時に合った形で誰かに手渡せれば、それを手にとってもらうことがあれば、それでいい。それがいい。


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