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ショート小説『ごはん一杯』

パリンという音がしてから、
茶碗が割れたのだと気づくまで時間がかかった。

こういう時、実家に居れば、
母「あらやだ、汐里ちゃんちょっと下がってて。お母さんが片付けるから」
父「大袈裟だろ。それくらい自分でやらせろ」
母「危ないでしょ、ね。はいはい、ここに入れてと」
父「……」
と、こんな感じだっただろう。

一人だと、茶碗が割れても大騒ぎにはならない。
急いで片付けなければいけないこともない。
実家で皿を割ったとき、あの急いで片付けなければならない、という切迫感はなんだろうか。
さっきまでご飯を盛って、口に運んでいたものが、
割れたとたん、危ない、汚いものになる。

割れた茶碗は、淡いピンク色の小花柄。
いかにも、という女性もののお茶碗だ。
こういう茶碗はたいてい、夫婦茶碗の「婦」の方だ。
私は極めて一般的で普通で平凡の家具や雑貨を、無難にそろえるタイプなので、割れた茶碗も当然、「婦」の茶碗であった。

片方が割れて、行き場を失った「夫」の茶碗はなぜか傷一つなく、元気な姿で食器棚に入っている。
もちろんこちらは、同じ小花柄だが深い青色で少し大きい、いかにも「夫」の茶碗だ。

私は、小食なせいか、こと食べることへの執着に関しては少ないタイプだ。
定食屋さんなんかでは、注文時にご飯を小盛りにしてくださいと言うし、
家での食事でも、お茶碗に山ができるほどのご飯を盛ったことはない。

「ダイエットしているの」と、よく聞かれる。
世間では、ダイエット者の第一関門が糖質制限、つまりご飯を減らすことなのだろう。
自分でもよく分からないが、私は小さい頃から、すぐお腹いっぱいになってしまう。しかし、これでも目一杯モリモリ食べて、一日の活力になっていると思う。

だいたいは、「なんか胃が小さいの。昔から」とか、適当に答えておく。
弘之に聞かれたときも、そう答えた。
弘之は、「ダイエットしなくても十分細いのにい~」と、
女子トークのように気を遣って言ってくれたのだが。
「お茶碗の上に山ができるように盛って、焼き肉をバウンドさせてご飯をかきこむことが夢なんだあ」と言ったら、弘之は何回もしたことあるよと言いながら、笑っていた。

「よく食べる女性が好き」だの、「女性はちょっとふっくらしてる方が可愛い」だの。
モリモリご飯を食べながら、女性のタイプをそんな風に語る男性とは、縁がないと思っていた。

弘之は、モリモリご飯を食べるが、女性にそれを求めることはないと言っていた。私の(男性的に)つまらないであろう体型に、とやかく言うことも無かった。
それが私には何より心地よかった。
作るのが好きな私、食べるのが好きな弘之という役割分担がはっきりしていて、互いに自分の好きなことを強要せず、互いの苦手なほうを相手が喜んでやってくれるという、幸せなシステムだった。

弘之が2週間前、「つい」関係を持った、と言っていた職場の後輩は、
よく食べる、ちょっとふっくらした、可愛らしい女性だった。


お互い仕事が忙しくなって来て、すれ違うことも増え、
同棲しようという計画も先延ばしになっていた頃だったから、
弘之と絶対結婚したいとか、そういう気持ちも消えていた。
だからそんなに、ダメージを受けなかったんだと思う。

別れ話をした翌朝も、いつも通り、お茶碗小盛りのご飯を食べていた。
ご飯の量が減ることも、増えすぎることもなく、いつも通りだった。

朝起きてすぐ、顔を洗ったときにも、弘之が置いて帰った歯ブラシやタオルといった細かいものが目に入り、まあ取りに来てもらうほどのものでもないし捨てようかなとか、案外冷静に考えていたほどだった。

とはいえ、ご飯を食べているうちに、
頭の中はちょっとずつ疲れてきて、
ああー、いつの間にか私の心も弘之から離れていたのかなとか、
にしても以前SNSで写真をみたあの子が相手とはなあー、とか、
悶々とした考えが巡るようになっていた。

すると、お茶碗が割れた。

ダメージを受けていないと見栄を張っていたが、お茶碗一個分が割れるくらいの衝撃はあったのだなあ、と気づいた。

しかし、割れた欠片を集めて掃除を終えた頃には、
「お茶碗を買わなければ―—!」
という熱い使命感が生まれていて、弘之のことはとうに頭から消えていた。
むしろ、「婦」だけ割れて、生き残った「夫」が食器棚の場所を取るよりは、「夫」を捨てる口実が来たのでタイミングよかったな、とさえ思った。

これまでの人生、失恋をしたことはあるが、
次の日学校や会社を休もうなどとは思ったことがなかった。

今日は初めて、会社を休んだ。
もちろん、自分のお茶碗を買いに行くためだ。

前から気になっていた、3駅隣の大きなビルの中の雑貨屋さんに行ってみることにした。
前のピンク色の小花柄も、一応気に入って買ったのだが、
夫婦茶碗という制約があったから、
今回は、全部の中から気に入ったものを買おう。

わざわざ電車に乗って行ったのに、雑貨屋さんでの滞在時間はたった10分ほどだった。

一目惚れしたからだ。


弘之さえも好きになるのに時間がかかった私が、一目惚れだ。
私は今日から、世の中の一目惚れを信じることにしよう。

即決してレジに向かった茶碗は、
子ども用かと思うくらい小さく、底が浅い形をしていて、
猫の模様があしらっている。
もうこれだけで、一目惚れだったのだが、一応、お椀の中もチェックした。
すると、お椀の底に肉球の可愛らしいマークがあった。
完璧だ。
ご飯を食べきると、可愛い模様が出て来る方が良いに決まっている。



私は急いでスーパーに駆け込み、肉を買って急ぎ足で帰宅した。

夢にまで見た焼肉ランチを決行した。

お茶碗に山のように盛ったご飯に、たれをたっぷりつけた肉をバウンドさせ、頬張る。
肉が口の中にあるうちに、ご飯で追いかける。

これだけ小さいお茶碗だと、ふんわり盛ればいつもの量で満足感が味わえる。小さい一口でも、山型になったご飯なら、思う存分かき込んだような気がする。
午後は何にもしないぞと宣言したくなるくらい、
お腹いっぱい食べた。
肉と、ご飯だけを、食べられるだけ。

ちなみにこれは、やけ食いの類ではない。
いつもとご飯の量が変わっていないからだ。

猫の肉球にたどり着いた頃、
私の夢がひとつ、叶っていた。
(完)


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