見出し画像

涙のわけ

午後のお茶を飲みながら、ふとその人は言った。

昔はね、甘いものが全くだめだったのよ。信じられないかもしれないけど、小さなお饅頭でさえ、全然食べられなかったのよ。

それなのに、その人はある日お饅頭屋に連れて行かれることになる。

パパとね、初めて出かけたのがお饅頭屋だったの。

女の子は甘いものが好きだという誰かの入れ知恵だったのだろうと、その人は笑った。胸躍らせ、待ちに待った日がお饅頭屋だったとは。

当時を思い出すように眉根を寄せる。けれどそこにはさっきまでの笑いは残さたままで、それが思い出を慈しんでいるように感じられて微笑ましい。

よりによって、って思っちゃったけど、言えるわけがないし、困ったわ。

さあさあ、と店で一番大きなお饅頭を出され、進退きわまった。好意を無にはできず、ここはもうやるしかないと腹をくくる。震える手でお饅頭を掴み上げ、一口かじったその瞬間、どっかーんと桜島が噴火した。彼女の目からぽろりと涙が落ちた。

本当に大きな噴火だったのよ。そりゃあびっくりしたわ。

噴火に驚いて泣いたのか、お饅頭を食べるのに苦戦して泣いたのか、自分でももうわからないと言う。けれどそれはまちがいなく大いなる救いの手だったのだ。涙を流したわけを問われることなく、それ以上お饅頭を食べることを強制されることなく、早々に彼らは帰途に着いた。

助かったわ、本当に。

そう言いながら目の前の人はお饅頭を手に取った。そして、それはそれは美味しそうに頬張った。

あの日からね、お饅頭を食べるたびに思い出しちゃうの。ぱくっと食べたらどっかーんって。初めてのお出かけだったのに。でも可笑しくて可笑しくて、やっぱり笑っちゃうのよねえ。それにほら、お饅頭もこんなに好きになっちゃった。

そう言って目尻にかすかに涙を滲ませた。その午後には、なに一つ大きなニュースは飛び込んでこなかったけれど、その涙が何のせいなのか、私も問うことはしなかった。だけど、じんわり心が温かくなった。ほっこりとして柔らかくなっていった。

あの日以来、私もやっぱり思い出す。同じように甘いものを得意とすることはない私だったけれど、時に口にするお饅頭には涙を流す若き日の彼女と、嘘みたいに雄大な噴火の光景が重なって仕方がない。もちろん実際に桜島を見たことはない。その噴火も然りだ。

胸踊らされたファーストデートで涙したわけは、永遠に秘密だったはずだろうに、長い時間の先で何気なく打ち明けられた。笑い話に仕立て上げられたそれは、けれどどこまでも特別な一瞬だったのだろうと思う。

大失敗のように見えてちっとも心が痛くないもの。ときめきなんて明後日方向なのに何度も思い出してしまうもの。

きっとそこには、心底彼女を心配してくれただろうまっすぐな優しさとか、自分さえも驚かされただろう秘められた自身の強さとか、言葉にはしなかったけれど、たくさんのものが散りばめられていたのだと思う。それは、なによりも愛しさを感じさせる大切なものだったということだ。

そんな小さなきらめきは、時間が過ぎ去って振り返って、ようやくわかるものなのかもしれない。夢に夢見る頃には気づかないけれど、本当に手にしたいものほど、何気ない時間の中に宿っているのかもしれない。だからこそ、誰かに伝えておきたかったのだろう、そう感じた。

こっそりと流されていくはずだった話を打ち明けるのは、ルール違反だろうか。いや、こんな素敵なエピソードはやっぱり、どこかで誰かの胸に、再び鮮やかに点ってほしいと思う。そしてそれはきっと、絵に描いたような時間を求めて頑張って、ちょっぴり疲れてしまった誰かの心を、優しいくすぐったさで満たしてくれるだろうと、思わずにはいられない。

サポートありがとうございます。重病に苦しむ子供たちの英国の慈善団体Roald Dahl’s Marvellous Children’s Charityに売り上げが寄付されるバラ、ロアルド・ダールを買わせていただきたいと思います。