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第139号(2021年7月26日) 夏休み読書企画「新しい戦争」論を掴む


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【夏休み読書企画】「新しい戦争」論を掴む

 7月も終わりに近づき、いよいよ「夏本番」という感じになってきました。
 我が家でもスイカとアイスの消費量が激増しまして、いよいよ夏休み始まったなぁという感じです。まぁ親父の方は別に休めるわけではないのですが。
 というわけで今回は夏休み読書企画です。
 テーマは「新しい戦争」論としてみました。

 まず取り上げるのは、イスラエルの軍事史家として有名なマーチン・ファン・クレフェルトによる『戦争の変遷』(原書房、2011年)です。

 本書は、戦争研究の古典であるカール・フォン・クラウゼヴィッツの名著『戦争論』との対話といった趣を持っており、そこでの中心的なテーマは、クラウゼヴィッツが描いた「戦争」とは本当に人類の普遍的な闘争形態なのか、とまとめられるでしょう。

 クレフェルトはクラウゼヴィッツを非常にリスペクトしています。少なくとも近代における戦争を概念化する手腕において、クラウゼヴィッツが最も傑出した理論家であることは明らかであり、この点はクレフェルトも変わりはありません。
 戦争とは国家の合理的な目的追求行為であることを示した「戦争とは他を以てする政治の延長である」という有名なテーゼ、そこでは戦闘の勝敗が決定的な意義を有するという「拡大された決闘」としての戦争の比喩、そして国家・軍隊・国民の「三位一体戦争」というビジョンは、ナポレオン時代から第二次世界大戦に至るまでの近代戦争を非常にうまくモデル化したものと言えます。
 しかし、問題は「近代の」というところです。
 クレフェルトが指摘するように、クラウゼヴィッツは自分が生き、実際に戦ったよりも以前の時代にはほとんど関心を示していません。そしてクレフェルトは、古今の西洋史を自在に駆使することで、近代以前には非クラウゼヴィッツ的な戦争の方が主流であったことを論証していきます。
 そもそも近代以前にはクラウゼヴィッツが自明視したような「国家」というものは存在しなかったのだ、というのがクレフェルトの出発点です。したがって、暴力は教会、地方領主、都市、傭兵集団などに広く拡散して存在していたのであり、戦争は「三位一体」などではなかったとクレフェルトは主張します。
 しかも、それは、国家以外の主体による「他を以てする政治の延長」でもありませんでした。戦争は宗教的信念、自らの生存、儀式などのために行われてきたのであり、場合によっては「魅力的だから」「楽しいから」という理由によってさえ行われてきた---これは現代では非常に挑発的というか、一部の人を激怒させそうな議論ですが、戦争という現象に関するスコープを広げて考えるならばたしかな事実でもあります。
 しかし、この事実を受け入れるならば、戦争と人殺しを隔てるものはなんなのでしょうか。クレフェルトはこれを、相互作用に求めます。戦争が一方的な暴力行使ではなく、相手がこちらに立ち向かってきて命を危険に晒す可能性があること。これが戦争の本質なのであって、したがって国家による目的追求行為であるか否かを超えて戦争は成立しうるとクレフェルトは主張します。
 クレフェルトの戦争観が現代性を持つのは、この点です。つまり、戦争が多様な主体による、多様な動機(「目的」とは限らない)に基づいた行為であるとするならば、現代がそうでないと考える理由はどこにあるのか。むしろ冷戦の集結によって米ソによる暴力の独占が崩れつつある今(本書の第一版は1991年に書かれていることに注意)、非クラウゼヴィッツ的な戦争こそが主流になっていくと考えるべきではないのか---
 アル・カイダがハイジャックした旅客機を米国の富の象徴である貿易センタービルに突っ込ませ、イラクとシリアで「カリフ制の再興」を唱えるイスラム過激派「イスラム国(IS)」が一時的な領域支配を確立し、アフガニスタンが再びタリバンの支配下に戻ろうとしている今、クレフェルトのビジョンは大変な慧眼だったと言わざるを得ないでしょう。

 また、戦争は目的追求行為とは限らない、という指摘は、21世紀に入ってから出てきたいわゆる「新しい戦争」論とも通底します。この言葉を最初に唱えたメアリー・カルドアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の事例を通じて、非クラウゼヴィッツ的な戦争観では理解し得ない暴力行使のパターンを見出しました(メアリー・カルドア『新戦争論』岩波書店、2003年)。

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、国家の崩壊によって共産主義国家の蓄えた軍事力が軍閥や犯罪集団に広く拡散し、暴力の行使が日常茶飯事となりましたが、カルドアは彼らが「目的追求」のためにそれを行なっているわけではないと喝破しました。古典的な(=クラウゼヴィッツ的な)戦争観においては、敵を打倒して領土を獲得するとか民族の独立を達成するという何らかの「前向きな」目標が存在したのに対して、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の当事者たちにはそれがなかったとカルドアは述べます。
 そこに存在したのはより「後ろ向き」な志向性であり、つまるところ戦争を続けるために戦争をするということです。というのも、戦争が続く限りにおいて軍閥や犯罪集団はある領域の住民を支配し、「税」を取り立てたり、資源利権をほしいままにできるのであって、戦争に白黒がついてもらっては困るわけです。
 そこで彼らは暴力を他の武装勢力ではなく住民に行使し、互いを憎んで和解できないようにしたり、恐怖を植え付けて逆らえないようにする---このように、「新しい戦争」では暴力行使は何らかの決定的手段ではなく、暴力行使の継続そのものが目的になっているというのがカルドアの観察でした。つまり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、戦争は国家によるものでもなければ目的追求行為でもなく、国家・軍隊・国民が「三位一体」となって戦うものでもなかったということです。
 そしてカルドアは、「新しい戦争」がさらに拡大していくと予見します。第二次世界大戦後の世界では経済のグローバル化と軍事同盟によって近代国家は徐々に衰退しており、暴力を管理しきれなくなっているから、というのがその理由です。

 ちなみにカルドアはクレフェルトをそう持ち上げているわけではありませんが(左翼なので多分クレフェルトのことは嫌いだと思う)、参考文献としては『戦争の変遷』を取り上げて公平に評価しており、クレフェルト→カルドアという思想史的な流れはたしかに確認できます。
 また、国家の衰退によって「新しい戦争」が広がっていくというビジョンはまさにクレフェルトの『戦争の変遷』でも描かれたとおりであり、したがって今後の戦争はますます原始的な手段によるものとなっていくだろう、とクレフェルトは予見しています。こうした世界では、ハイテク兵器や核兵器による高烈度戦争ではなく、さまざまな主体の行使する低烈度の暴力が慢性的に継続していくだろう、ということです。
 このクレフェルトのどうにも憂鬱な未来図を今のところ最も元気のいい感じに受け継いでいるのが第135号のNEW BOOKSのコーナーでも取り上げたショーン・マクフェイト『戦争の新しい10のルール』(中央公論新社、2021年)でしょう。 

 マクフェイトの議論は過激です。空母もF-35も新しい時代の戦争には役に立たない、そんな金があるなら特殊部隊に投資しろ、というあたりまでは「なるほどね」という感じですが、「傭兵を雇い、しかもその傭兵同士を争わせて利益を上げろ」とか「偽情報を流せ」とか「対反乱作戦の成功には圧倒的な破壊が一番」といった主張を目にすると大丈夫かコイツ、という感想が思わず浮かんできます。
 このように、マクフェイトの議論は「乱暴なクレフェルト」のような趣があるわけですが、両者を大きく隔てるのはルールに対するこだわりでしょう。マクフェイトは「戦争にルールもクソもあるか」という態度で一貫しているのに対して、クレフェルトは「戦争はクラウゼヴィッツ的なものばかりではないかもしれないが、それぞれの戦争には独自のルールがあるのだ」という点を強調します。
 クレフェルトは『戦争文化論』という本も書いていますが、要は彼にとって戦争とは人類の文化的(文明的とは限らない)行為なのであって、ある時代・コミュニティのカルチャーを濃厚に反映すると見るわけですね。とすると、カルチャーを無視して剥き出しの闘争に勝利すればよい、というマクフェイトの議論は結局「闘争には勝てるが戦争には負ける」、つまり闘争の結果を自国・敵国・国際社会からどう受け取られるかの競争に失敗する可能性を孕んでいるようにも思われてきます。
 こういう教官に教わっている我が同盟国の軍人たち、大丈夫かなぁという感じがしてきますが、しかし「闘争」方法に限っていえば、マクフェイトの著作は議論の材料にはなるでしょう。

 もう一つ、クレフェルトの思想から広がっていった思想的方向性としては、ルパート・スミスの「人間(じんかん)戦争」論があります。
 英陸軍軍人のスミスは元々戦車将校であり、湾岸戦争では第7機甲師団を率いて戦ったという戦歴の持ち主でもあるのですが、その後、国連のボスニア・ヘルツェゴヴィナ派遣部隊司令官を務めています(最終的には欧州連合軍幅最高司令官)。つまり、カルドアと同じ現象をちょっと違った立場から見ていたのがスミスであるわけですが、その経験をもとに彼が書いた『軍事力の効用』(原書房、2014年)はカルドアとの共通性と相違点とを両方孕んでいます。

 共通性というのは『新戦争論』に関して述べたとおりで、暴力が勝利のために行使されるのでなく、交戦主体にとって都合のよい「状況」を作り出すために用いられるのが「新しい戦争」だということです。
 ただ、スミスは、20世紀の幅広い軍事史を引きながら、こうした軍事力の使い道(効用)が過去の国家・非国家主体にとってそう珍しいものではなかったことを明らかにしています。つまり、「新しい戦争」はクレフェルトやカルドアが前提とする「国家の衰退」とは結びついておらず、ピンピンしている近代国家が採用しうる戦略でもある、ということです。
 となれば、非クラウゼヴィッツ的に軍事力を行使する敵にどう対処するのか、あるいはこうした手段で我に有利な状況をどうやって作り出せるのか、というのが軍人としては当然気になってくるわけで、この点がカルドアとは大きく異なるところと言えるでしょう。
「新しい戦争」に対するカルドアの処方箋が「市民社会のエンパワーメント」といういかにも左翼っぽい(よくも悪くも)ものであったのに対し、軍人たちの脳味噌はやはりちょっと違う働きをするわけです。
 そして、スミスの問題意識は、米海兵隊の退役将校にして軍事理論家であるフランク・ホフマンによって「ハイブリッド戦(hybrid warfare)」という概念にまとめ上げられました。
 ホフマンは単行本を出しておらず、したがって邦訳もないのですが、彼の著作自体はだいたいネットで読めます。一番代表的なのは2007年の『ハイブリッド戦争の台頭』でしょうか。
 ここでホフマンが「ハイブリッド戦争」の典型例として取り上げているのは2006年の第二次レバノン戦争におけるヒズボラの戦い方です。すなわち、優勢なイスラエル軍との戦闘に際してヒズボラは勝利を追求せず、代わりにイスラエル軍が押されている場面や、民間人が巻き添え被害を喰らった場面などは積極的に拡散して、世界中でヒズボラへの同情とイスラエル非難の空気を作った、ということです。
 ホフマンは、こうした「軍事力の効用」を参考に米海兵隊は戦力組成やその運用を大幅に見直すべきだと主張していますが、これはどちらというと「ハイブリッド戦」を駆使する相手に大国がどう負けないかという議論が主です。スミスの議論も同様であって、この辺は基本的に「秩序維持」側に立ち続けてきた英米の軍人の発想と言えるでしょう。

 カルドアの見たボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争のように、「新しい戦争」は今後も増加していくでしょう。
 ただ、それが全てかどうかはまた別の話です。コロナ危機が再確認したように、近代国家は意外としぶといものであり、特に危機においては現在も人々は国家以上に頼るものを持ちません。また、米中対立に見られるように、国家と国家が目的追求のために相争う可能性というものは依然、排除されません。
 とするならば、21世紀の世界というのは、クラウゼヴィッツ的な戦争と非クラウゼヴィッツ的な戦争が併存するような場所と捉えた方が正確なのかもしれませんし、その中には国家が行使する大規模かつ組織的な非クラウゼヴィッツ戦争、みたいなものも含まれてくるでしょう。
 ロシアのウクライナ介入なんかはまさにこういう趣があり、じゃあその実態はどんなものだったのか、というのが私の最近の関心事項です。この点については今春に上梓した『現代ロシアの軍事戦略』でどうにか論点出しくらいはできたかなーと思っているのですが、現在さらなる精緻化を目指しているところです。

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