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手をつなぐ二人の距離は 第8話

「だろ、やっぱりチェリが一番だろ!」
 春木は、今日何度目か分からない台詞を口にした。

「スローテンポが嫌なら、シュトゥットガルド版を聴けばいい。まだ若い頃の録音だからテンポもそんなに遅くないし、音質も十分鑑賞に耐えるレベルだ」
 初めて言葉を交わした次の日だというのに、春木は朝からチェリビダッケについて話し続けている。この昼休みも、なんと弁当を持って校庭の階段までついてきたのだ。おかげで、今日、僕と那由は一言も話せていない。那由は那由なりに気を遣っているらしく、僕と春木の会話には一切口を挟まない。……ひょっとしたら興味がないだけかもしれないけど。
 マシンガントークの隙を突いて、僕は昨日から気になっていたことを聞いてみた。
「なあ、春木くん」
「敦でいいぞ」
「じゃあ敦、何で昨日、那由のことを『様』付けで呼んだんだ?」
「ああ、そのことか。細かいこと気にするやつだな」敦は那由をちらっと見た。
「みんな、穂積さんのことは『様』付けで呼んでるんだよ。お前のせいで」
「僕のせい?」
 敦はギャハハ、と笑いだした。
「お前がお嬢様に仕える下僕に見えるからな。おまえのあだ名は『あかし』だ」
「あだ名じゃないじゃないか」
「下僕は呼び捨てだろ」
 本当にこいつは思ったことを平気で口に出す奴だ。
「しっかし、お前の家すげえな。普通、『チェリ聴いてこい』って言ってもその晩に聴いてこれないぞ。ブルックナーだけで何枚あるんだ」
「自分で無茶ぶりしておいて驚くなよ」
 確かに、普通の家には置いてないかも知れない。
「親がオーディオマニアなのか」
「母さんの持ってるCDが、家にたくさんあるんだ。ステレオも」
「珍しいな、女の人がオーディオマニアとは」
 そうなのかな。演奏者は女の人もたくさんいるのにね。
「僕にはよく分からないけど、結構大きなスピーカーだよ。確か、タンノイっていう会社の、ビンテージスピーカーだって聞いたことがある」
「何!?」
 敦の眼の色が変わった。
「物は相談だが、明日は土曜日だろ? 午後、お前の家に行っていいか。是非そのステレオ、聴いてみたい。嫌とは言わせない」
「それは『相談』じゃないだろ!」
 クラスメイトを家に呼ぶなんて、何年ぶりだろうか。相変わらず強引な敦につっこみを入れつつも、少しうきうきしてきた。
 敦は、なぜかまた那由の方をちらりと見て続けた。
「それとさ、もう一人、友達を連れて行っても良いだろ。俺の幼なじみでさ、小学校の頃からヴァイオリンやってる音楽好きなんだ」
「そりゃかまわないけど、何組の人?」
「いや、私立の中学に行ってる」
 ドキッとした。
「まさか名星中?」僕のかつて入学した学校。
「違うよ」
 それを聞いて、少し安心した。
「よし決まった! くーっ、明日が待ち遠しいぜ!」

 そして土曜日。例によって、母さんは仕事だ。キャベツ、にんじん、タマネギ、もやし、ピーマン、ニラ、豚肉を入れた特製焼きそばで僕らは早めに昼ご飯をすませ、来客を迎える準備を始めた。
「おばさん、喜んでたね。いやあ、これはおいしそうな」
 那由が、クッキー缶の封を開けながら言う。
 夕べ、母さんに、土曜日にクラスメイトが来ること、その時ステレオを使いたいことを伝えると、母さんは速攻で豊橋駅前まで車を出して、その缶入りのクッキーを買ってきてくれたのだ。
「お皿はどれが良いんだっけ」
 那由が食器棚を開けた。でも、机の上には缶の封をしていた粘着テープが、丸めて放っておかれている。
「それより、ほら、缶のテープが」
「あ、ごめーん」
 何故気づかないのか。僕は、そんな那由を横目に見ながら、沸かしたお湯を保温ポットに入れた。

 そうこうしているうちに約束の午後一時になった。
 玄関のチャイムが鳴り、インターホンの通話スイッチを押すと、「春木です」と、敦の声が聞こえた。
「待ってて、今、開けるから」
 那由と二人で玄関に行き、ドアを開けた。そこには敦と、もう一人、メチャクチャ可愛い女の子が立っていた。
「今日はありがとう。この子が、俺の幼なじみで音楽仲間の永野佳音」
「初めまして。永野佳音といいます。今日は、図々しく押しかけてしまって申し訳ありません」
「じゃ、おじゃましまーす」
 敦は堂々と、永野さんは遠慮がちに家に上がってきた。
「ど、どうぞ」と言いながらも、僕はほとんどパニック状態だった。
 何で敦が女の子を連れてるんだ。それもさらさら髪のストレートロング、ふわふわの白いワンピースに薄い水色のカーディガン、色白細身でまつげが長い、まさにこの世のかわいいものを凝縮したらこの子になるんじゃないか、というような子。
 ……いや、問題はそこじゃないよな。僕は我に返った。連れてくる友達が女の子だなんて、全く聞いてないぞ。
 横を見れば、那由は完全にフリーズしている。あのどたばた那由が、ぴくりとも動かない。
「へー、本当に一緒に住んでんだ。いとこ同士って言うの、本当だったんだな」
 のんきなことを言う敦の口をガムテープでぐるぐる巻きにしたい衝動がこみあげるが、かろうじて抑える。
「まあ、俺たちは、ブルックナーにどっぷり浸るとして、穂積さんは退屈だろうから佳音と女の子同士で話しててよ」
 敦はいかにも「俺、気が利くだろ」という顔で言った。「那由は初対面の人間がとても苦手、同年代の女の子なら尚更」そんなこと、昨日会ったばかりの敦が、知っている訳がない。
 どうして良いか分からないまま、とりあえず固まったままの那由の手を引きながら、二人を応接間に案内する。

 入るなり、
「なんだこのシステム」
 敦が大声を上げた。
「何か変か? 大したことなければごめんな、僕、機械のことはよく分からないから」
 実はそんなに大したことないスピーカーだったのだろうか。
「逆だ逆、スピーカーもだけど、それにつながってるアンプとか、CDプレーヤーの方がものすごいぞ。お前いつもこんなので音楽聴いてんのか。よく聞けよ」
 機械の前をうろうろしながら、敦の演説が始まった。ちょっと名探偵の謎解きシーンみたいだ。
「駆動するのは日本が誇る超高級真空管アンプメーカー、オーディオノートのプリメイン。CDプレイヤーも日本製最高級、アキュフェーズのDP750」敦は息を継いだ。「分かる? 俺の言いたいこと」
 いや、さっぱり分からない。
「そこにつながっているアンプ、CDプレーヤーは、はっきり言って価格的にオーバースペックだよ。このスピーカーを置いているスタンドも特注ぽいし、下手するとスピーカーと同じぐらいのお金がかかっている。げ。よく見ると、コンセントも明らかにオーディオ専用電源じゃん」
 何だか、家にあった物はとにかく色々すごいものだったらしい。
「敦、良かったら自分で操作してくれていいよ」
「本当か!?」
 敦は、持っていた鞄からCDを取り出した。持参かよ。
「チェリビダッケがサントリーホールのこけら落としに、ミュンヘンフィルを指揮したブルックナーの5番。俺の一番のお気に入りなんだ。こんなにすごいシステムだったらLPを持ってくれば……あれ、アナログプレーヤーは無いのか」
 敦は手慣れた調子で電源を入れ、CDをセットししながら聞いてきた。
「アナログってレコードプレーヤのことか」
「当たり前だろ」
「うちには、このCDプレーヤーと、あとDVDしかないよ」
 敦はなにか納得がいかないようだ。
「何か変なのか」
「いや、変、て訳じゃないんだけど」言葉を一回切って、「最近のマニアはCDよりレコードなんだよ。CDはデジタル音源だから、パソコンからのストリーム音源で充分、それよりもレコードの方がずっと音がよいからって」
「へー。そういうもんなんだ」
「まあいい。このシステムでどう鳴るのか…… タンノイⅢLZオリジナルにオーディオノートか。うわー、ぞくぞくしてきた!」
 プレイボタンが押され、拍手の音が鳴り響いた。そして短い静寂のあと、バイオリンの音が、何もない空間からゆっくりと、まるで浮き上がってくるように流れた。その流れは次第次第に大きくなったと思うと、突然ホルンがそれに重なり、部屋に一気に音が満ちあふれる。
 そしてその激流はふっと止み、ホールの残響だけが響く。残響が完全になくなったその瞬間、また次のフレーズが鳴り始めた。敦は一言も口をきかず、チェリビダッケの奏でるブルックナーに集中している。

 曲が始まって5分。那由が、「私、お茶を入れてくる」と大きめな声を出した。金縛りが溶けたのか、この状況から抜け出す方法を思いついたのか。しかし敦の集中はとぎれなかった。
 那由がドアを開けたので、僕もあわててそれに続く。
「じゃ、私もお手伝いします」
 永野さんも一緒についてきた。僕らは敦を残し、キッチンに向かった。
 まさか女の子が来るとは思わなかったから、お昼の焼きそばに使ったニラの匂いが少し恥ずかしい。那由は、やかんに水を注いでいる。お湯を沸かしている間、僕と永野さんは何となくテーブルを囲んで座る感じになった。
「敦、すごい集中力だね」僕は永野さんに言った。「僕もクラシック好きだけど、あそこまでは」
「敦君は、本当にクラシックが好きだから」
「てっきり、永野さんもそうだと思ってたよ。敦から、バイオリンやってるって聞いたし」
「私も、あそこまでは……」
 会話がとぎれた。あわてて次の話題を探す。
「紅茶をいれたら、とりあえずリビングに移動しよう。敦の分のお茶は冷めちゃうけど、まあ、自業自得って事で」
「ふふふ」
 永野さんは少し笑った。僕も、笑いかえしてみる。那由は、やかんの前に立ち、お湯が沸くのをじーっと待っている。
「那由、替わるよ、紅茶入れるの。えっと、でも、永野さんがコーヒーの方が良ければそっちにするけど」
「あ、私はどちらでも好きです」
「そう? じゃあ、紅茶で」
 僕は椅子を離れ、那由と場所を交代した。保温しておいたお湯をティーポットに注ぎ、暖める。そのお湯をカップに移し、空いたポットに紅茶の葉を計って入れる。そうしているうちにやかんの出す音が高くなってきた。高くなりきった所ですかさず火を止め、やかんからポットに注いでふきんをかぶせ、タイマーを掛けた。
「すごい、本格的」
「うん、晴ちゃんの淹れたお茶は、すごくおいしいんだから」
 那由が、自分のことのように自慢する。初めて、しかも唐突に話しかけて来た那由を、永野さんはニコッと笑って受け流した。その対応の見事さは、まさに「THE 女の子」だ。
 このままでは、空気が良くない。でも、僕にできることと言えば、永野さんに適当な話題を振ることくらいだ。ブルックナーの五番は一時間以上の大作だけど、それが終わるまで敦は動かないだろう。とりあえずは、待つしかない。
 紅茶を淹れた四人分のカップをお盆に載せ、リビングに移動する。那由も、クッキーを皿に載せてついてきた。
「とりあえず、永野さん座ってよ」
「はい、じゃ、失礼します」
 永野さんに座ってもらった所で、紅茶のお盆をテーブルにおいたとき、
「あ、私、私が置いたげる!」と、那由が急に手を伸ばしてきた。ソーサーに手がぶつかり、バランスが崩れる。
「キャッ!」
 カップがひっくり返り、永野さんのカーディガンに紅茶がかかった。最悪だ!
「わわわわわ!」
 僕はパニックになりながらも洗面所へ飛び込み、バスタオルやフェイスタオルを取ってきた。
「大丈夫!? ごめん、永野さん、熱くなかった!?」
 そう言いながら、僕は永野さんにタオルを渡した。
「いえ、そんなにかかってないし、大丈夫ですから」
 そう言いながら永野さんはタオルを受け取り、紅茶がかかったカーディガンの裾をぽんぽんと拭きだした。
 振り向けば、那由はまだ呆然と突っ立ったままだ。
「那由、永野さんに謝って。それから紅茶を拭いてくれ」
 僕が言い終わる前に、那由は無言でリビングを飛び出し、二階に駆け上がっていった。
「那由!」
 大声を上げた僕に、永野さんが首を振った。那由を怒らないで、と言うことか。僕は、改めて頭を下げた。
「本当にごめん」
「こちらこそ、気を遣わせてごめんなさい。私がもう少し、素早く避けていれば」
「そんなことないよ……カーディガンはクリーニングしてからお返しするよ」
「大丈夫ですよ、これぐらい」
 微笑む永野さん。
「それぐらいはさせて欲しいんだ、お願い」
「そうですか、じゃ、お言葉に甘えますね」
永野さんは、そう言ってカーディガンをゆっくり脱ぎ始めた。その動作だけで、僕はドキドキしてしまう。目をそらしながら、こぼれた紅茶とひっくり返ったままのカップを片付けた。
「代わりを淹れてくるから、少し待ってて」
 キッチンに戻り、紅茶を淹れ直す。動揺があらかた治まったところで、三人分のカップをお盆に載せた。

「那由さんの分は?」
 リビングに戻ると、カップの数が減っていることに気づいた永野さんが訊いてきた。
「もともと、一人でいるのが好きな奴だから」お客が帰るまでそっとしておいた方がいい。僕はそう判断した。
「那由さんと明石君、いとこ同士ってきいてるけど、仲が良いんだね。私、きょうだいも、年の近いいとこもいないから、よく分からないけど」
「僕もきょうだいはいないけど……」
「でも、きょうだいに近いんじゃない? 一緒の家に暮らしているんだから」
「それも、ここ二ヶ月のことだから、なんとも……そうだ、お茶、冷めないうちに飲んでよ」ちょっと、那由のことから話題を変えたくなった。
「永野さんは、音楽習ってるんだよね? どんな曲が好きなの?」
「クラシックも好きなんだけど、私、ホントはお父さんの影響でジャズが好きなの」
 紅茶を一口飲んで、永野さんは続けた。
「お父さん、自分はジャズスノッブなのに、私が女の子だからってバイオリンを習わせたのよ。幼稚園に行く前から」
「その年だと、自分に選択権はないね」
「大きくなってから、何故ピアノにしなかったのって訊ねたら、お父さんも首をかしげてた。変でしょ」
「ははは」とりあえず笑っておいた。「ジャズのCDもあるよ、家に。たくさん」
「え、本当」永野さんは身を乗り出してきた。敦とそっくりな反応に少々面食らう。流石、幼なじみというべきか。
「僕の母さんが、ジャズ好きなんだ。特に、マイルス・デイヴィスが」
 アパートにいた時は、母さんはよく自分の小さなCDプレーヤーで、マイルスのフリージャズを大音量で聴いていた。小学生だった僕には、騒音でしかなかったけど。
「DVDもあるよ、ライブ・アラウンド・ザ・ワールドってやつ。見ようか?」
「え、本当!? あ、でも」
 永野さんは応接間の敦を気にしているようだ。
「大丈夫だよ、隣の部屋は防音になってるんだ。だからステレオの音、ほとんど聞こえてこないでしょ」
「言われてみれば、本当ね。じゃ、よろしくお願いします」
 僕が応接間にDVDを取りに行っても、敦は身動きもしなかった。こいつは放っておこう。僕はリビングにとって返し、テレビとDVDレコーダーの電源を入れた。
 フリージャズの不協和音はそのまま当時の母さんの心象風景のようで、僕は今までほとんどジャズを聴かなかった。避けていたと言っても良い。にもかかわらず永野さんにこんな申し出をしている自分にびっくりだ。
 テレビの画面に、彼以外にはぜったい似合わないであろう派手な衣装に、大きなサングラスを掛けたマイルス・デイヴィスが映し出される。ステージ上を気ままに歩き回りながら、衣装と同じく赤い色のトランペットを唇に当てた。
 一瞬だけ鳴らされたその音に、観客は完全に魅了され、次の音を待ち望む。待ちきれなくなる寸前にメロディが吹き鳴らされ、「もう少し聴きたい」と欲望する絶妙のタイミングで終了する。
 横に立つサックス奏者も超絶技巧を見せつけてくるが、それを見つめるマイルスの目は、「たくさん音を出せばいいってもんじゃない」と言っているようだ。一段高い所から。
 永野さんも、さっきまでの緊張した感じはどこへやら、マイルスの音楽に夢中、というより虜になって、小刻みに体を動かしている。僕の存在など、眼中にないようだ。……つくづく、敦に似ている。
 気づかれる心配はなさそうなので、僕は画面のマイルスではなく、永野さんを見ていた。永野さんの色白な頬が桜色に染まって、余計に可愛く見える。那由のことも気になってはいたが、結局僕はリビングに居続けた。だって、お客さんを放って置く訳にはいかないじゃないか。

 丁度DVDを見終わった頃、リビングのドアがバンと開いて、敦が飛び込んできた。
「すげえな、このステレオ! サントリーホールの音がかなり再現されてるんじゃないか!? 弱音は弱音のまま聴こえるし、残響音がすっと消える瞬間まで分かるし。ブルックナー大休止ってのはこういう物だとつくづく思い知らされたよ。あーあ、生演奏を聴きたくなっちゃうな」
「次、わたし! マイルス聴くから、替わって」
 永野さんが大きい声で主張した。永野さん、こんな声も出すんだ。
「え、なに、 ジャズもあるの? じゃあ、順番だな」と、敦はあっさり永野さんに譲った。
 聴くCDは、永野さんに直接選んでもらうことにした。
「うわ、ほんと、たくさん……」
 永野さんは、しばらく棚をパタパタと探った。
「じゃあ、これね。『マイルス・イン・ベルリン』。マイルス・デイヴィス・クインテット全盛期のライブ録音」
 そう言って取り出したのは、くわえ煙草に蝶ネクタイのマイルスだった。
 プレイボタンを押すと、少しの間があってスピーカーから超アップテンポの曲が流れ出す。
「『マイルストーンズ』!」 永野さんがつぶやく。
 トランペットの「パラララララ」と流れるフレーズに、リズムセッションが絡んでいく。一際抜きん出ているのはドラムだ。シンバルの、ちょっと他の誰にも出せないだろう独特の軽やかさが全体を支える。そこにサックスが、トランペットと同じく一音の無駄な音もなく追従していく。
 さっきのDVDでは体を揺らしていた永野さんは、今度はあっけにとられたように身動きしなくなった。
「ライブハウスの一番良い席で聴いてるような感じだな。このシステムならジャズもここまで分厚く鳴らせる」
 クラシックほどのめり込んでいないからだろう。敦が、僕の耳元に話しかけてきた。
 あっという間に前半の三曲が終わる。
「すごい! すごい! あー、もう、『すごい』以外の言葉が出てこない自分が悔しい」
「あれ? そう言えば、穂積さんはどうした?」
 那由の不在に気づいた敦が、訊いてきた。
「それが……」
 永野さんがやんわりと事情を説明した。
「何だ。そんなこと、気にすることないのにな。失敗は誰にでもあるし。第一、佳音も別に気にしてないだろ?」
 永野さんは、コクンと頷く。
「むしろ、このままの方が佳音も気になるんじゃないか? 晴宏、呼んできてくれよ」
「私からもお願い。本当に気にしてないし、洗えばキレイになるから」
 二人に促され、僕は二階に上がった。

「おーい、那由、そろそろ出てこないか。みんなでお茶のもうよ」
 返事がない。
「ドア、開けるよ」
 ノブをひねって扉を開けようとしたが、開かない。と言うより、中から鍵がかかっている。那由の部屋にだけ鍵がついていることを、今になって思い出した。
「那由」
 もう一度、ドア越しに呼びかけつつ、コンコン、と、那由の部屋の扉をノックする。
「晴ちゃん、ごめん」
 向こうから、那由の声がした。でも、今まで聞いたこともないような弱々しい声だ。
「お腹が痛くて、動きたくないんだ。お昼食べ過ぎたのかな。ちょっと休めば、良くなるから」
「でも、さっきまで元気だったじゃないか」
 キッチンでの那由の振る舞いを思い出しながら、僕は言った。
「永野さん、怒ってないよ。紅茶は淹れ直してあげるから、一緒に飲もうよ」
「あ、頭も痛いんだ! 風邪かも知れない。お客さんにうつすと悪いから、私は寝とくよ。晴ちゃんは、みんなと楽しんできてね!」
 バサッ、と布団をかぶったらしい音がして、それきり那由の声は途絶えてしまった。

「穂積さん、どうだって?」
 応接間に降りた僕に、敦が訊いてきた。
「昼ご飯を食べすぎて腹痛になった、だって。少し休めば治るから、ごめんなさい、って伝えて欲しいって」
「そっかー、じゃ、しょうがないな」
 敦はあっけらかんと言った。
「晴宏、他にも聴かせてくれよ。なんかおすすめの曲、ないか?」
「そんな、僕、二人ほどクラシックもジャズも詳しくないし。しかも二人とも気に入りそうな曲なんて」
「何でも良いんだよ。こんなすげえステレオで、普段お前が何聴いてるかも知りたいし」
「何って、この部屋のラックにあるやつを適当にだよ」
「適当ねぇ」
 敦はラックを見渡した。「CD、1000枚くらいあるぜ。適当にって、どれにしようかな、で聴いてる訳じゃないだろ」
 実はそんなもんなのだ。確かにクラシックは聴くけれど、気に入ったものばかり繰り返しだし、ジャズは滅多に手をつけないし。この二人の前では、僕の知識なんて浅すぎて恥ずかしい。
 悩んだ末、チック・コリアの曲をバイオリニストがカバーした「スペイン」を選ぶことにした。
 鳴らし始めて一分もたたないうちに、
「悪くないけど、これなら、オリジナルの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』の方が良いんじゃない?」
「あのフルートの奴か。俺は、アル・ジャロウのボーカルのヤツが好きだけど」
 息の合った厳しい言葉に、僕は音楽のセンスを全否定された気分になった。ジャズでバイオリン、永野さんを意識した選曲が完全に裏目に出た。
「他のもない? 今度はクラシックが良いな」敦が言う。
 傷ついたプライドのため、今度は本当に自分の趣味で選んでみる。
 マウエスベルガー指揮の「マタイ受難曲」。紺色の外箱からケースを取り出して開けると、三枚組の宗教画が広がる。このCDを作った人がどれだけこの曲を大切に思っているか、この凝った装丁からも伝わってくるようだ。そっと左端の一枚を外して、プレイヤーにかけた。
 目の前に大きな舞台が実感すら伴って浮かび上がり、声が、音が、部屋を満たしていく。
 大人の声、子供の声が幾重にも重なり合い、途切れず響き続ける。響きが永遠に続くかのように錯覚さえしてくる頃、その様々な声が呼吸を合わせてフッ、と一瞬止まり、また豊かに流れ出す。僕はキリスト教徒ではないけれど、この曲の良さ、バッハの偉大さは、このCDからも理解できる気がする。少なくとも、かけらだけは。
 長い曲なので、とりあえず今日は一枚目だけにしておいた。永野さんは、ため息をついて言った。
「私の学校、キリスト教系だから、講堂で賛美歌を歌ったりもするけど……これは全然違うわ。バッハって、こんなに感動的だったのね」
 敦も、「合唱も良いもんだな。また続きを聴かせてくれよ、今度はいつにしようか?」と身を乗り出してきた。
 こんなに喜んでもらえるなら、僕も勧めた甲斐があった。じわじわと嬉しい。

 とりあえず、また近いうちに続きを聴くことを約束して、五時になったのを機に二人は帰っていった。
 僕は二人を玄関で見送ってから、もう一度那由の部屋をノックした。やっぱり返事がない。
 仕方ないので、僕はご飯を炊くことにした。
 五合の米をとぎ、給水させる。その間に紅茶やなんかの片付けをして、近所のクリーニング屋さんにカーディガンを持って行く。本当は一時間ほど吸水させておきたいけど、今日はやむを得ない。諦めて炊飯器のスイッチを入れた。
 ご飯が炊けるまでに、冷蔵庫にあった鮭とたらこを焼き、削り節に醤油を少したらして、塩昆布、梅干し、そして海苔を準備する。
 そうこうしているうちにご飯が炊けたので、僕はおにぎりを握った。少し小さめの三角おにぎりが十五個できた。具を変えた五個ずつお皿に載せて、ほうじ茶を淹れる。
 母さんの分はラップを掛けておいて、二階に上がりノックをする。
「那由、夕ご飯だよ、おにぎりだよ」
 飛び出してくるかも、と淡い期待を込めて声を掛けてみたが、
「うーん、食欲がないんだ。ごめんね」
と言ったきり、また静かになってしまった。

 リビングで、どうでも良いテレビ番組を見ながら、僕は久々に一人で夕飯を食べた。おにぎりは、何の味もしなかった。だから、そのままお茶で流し込んだ。
 敦も、永野さんも、良いひとたちだ。二人の振る舞いには何一つ問題はなかった。むしろ永野さんにはこっちが謝りたいくらいだ。
 だとすれば、那由の調子がおかしいのは僕の所為ということになる。
 しかし、僕が原因だと仮定して。それでも僕は、今日僕が取った以上の対応はできなかっただろう。僕は僕のベストを尽くしたはずだ。お客さんは精一杯もてなしたし、那由にも、ちゃんと声を掛けたし。
 後片付けをして自室に帰り、昨日の交換日記を開いてみる。

六月五日(金)
 晴ちゃんに友達ができて良かった!
 なんか、明るい人だねえ。晴ちゃんはあまり話す方じゃないから、ちょうどいいんじゃない? 明日は、もう一人増えるんでしょ? 三人で話が弾むといいね♪
 そのかわり、日曜は私に付き合ってよ?
 題して「自転車で川沿いに行けるとこまで行ってみるツアー」
 よろしく!

 昨日の那由の文字が弾んでいる。僕は、返事を書くことにした。

六月六日(土)
 おなかの具合はどう? 明日は動けそう?
 まさか、女の子が来るとは思わなかったよ。びっくりした。きれいな子だったね。僕も緊張しちゃったよ。
 永野さん、対応も大人だったし、見習わなくちゃな。これからも、たまに来てくれるようになるのかな。那由とも仲良くなれるといいね。

 僕は「食べられるようなら食べて」というメモを作り、お皿と、淹れ直したほうじ茶の水筒に添えて、日記と一緒に那由の部屋の前に置いておいた。
 明日は、那由と自転車に乗れるだろうか。


次の話はこちらです。


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