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手をつなぐ二人の距離は 第9話

「俺の勘も外れたなあ」
 月曜日。敦は僕の前で腕組みをしている。

 結局、那由は日曜日の一日中、部屋にこもって姿をあらわさなかった。おにぎりは朝にはなくなっていたので、食べてはくれたらしい。それどころかお腹がすいて夜中にこっそり出てきたらしく、キッチンが散らかっていた。その代わり、洗濯してあった制服のカッターシャツが、いつもに増してアイロンを念入りにあてられ、ピカピカになって居間のカーテンレールに掛かっていた。ほんとに座敷童みたいだけど、そんなに僕と顔を合わせたくないんだろうか。
 母さんは相変わらず忙しくて、相談もできない。結局、那由から交換日記も帰ってこない。
 なのに、月曜の朝。
「おっはよう!」
と、突然那由はいつもと変わらない顔で僕の部屋に飛び込んできた。まるで何事もなかったかのように、である。不可解だ。理解に苦しむ。昨日の僕の煩悶は何だったんだ。しかし昨日の那由に戻るのが怖くて、何も言えない。
 そしていつものように一緒に登校し、それぞれの教室に入ったところで敦が声を掛けてきた、と言う訳だ。

「四人のほうが、うまくいくと思ったんだけどな」
「どういう事だよ」
「あれから、穂積さんどうだった? お腹痛いって言ってたけど」
 どうもこうも、お前のよく分からん企みのせいで散々だった、とは言えず、
「まあ、もう月曜には平気な顔してたよ」とだけ返す。
「そっか、それなら良いんだ」敦は続けた。
「土曜にはさぁ、四人でメッセージアプリのグループ作ろうとか思ってたんだけどな。どたばたしちゃったし、お前んとこのステレオはすごいし、忘れちゃってたからさ。様子が分からなくてな、気にはしてたんだけど」
「気にしてくれてたのか、悪かったな。まあ、どっちにしろ那由はガラケーだから無理だよ」
「うわマジか」
 そこに、「修ちゃーん、国語の辞書持ってない?」と、那由が教室の戸口に顔を出した。
 驚いたことに、僕より先に敦が那由に近づいていった。那由の表情がフリーズしたのが、見て取れた。
「佳音から伝言」敦は言った。
「自分は何も気にしてないし、もし自分が何か穂積さんの気に障ることをしたんだったらごめんなさい、だってさ」
 那由は何も答えず、棒立ちになっていた。と思ったら、突然、
「私、カーディガン、直接永野さんに返したい。謝りたい」
と大声を出した。
「わ、分かった。伝えとくよ」
 那由の剣幕に敦は気圧されたようだったが、どうにか頷いた。那由はそのままくるっときびすを返すと、僕には何も言わないまま教室に帰っていった。
「……やっぱり、あれからまだ何かあったんだな?」
 敦は心配そうに僕に尋ねた。
「いや、それは……」
 だんだん消え入りそうな声になってしまう。
「あれはどう見ても『平気な顔』じゃないよな。なのに、月曜には平気な顔をしてた、とお前は言う。二つを総合すると、まだ平気じゃないけど、お前は俺らと楽しそうだったし、何とかお前の前だけでは平気な顔をすることに決めた、ってところだろ」
 今朝の態度の急変は、そういう事だったのだろうか。那由、分かりづら過ぎるよ。
「お前、釣った魚にエサはやらないってタイプだな」
「どういう意味だ」
「言葉の通りだよ。彼女になった途端に横柄に振る舞ってるんじゃないか? 土曜日も、えらく佳音に気を遣ってたけど、まずかったんじゃないか。ああいう時は、まず彼女第一だろ」
「那由は彼女じゃないよ、いとこだ」
 敦は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「俺に隠したって意味ないぞ。クラスどころか学校中、お前らカップルのことを知らない奴なんかいないって」
「だから、隠してなんてないってば」
「お前、バカだろ。お前ら二人の行動パターン、バカップル以外の何なんだよ」
 敦に言われて、僕は何も言い返せなかった。僕は確かにバカだ。僕が敦の立場だったら、当然同じ様に思うだろう。 確かに、単なるいとこ同士なんてもんじゃない。でも、実際の所は、彼女じゃない。まだ。
「那由は、いとこだ」
 僕はもう一度繰り返した。
「はいはい、分かったよ」
 敦は明らかに気分を害した様だったので、僕は慌てて続けた。
「話せば、長い話になるんだ。でも、まだ、今は話せる状態じゃない。それでも、近いうちにちゃんと説明するから」
「最初っから、そう言や良いんだよ。何か事情があることくらい、俺にも分かる」
 この時、初めて僕は、こいつと友達になりたいと思った。「ひとつ、訊いていいか」
「何だよ」
「敦と永野さんは、付き合ってるのか」
 今度は、敦が黙る番だった。
「ごめん、変なこと訊いて。謝るよ、忘れてくれ」
「 ――― いや、俺もお前と同じくらいバカだ、ってことが分かったよ。自分の事って、分からないもんだな。お前と一緒だ。俺もまだ、これ以上話せる状態じゃない」
 今度は、お互いが無言になる。
 ここで始業を知らせるチャイムが鳴り、僕たちはそれぞれの席に戻った。そういえば辞書を貸しそびれてしまったけど、那由はどうにかできたのだろうか。

 二時間目の体育は、先週の脳しんとうを理由に見学に回った。今日の課題はバスケットボールだ。見学で済ませられることに、ほっとする。
 体育館の隅で壁により掛かっていると、驚いたことに敦も隣にやってきた。
「サボりだ。手を怪我したくないんでな」
 コートでは歓声が上がり、ドリブルの低い音と駆け回る足音が響いている。二人してしばらく無言で並んでいたが、敦が口を開いた。
「……一つ、頼みがあるんだが」
「ステレオなら、いつ聴きに来てくれても良いよ」
「それは嬉しい話だ。ありがとう。でも、頼みっていうのはそうじゃなくて」
 敦は、言葉を切ってから続けた。
「吹奏楽部のコンクールに来て欲しいんだ。13日の土曜日。急なんだけど、スケジュール空いてるか」
 意外なことだった。
「大丈夫だと思うよ」元々、僕に確認するようなスケジュールはない。
「穂積さんも一緒に来てくれ」
 敦はコートの方を眺めながら、自分に言い聞かせるように続けた。
「佳音にも来てもらう。そのためには、お前達が必要なんだ」
「なんでだよ」
「なんででも、だよ」
 相変わらずの上から目線だが、もし僕に兄がいたらこんな感じだったろうか。ちょっと、那由の兄ちゃん達を思い出した。
「コンクール、何の曲やるんだ?」
「課題の現代曲と、自由曲はサロメの『7つのヴェールの踊り』」
「おおっ?」
「……勘違いするなよ、踊るんじゃない、演奏するんだ」
 ついエロティックなダンスを連想してしまったが、考えれば中学の吹奏楽コンクールの話だった。
「課題曲のトランペットソロを、ギリギリまで二年の奴と争ってる。二年にしちゃ、なかなかやる奴でな。飯山ってんだけど」
 僕は、自分の後ろの席に座っている男の顔を思い出した。
「聞いたことある名前だな」
「そりゃそうさ、弟だから」
「…………」
「兄貴と一緒で、口も立つが腕も立つ。しかも兄貴と違って粘り強い。音の良さでは俺が上だと思ってはいるが、テクニックは向こうが上だ。俺には、あんなに速く指は動かせない」
「そうなんだ」
「まあ、例えソロがやれなくても、俺にとっては三年間の集大成だ。地区大会だから、まだまだ始まりだけどな。音楽が分かる友達に、俺の演奏を聴いて欲しい」
 敦の口から『友達』という言葉が出て、どきっとする。その瞬間、
「おっ、と」
 僕に目がけて飛んできたボールを、敦は器用にも足で蹴り返した。
「おい春木、そんなに元気ならサボってんじゃねーよ!」
「飯山ぁ、もうちょっとノールックパス上手かったんじゃないの」
「うるせぇな、横井がとろいんだよ」
 飯山と同じチームの横井君に飛び火する。気の弱そうな横井君は、
「飯山君、ごめん」と謝るばかりだ。
 ボールとともに、一団が遠ざかっていく。
「敦、ありがとう」
 僕は敦に礼を言った。

 四時間目の社会が意外に早く終わったので、僕は弁当を持って那由を隣の教室まで迎えに行った。そう言えば、僕から那由を迎えに来たのは初めてだ。
 チャイムが鳴り終わり、授業終わりのガタガタとした椅子の音が一段落ついてから、僕は教室をのぞいた。
 那由の席は、窓から二番目の列の一番後ろだった。授業を聞いていたのかいなかったのか、窓の外をぼうっと眺めて動かない。
「穂積さーん、お迎えが来てるよ」
 知らない女子が、那由を呼んでくれた。それでも、那由には聞こえないようだった。
 僕は、ジロジロ見られる視線を『自意識過剰!』と自分に言い聞かせて耐えつつ、那由の教室に入っていった。
「那由、お弁当食べに行こう」
 すぐ横で声を掛けると、流石に那由もハッとした調子でこちらを向いた。
「え! いま、昼休み!?」
「うん、早く行かないと時間がなくなるよ」
「それは、いけない!  急ごう!」
 那由はわたわたと自分のカバンから弁当のバッグを出し、僕を残して教室から飛び出した。僕は慌てて、那由を追いかけた。
 すたすたと歩く那由の背中を追いかけ、横に並んではみたものの、何と声を掛けて良いのか分からない。那由も、何も言わない。
 いつもの階段に座り、母さんの焼いてくれた鯖の切り身と卵焼き、あと僕が作った野菜炒めを詰め込んだ弁当を広げる。那由も包みをとき、手を合わせた。
「いただきます」
 那由はそう一言つぶやくと、黙って弁当を食べ始めた。黙っているだけならいつもと同じだが、いつもの一心不乱で楽しそうに食べている那由とは全然違う。
 確かに、朝はいつもと同じだったんだ。それが敦と話してから、おかしい。いや、土曜の夕方に戻ってしまったと言うべきか。敦の言うように、今朝の「いつもと同じ」態度のほうが、無理をしていたということなのか。
 そうこうしているうちに那由は弁当を食べ終わり、水筒のお茶を一口飲んでから、僕を例の丸い目で見つめてこう言った。
「私も、料理作れるようになりたい」
「那由って、食べる専門じゃなかったのか」
 場を少しでも明るくしようと冗談を言ったつもりだったが、逆効果だったようだ。那由はまた黙ってしまった。

 放課後。
 教室にやってきた那由が、帰りにクリーニング屋さんによって欲しいと言ってきた。確かに、もう仕上がっていることだろう。いつなら返しに行けるか、那由の合意の上で、敦にも話に加わってもらって相談する。
「ああ、いいよ。いつなら都合いいか返事が来たら、晴宏に転送するから。晴宏、アカウント交換しとこう」
 敦は、快く引き受けてくれた。
「ありがとう、春木君」
「こっちもお願い事してるから、お互い様だよ。晴宏から、まだ聞いてない?」
 那由は、首をかしげてこっちを見た。
「ごめん、昼休みに話すつもりだったのだけど……」
「いや、いいよ」敦は那由に向き直った。
「俺の吹奏楽部のコンクール、晴宏と一緒に来て欲しい、ってお願いなんだけど」
 那由の顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう、晴ちゃんと一緒に誘ってくれて。もちろん行きます」
「こっちこそ、ありがとう。あんまり音楽に興味ないみたいだけど、生演奏ってのもなかなか良いもんだよ」

 帰り道、予定通りクリーニング屋さんに立ち寄ることにした。
「買い物は、いったん家に帰ってから出ようよ。また汚しちゃったら大変」
 随分気を遣っているようだ。
「そうだな、冷蔵庫の中身も確認したいし」
「春木君って、いい人だね」
 唐突に話題を変更されるのは、いつものことだ。
「うん、いい奴だと思う。ちょっと強引だけど。永野さんも、いい人だと思うよ」
 言ってからしまったと思った。でも、いったん口から出た言葉を引っ込める訳にはいかない。
「えー、敦と同じくらい、いい人だ、という意味だよ」
「どうして、永野さんはいい人って言えるの?」
 那由が、真剣な目で僕に疑問をぶつけてきた。
「私は永野さんに悪いことをしたのに、永野さんは笑って許してくれた」
「だから、いい人なんじゃないか」
「永野さんの心の中が、さっぱり分からない」
「…………」
 こちらを真っ直ぐに見ている。
「敦は、いい奴なんだよな」
「うん。言ってることとやってることが一致してるもん。晴ちゃんも、楽しければ笑うしイライラしてるときも顔に出るでしょ。永野さんは違うから」
「敦の友達だから、いい人なんじゃないか」
 那由は、何かがお腹にすとん、と落ちたような顔をした。僕はホッとする。
「僕だって、永野さんのことはよく知らない。でも、敦のことは、僕にしては珍しく友達になりたいと思えた奴なんだ。その敦の友達なら、きっといい人なんじゃないかな」
「そんな考え方、思いもしなかったよ。やっぱり晴ちゃん、頭良いね」
「自分で、考えていないだけだよ。那由みたいに全部自分で考えて判断する方が、すごいと思うけどな」
 幸いクリーニング屋さんの腕は確かで、カーディガンは新品同様になっていた。那由はカーディガンを、まるで壊れ物を扱うように慎重に抱えた。

 家に帰り冷蔵庫を開けると、ベーコンとソーセージが鎮座している。棚にはトマト缶とアンチョビがあった。強力粉もイースト菌もあるし、シュレッドチーズも使いかけで冷凍してたっけ。
「何ができそう?」
「ピザができそう。ありもんで、だけど」
「賛成! と言うか、万歳! 望む所!」
「敦から連絡があるかも知れないし、このまま買い物に行かずに夕飯を作ろっか」
 制服から部屋着に着替え、エプロンを腰に巻く。よーし作るぞ、と気合いを入れていると、ポロシャツとハーフパンツに着替えた那由がひょこっと顔を出した。
「晴ちゃん、私にもできること、ないかなあ」
 ……ああ、そうか。僕は少し考え、こう伝えた。
「分かった。じゃあ那由には重大な任務を与えよう。まずはベランダに干してあるエプロンを取ってきて、着用のこと。その間に、用意しておくから」
「はい、師匠!」
 那由はドタドタとキッチンを出て行った。その間に、タマネギをできるだけ細かくみじん切りして、イースト菌もぬるま湯で予備発酵させておく。
「ただいま戻りました!」
僕のソムリエエプロンを着た那由が、戻ってきた。丈が長いのを高い位置で着ているから、何だか魚屋さんのようで少し笑える。
 僕は鍋をコンロにかけ、ニンニクとオリーブ油を入れてとろ火で熱した。ニンニクの匂いにふと修学旅行の夜が思い出されるが、今日は隣に那由の笑顔がある。
「うわあ、いい匂い!」
 面白いもので、こんな小さなニンニク一片が有ると無いとではソースの味が全然変わってくる。ニンニクが茶色くならないうちに、刻んだタマネギを加える。
「これを弱火で、焦がさないようにかき混ぜながら透き通るまで炒めて。はい、これ木べら」
「えーっと、これが任務?」
「そう。これがトマトソースの味の八〇パーセントを決める。重要な任務だから、がんばってくれ」
「分かりました師匠!」
「換気扇の音、大丈夫?」
スマホで読んだ記述を、ちょっと思い出して訊いてみた。「うん、晴ちゃんとしゃべりながらなら、気が紛れるから平気」
 ……僕が那由といれば不安が薄れるように、那由もそう思ってくれていることがちょっとくすぐったい。にやけてしまう口元を那由に見られないように、次の作業に取りかかる。
「師匠、結構つらいです、この仕事」
 那由は、目を潤ませながら僕に訴えた。そりゃそうだ、タマネギは目に染みるし手は疲れるし、地味にコンロの火は熱いし。
「まだ始めたばかりじゃないか」
 僕は、砂糖と塩の入れ物を取り出しながら言った。
「替わってもいいけど、こっちは野菜を切ってポトフを作りながら、材料を一つずつ計量してピザの生地を練る作業だよ」
「タマネギでいいです」
 キッチンにタマネギを炒める甘い香りが充満する。コンロの周りにタマネギを散らかしながらも、懸命に炒める那由。ずり落ちてくるのか、時々エプロンのヒモを結び直したりしている。
「晴ちゃん」
「何?」
「いじわる」
「……まあまあ、もうそろそろ、その作業は終了だから」
「ほんと?」
 僕はアンチョビの缶を開け、木べらでタマネギを寄せて場所を開けた鍋底に、イワシを数匹入れた。
「はい、つぶすように炒めて、細かくなったらタマネギと混ぜて」
「はい!」
 白ワインを少々。
「混ぜて」
「はい!」
 トマト缶とローレル。
「身をつぶしながら混ぜて」
「はい!」
「煮詰まるまで三〇分混ぜ続けて」
「はい!……って、ええ!?」
「まあ、冗談」
 意地悪って言われた、ささやかな仕返し。
「とろ火にしとけば、焦げないようにたまにかき混ぜるくらいでいいし」
「たまにって? 何分くらいおき?」
 ああ、そうか。『何分』にこだわる、これは不慣れなせいか、障害のゆえか。とは言え、僕も考えたことがなかったな。
「そうだね、二分おきくらいかな? その前にもぽこぽこ湧いたら底から混ぜて」
「りょうかーい、キッチンタイマーかけておきまーす」
 那由は火を弱めると、キッチンタイマーのボタンを操作した。
「まあまあ、僕も見ておくし」
 ガスレンジの前を那由と交代し、冷蔵庫の残り野菜とベーコンをフライパンで炒めてから圧力鍋に移した。水とコンソメキューブとプチトマトを足して、火にかける。
「結構疲れるものだね」那由は右肩を回しながらぼやく。
「まあまあ、今日のピザがうまくできたら、那由のお蔭だよ」
「いやあ、それほどでも」
 那由がキッチンタイマーと鍋とを交互ににらめっこしている間に、僕はすべての行程を終了した。ピザの生地はラップをかけて冷蔵庫で寝かせて、ポトフは、鍋の圧力が下がるまでこのまま置いておけばいい。

「はい、これでひとまず終了」
 木べらを動かすと鍋底が見える位まで煮込まれたのを確認して、僕は宣言した。
「こんな感じ? やったあ!」コンロの火を消し、那由はエプロンを外した。
「じゃあさ、ちょっと私は別の仕事してくるから。後はよろしく」
 そう言って、那由はキッチンから出て行った。生地をのばして具を乗せて焼くのは、母さんが帰ってからだな。
 使った器具を洗っている間に、スマホの通知音が鳴った。敦からだった。
『佳音から伝言。今週末の適当な時間に返しに来てくれればいいって。細かい時間は穂積さんと佳音で話してくれ。携帯番号を明石達に教えても良いって言ってたから。番号は……』
 ちゃんと先方に承諾を取っておいてくれたのか。こういう真面目な所に、僕はますます好感を持った。とりあえず、感謝のスタンプを送る。
 遅くなっては、永野さんにも敦にも失礼だろう。急いで那由に伝えようとスマホを持ってキッチンを飛び出した。ドアが開きっぱなしの洗面所から水音がするので、のぞいてみる。
「おーい、那由」
 那由は、丁度自分の下着を手洗いしていたらしい。那由は顔を真っ赤にし、何も言わずに僕を洗面所から押し出し、戸を閉めた。
 しばらくして出てきた那由は、僕が差し出した敦からのメッセージを見終わると、僕の顔に思いっきり手を拭いていたタオルをぶつけた。
「……電話してくる」
 ちょっとひどいんじゃないかと思ったが、黙っていた。
 キッチンに戻ろうと引き返したら、廊下に家電の子機を握りしめた那由が突っ立っている。僕が横を通り過ぎようとすると、僕の手をつかんでそのままリビングまで引っ張ってきた。
「何だよ、永野さんに電話するんだろ? 僕は人の電話を聞く趣味は」
「何て話せばいいのか教えて」
「は?」
 言っている意味が分からない。
「永野さんに、何て電話すればいいのか、晴ちゃん教えて」
「それって、台詞を僕に考えてくれって言ってるのかい」
「さすが晴ちゃん頭良いね、その通りだよ」
 そう言えば、那由も携帯は持っているけれど、受けるのも掛けるのも見たことがない。僕にすら、誕生日カードや年賀状は来ても電話を掛けてきたためしがない。どうやら、那由は電話が極端に苦手のようだ。
 電話での決まり切ったやりとりなんて常識の範囲だ、と思っていては那由の相手はつとまらない。そもそも、ろくに話したこともない相手と電話口ですらすら会話できるようなら、こんなトラブルだらけの毎日じゃないだろう。「自分から電話を掛けると言い出した」それだけで大きな進歩だと思った。
「まずは『永野さんのお電話でしょうか、私、穂積那由です』だろ」
「ふんふん」
 そんなの分かってるよとつっこまれるかと思いきや、真面目な顔で聞いている。
「『この間はごめんなさい、カーディガン、クリーニングできたので、いつ返しに行けばいいですか、都合の良い時間を教えてください』って一気に言ってしまえば、あとは向こうの予定をメモを取りながら聞いて、はいはい返事しとけば良いんじゃないか」
「あ、そうか! メモ! メモ用紙重要!」
 那由は電話の親機の所に飛んでいって、紙とペンを持ってきた。
「ありがと、本当に晴ちゃんがいてくれて嬉しいよ」
 そう言って満面の笑みを僕に向ける。さっきのタオルは帳消しだな。
 那由は、子機のボタンを押し、耳に当てた。しばし間があいて、先方が出たようだ。
「永野さんのお電話でしょうか、私、穂積那由です」
 そのまんま言ってる。
「先日は大変失礼いたしました。カーディガンのクリーニングが終わりました。いつお返しに伺えば宜しかったでしょうか、ご都合の良い日と時間、場所を教えて頂ければ大変有難いです」
 そう思っていたら、僕の台詞をえらくきっちりとした敬語に変換してしゃべり始めた。那由は何ができなくて何ができるのか、僕は再認識させられる。
「はい、……はい、……こちらこそよろしくお願いします」
 そう言って那由はピッ、と電話を切った。
「普通、こちらから謝っている場合は、相手から切ってもらうのを待つもんじゃないか」
「えっ、そうなの、どうしよう、もう一回電話を掛けて、切ってもらえばいいかな」
「いやいや、しなくていいから」再ダイヤルしようとする那由を押しとどめる。
「それで、永野さんどうして欲しいって」
「あ、えっとね、」那由はメモを読み上げた。
「今週の日曜日、午後二時に暁町のハンバーガーショップで会いませんか、って」
 暁町なら、家からそう離れてはいない。
「晴ちゃんもそのつもりでよろしく」
「え、何で、那由一人で行くんじゃないの?」
「え、それどういうこと?」
「だって那由が永野さんに謝りに行くんじゃないか。女の子二人の話に僕が混ざったら変だよ」
「じゃ、女の子に変装して」
「バカ言うな」
「十四日はコンクールの次の日で、春木君の部活が休みだから、って。春木君も来るんじゃない?」
「それならますます僕は行かなくて良いじゃん」
「晴ちゃんも、永野さんに会える方が嬉しいでしょ。あんまり嬉しくても困るけど」
 なっ……! 心の中で絶叫しながら、
「まあ、敦も来るなら、浮くことはないか」と、表面上はクールに振る舞った。
「じゃ、私は洗濯ものを干してくるから」
 那由が洗面所に入っていったのを確認して、僕は自分の部屋に駆け込んだ。

『日曜、敦も来てくれるのか』
 敦にメッセージを送ると、即レスが返って来た。
『佳音に、一緒に来てくれって頼まれたから、行くよ』
 そうか、助かる。
『僕も那由に頼まれた。一緒に行っても良いかな』
 すると、
『なに言ってんだ』
『佳音は、お前がついてくるから俺に一緒に来て欲しいって頼んできたんだよ』
『お前らが別々に行動するなんて、授業中か寝てる時くらいだろ』
 そして『寝言は寝てから言え』と書かれたスタンプが、連打で送られてきた。
 それにしてもひどい言われようだ。永野さんにもそう思われているのか、と思ったら、更にもう一つ。
『まさか寝る時も一緒じゃないよな』
 僕は速攻、通話に切り替えた。
「ちがうわ! 僕と那由はいとこ同士! 付き合ってもいないから!」
「にもかかわらずあのバカップルぶりかよ……。だとしたら、お前相当の変人だぞ」
 電話の向こうの敦の声が、沈痛さを増す。
「友達として、お前がウソついてることを祈るよ」
「那由に手を出したりしたら、親族の間で吊し上げになるっての」
「でも、別に違法ではないぞ。っていうか、イスラム諸国では、いとこ婚の方がメジャーらしいし」
「変な所で博識だな」
「まあいいや、俺も穂積さんと佳音のことは、引き合わせた立場上、気になるし。日曜の二時に、暁町のマックだな」
 そう言って、敦は電話を切った。
 今日の那由の態度、敦の言葉、なぜか永野さんのロングヘアーまでちらついて、ぐるぐる回って気持ちがちっとも静まらない。

 ピザとポトフは美味しくできたのに、その日も那由から日記は帰ってこなかった。まあ、僕も、何を書いたらいいのか分からないから、丁度良いのだけど。

(続く)



次の話はこちらです。
よろしくお願いします。


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