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第十七回 CB$ FUN CLUB回報: Tamucciの一期一会

番外編

今ではサッカーの経験より重要な事が詰まってる
気がするが、最初の家を出て次に住んだところは
via milazzo24.イタリア人のカップル、セルビア人、イタリア人の管理人、自分、後に日本人の料理人トシが住む事になる。チェザリーニ2に約半年暮らし、10月にmilazzo24というところに引っ越した。理由は一人部屋ではなく二人部屋になってしまったからだ。ただ、ドイツ人とオランダ人と同部屋で過ごしたのは中々イカツイ経験だった。かと言ってここに書き込むような出来事はないので、端折る。管理人はイタリアのLECCEという踵の部分に当たる人だったエビリーナ(エヴァ)カップルはナポリターナ。シモーネとマリアンナ、セルビア人のスラブコだ。1999年3月位にに弟をここに連れてきたいからケン手伝ってくれと、東ヨーロッパで戦争が起きていた。NATO軍がセルビアを攻撃してたみたいだが、スラブコ達はアメリカの国旗を燃やしてた。
後で調べた事だが、片道1500km(最短ではない)離れた所を車で行くイタリアからベオグラードの郊外で、なんと言う街だかは覚えてない。セルビアに入り、車を走らせてると爆発音と共に車が浮いた頭はもうパニックだ、死にたくない、なにこれ?
戦争やばい!とそれに気づいたスラブコは
俺にお薬をくれたそれで、少し落ち着いた、
街に着き、次に目にした光景は悲惨すぎた、
俺より年下若しくは同い年くらいの青少年がライフルをぶら下げていた。国を守る為に、再び訳わからなくなりそうになったがスラブコがすぐ行くぞと弟を乗せてイタリア車を飛ばした、行きもよくない、帰りも怖い状態だ、今度はオーストリアから入国がうるさくなった、ただラッキーなのは日本のパスポートは当時世界的に信頼があり見せたらなんの疑いもなく通してくれた、国境少し手前で、車を止め、弟のミルーをトランクに詰めて、国境過ぎて又席に戻して、イタリアの国境はトランクさえ開けらなければ全く問題ないスラブコは労働ビザ俺は当時住民票がイタリアにあったからパスポートもいらない、
なんとか無事生還を果たし、家路についた、
着いた日そのままサッカーのトレーニングに行ったので、おそらく夕方くらいだったと思う。とてつもない1日半だったそれから次の日の午前中の予定を全てキャンセルして家の前の公園でミルーとサッカーをした。物凄く上手い14歳だった後から知ったのだがユーゴスラビアはヨーロッパのブラジルと言われてるらしく。テクニシャンだらけの国なんだと、
日本で言うところの遠野高校の様なサッカーだ
遠野とはアイヌ語で、干からびた湖という意味だそうだ。読売クラブのキャプテンがここの出身で、
ジョージ与那城がここまでサッカーしに来てたとも聞いた、所謂、遠野もサッカーテクニシャンの聖地の様なとこだ、ユーゴスラビアは今では7つの国が一つだったイタリアワールドカップでユーゴスラビアの最後の監督がイビチャオシム監督そして今まで仲間としてやってきたユーゴスラビアが割れてしまい争わなければいけなくなった事を悲しんでいた。
その延長線に1999のセルビア空襲がNATO&米国の理由づけだと思う。が、そんな事する必要ないし、話せば済むことの方が多いような気がした。
戦争というか争いの積み重ねという罪を重ねる
とても、胸が痛い話だ。無知や偏見、差別、
細かな所まで考えるとキリがない。
どんな理由にせよ、必要のない物を紀元前から現在まで続けてるという事がとても悲しく思う。
4月の終わり頃、スラブコの家族、スラブコの友達と友達の家族が避難させてくれという話しで10人以上避難してくるそうだ、管理人は迷ってたが、
俺はこの部屋を明け渡す旨を伝えた。シモーネとアンナマリアも出ていくそうだ。後に招待された時にその5DKのマンションには20人以上住んでた。
おわり




ユーゴスラビア


イビチャ・オシム
via milazzo
新居1

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