大切なのは、いま一番そばにいる人



一番最後に載せた歌は在原業平のもので、母である伊都内親王の、

お(老)いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな

の「返し」である。
返しは万葉でいう返歌のこと。
内親王の歌の詞書は以下の通り。

業平の朝臣の母のみこ、長岡に住みはべりける時に、業平宮づかへするとて、時々もえまかりとぶらはずはべりければ、師走ばかりに、母のみこのもとより、とみの事とて、文(ふみ)をもてまいできたり、あけてみれば詞(ことば)はなくて、ありける歌

「長岡」は長岡京、「とみの事とて」の「とみ」は急ぎの意。
桓武天皇によって都はすでに平安京に移っており、業平も平安京にいた。
桓武帝の皇女である伊都内親王が長岡京にとどまっていた理由は定かではないが、それでも母子の地理的距離は短い。
伊勢物語でもわかるように、好き勝手な振る舞いの目立つ一人息子(父親の阿保親王にとっては第五子)は、母を訪ねる時間もないほど「盛ん」だったのだろうか。
(一部には行平(ゆきひら)を産んだとの説もあるが、これには懐疑的です)

伊都内親王の歌に戻るが、歌意はわかりやすい。
「さらぬ別れ」は避けられぬ死別、「見まくほしき」は見たい逢いたい、であって、
「老いて来るといつ死んでしまうかもわからないから、そう思うといよいよあなたに逢いたいのです」
と業平に訴えているのである。
しかしこの詞書は、古今集の編者によって後に付け加えられたと思われる。

私信の歌をまさか古今集に載せられるとは思わなかっただろう内親王ではあるが、我が子に「君かな」と敬称する心情に思いを致すと、母性の情愛が胸に迫る。
師走という、一年も押し詰まった時候も効いている。

さて、業平が文を開いてみると、母の歌のみが現れて急ぎの内容ではないと判明。
それでも不肖の息子は母の気持ちを一瞬で理解し、すぐに「返し」を送った。
だから調べを合わせるために、「さらぬ別れ」と母の表現を借りたのだ。
「なくもがな」は願望である。
続けて「千代もとなげく」も、千年も生き続けて欲しいとの祈りにも似た、これも願望。
「千代もと祈る」に変更されている文献もあるが、「祈る」では歌意が平板になってしまうので、私は業平の思いがこもった古今集の「なげく」を採りたい。
「祈る」の出典は伊勢物語。


和歌を介しての伊豆内親王と業平の往復書簡の情愛は、深く心に沁みる。

世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため

大切なのは、いま一番そばにいる人。

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