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深夜高速と青春ごっこ

フラワーカンパニーズというバンドのことはよく知らないし、ましてやファンというわけでもないけれど、「深夜高速」という曲は昔から好きだった。リリースされたのは2004年とのことだ。

今から10年以上前になる。当時の僕は札幌に住む大学生で、コンビニの深夜バイトをしていた。深夜のアルバイトのメリットといえば「時給が良い」ということに尽きる。けれど、昼間の時給が北海道の最低賃金の630円くらいだったそのコンビニでは深夜の時給もわずか800円程度だったし、最初は先輩と2人で仕事をしていたけれど人手が足らず途中からはずっとワンオペ勤務だった。当時の札幌は政令市の中では賃金水準が全国ワーストレベルではあったものの、探せば日中のバイトでももう少しマシな条件のバイトはあったはずで、結局のところ「深夜という時間帯」が僕の性に合っていたということだと思っている。時計の針も止まりそうな夜の底で、一人きりの店内は居心地が良かった。僕は夜の住人だった。

深夜のコンビニには変わったお客さんが来る。ある夏の深夜。そのコンビニは大学の敷地の外側を南北に走る大通りに面していて、店の正面には大学の附属病院が建っていた。地方のローカルコンビニに入店のBGMなんて気の利いた設備はなかった。だから僕は古い自動ドアが開くときの擦れたような音をお客の入店のサインにしていた。その音をかき消すようにアスファルトの上をカラカラと車輪が回るような音が聞こえて、商品の安売りのポップを付け替えていた僕の手を止めた。振り向くと水色の入院着にサンダルを履いた白髪の男性が点滴のビニール袋のぶら下がったキャスターを従えてレジの前に立っている。男性はタバコを一箱買うとまたカラカラと音を立てて夜の暗闇に消えていった。

僕が働いていたのは深夜2時から朝8時までという少し珍しいシフトだった。朝の6時になるとトラックで朝の日売品が大量に届いて検品と陳列と通勤ラッシュで慌ただしくなるが、それまではひたすらゆっくりした時間が流れてくれる。

なかでも僕は深夜3時くらいの時間帯が好きだった。店先のゴミ箱の袋の取り替えや肉まんのケースの掃除などの定例の業務をひと通り終えると、客足も途絶え、大通りを走る車の数もすっかり減って、深い静かな海の底にただただゆっくりと沈んでいくような時間が訪れる。しばらくはやる作業もなくなるので、僕はレジカウンターの後ろ、タバコがしまってある棚にもたれかかっていつも窓の外を見ていた。

店内には有線放送がかかっていた。曲のラインナップが変わるのはひと月に一回程度だったから何度も同じプレイリストを聞きながら仕事をすることになる。当時は今と違ってテレビの音楽番組もたくさんあったしCDも売れる時代だったので「誰もが知る曲」もたくさん生まれていた。けれど店の音質の悪いスピーカーから流れてくるのは聞いたことのないような曲ばかりだった。古い曲という感じでもない。多分マイナーな歌手やバンドの曲だったのだろう。深夜高速はその中の一曲だった。

少し物悲しいような、諦観を含んだような印象的なイントロが流れるといつも店内の空気が変わるような気がした。

“青春ごっこを今も続けながら旅の途中”
「青春」という言葉の定義を人生におけるある季節のことだとするならば、20歳の僕は暗めの青春の真っ盛りだったわけで、なんとなく青春の「延長戦」の匂いがするそのフレーズに共感する理由はなかったはずだけど、なんとなくこれは自分の曲だと思っていた。

皮肉なことに、社会不適合者である僕が会社に適合できそうな人間の品定めをする側にまわる機会がたまにある。その経験で学んだこととして、「今までの人生でなにか大きな挫折はありましたか?」ときかれるとだいたいの新卒の志望者は「大学受験」と答えるようだ。かくいう僕も第一志望の大学に落ちた。でも、それを僕は挫折だとは思っていなかった。いや、「分かっていなかった」と言うべきかもしれない。

最近気づいたのだけれど、どうやら僕は「人から教わる」ということができないようだ。勿体ぶった表現をしたい訳ではない。ストレートにそのままの意味で単純に、「誰かの発した言葉を受け取って理解して抽象化・一般化してその骨組みを記憶する」ということが極端に苦手なのだ。そんな僕の学生時代を振り返ると、授業はひたすら眠気との戦いだった。落ちていく意識と“ここ”に踏み留まろうとする意思のせめぎ合いの結果、ノートには無数のミミズがはったようなシャーペンの跡が闘いの記録として刻まれる、ただそれだけの時間だった。

その反動なのかなんなのか、テストの日は僕にとっての“ハレの日”だった。僕が通っていた中学・高校では定期試験の期間中は毎日午前中に2科目のみ試験が行われ、昼には帰宅することができた。つまり、翌日のテストのための一夜漬けの時間が充分に与えられていた。授業は寝ていたけれど「不真面目だから寝ていた」というわけではなく、宿題は一応やっていた。なので、テスト範囲の分野についてまるっきりの初見ということではなかった。にもかかわらず記憶の定着が極端に悪いので知識と理解が驚くほど怪しくなっている。毎日テスト範囲の教科書と問題集の内容を夜中までかけて頭に詰め込んだ。

僕にはテスト開始直前のルーティンがあった。開始1分前になると目を閉じて組んだ手の上におでこを預ける。すると、なにも聞こえなくなる。普段感じられないほどの静寂。脳にかかった霧が晴れている。号砲を待つ。スタート。用紙をひっくり返す。目の前には真っ白な世界。頭の中は依然として静かだ。予めイメージしていた動作を身体に行わせる。自分が自分を完璧にコントロールしている感覚。先へ、先へと走る。ゴールラインを越える。タイムは?

僕にとってテストとは短距離走に似たものであって、つまりはスポーツだった。

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選択することが昔から苦手だった。というよりも恐かった。でも本当に恐かったのは選択することのひとつ前、「たくさんある選択肢を知ること」だったのかもしれない。僕の通っていた高校では1年生のときに文系コースにするか理系コースにするかを選ぶことになっていた。成績が悪くなくて、数学と理科が得意であれば理系を選ぶものなのだと思っていた。だから“選択の余地なく”理系に進んだ。この頃の僕は自分が何に興味があるのか知らなかったし知ろうとしなかった。目の前の道をなんとなく進んでいただけだ。

高2の春くらいに突然志望校が決まった。なにかで存在を知った、京都の大学にあるニホンザルの行動や社会性を研究している動物行動学の研究室。なんとなく面白そうだなと思った。その研究室に進むためにその大学の理学部が第一志望になった。理学部で他に研究されている分野には全くピンと来ていなかった。詳しく調べようともしなかった。他の大学の他の理系学部とフラットだった。他のすべてのものに対して等しく惹かれていなかった。自分でも理由はよく分からなかったけれど、なぜかニホンザルの研究にだけ興味があった。

2次試験の当日、僕は京都にいた。センター試験は上々の出来で、夏の予備校の模試ではD判定だったけれど今の自分なら戦えると思っていた。気負いもなく集中もできていて精神状態はとても良かったと思う。

例年、2次試験の問題の難易度は高く、うろ覚えだけど全教科5割後半〜6割で合格ラインだった。数学に関しては過去問や模試では小問の(1)にも手をつけられないままで終わる大問もざらにあった。

最初の試験は数学だったと思う。裏返しの問題文と解答用紙を前に目を閉じる。いつものように静かだった。試験開始の合図でいつものように目を開ける。現れた真っ白な世界を走る。走る。問題文を頭に入れてなんとか最初の取っ掛かりを探す。閃く。あとは足の回転が僕をどこまでも運んでくれそうに思えた。自分の身体じゃないみたいだった。終了の合図を聞きながら、これまでに受けた数学の試験のなかで最高のパフォーマンスが出せたことを確信していた。

そのままの勢いで2日間の日程を終えた。やはり自分の力の120%を出し切った感覚があった。そのことに僕は既に満足していた。

だから、不合格通知を受け取ったときもさほどの落胆は無かった。最低合格点まで3点か4点だったので、両親は浪人したかったらしてもいいと言ってくれたけれど、僕にそのつもりは無かった。自分の力を超えて最高の走りができた。それでも届かなかった。だから後悔などない。これで部活は終わり。そんな気持ちで「敷地が広い」という英語教師の話だけでなんとなく感化された大学の後期試験を受けることに決めて、さらには現地で3月の雪景色を気に入って、さっさと進路を決めてしまった。学部は農学部を選んでいた。理学部よりは就職が良さそうに思えたのと、あとはボーイズビーアンビシャスの響きが気に入ったのだった。大志を抱くどころか、本当にどうしようもないくらい何も考えていなかった。

4

それから8年経って僕は写真に出会った。大学ではなんとなくの興味を感じた農学を学び、そのためか頭に入らず、研究に挫折して地元で就職してなんとなくの興味を感じた仕事をしていた。僕はそれらに対して自分が「実は興味を持てていない」のだと気づいてすらいなかった。動物行動学に対しても「なんとなく」の興味があっただけなのだから、それらに対しても同程度の「なんとなくの興味」を感じていた。解像度を上げて「興味のあること」をはっきりと認識した経験がなかったから、「興味のない状態の自分」も認識できなかった。ただ頭の中に流れ込んでくる文字や言葉が意味に変換されることなく、記号や音声のままで僕をすり抜けていくのを「こういうものなんだろう」と見送っていた。研究室や職場の周囲の人達にとっての研究や仕事でのインプットが僕の「こういうもの」とは違うであろうことに目を伏せながら。

26歳のときに友人の披露宴の余興に使うムービーを撮影する目的で、当時登場したばかりだったミラーレス一眼を買った。これが僕が写真を始めたきっかけということになる。手元に残ったカメラで何を撮ったらいいか分からず、最初は景勝地へ出かけて三脚を立てて風景を撮っていた。半年くらい経つと段々と街の風景を撮りたくなって街に出かけるようになった。

カメラ雑誌の月例コンテストに応募していた頃は写真のタイトルを考えるだけで良かったけれど、一枚の写真ではなく数十枚の写真群として公募賞に応募するようになると、自分の撮ったもの、撮ろうとしたものについて写真に映っていない部分も含めて言語化することが求められるようになる。僕はその作業が嫌いだった。

自分の心を覗く。ゆらめく水面のように何かが見えたと思った次の瞬間には別のかたちに変わっているような不確かなものを掬いとるような作業。言葉にならないものを表現するために写真があるのではないかと強い抵抗があった。それでも言葉にしないと先に進めないのだから、仕方なく既に撮れてしまった写真について無理やり自分の頭の中をほじくり返してそこに動機を求めたりした。作品として人前に出す度にそれを繰り返す。やがて水面を観察するのではなく深くまで潜ろうとするようになった。底に沈んでいるものを確かめようと何度も繰り返す。それをひたすら続ける。

言葉はいつも遅れてやってくる。僕の場合、もう手遅れなくらいに。あるいは永遠に訪れない。そういうことが当たり前だった。

いつしかそれが時折逆転するようになった。「言葉にすること」が撮りたいものの輪郭を削り出す。そして照準が定まった写真は僕から次の言葉を引き出す。その繰り返しによって僕は次の「撮りたいもの」に導かれた。都市風景の後はストリートを撮り、その後はセットアップしたセルフポートレート、そして今は他者のポートレートを撮っている。写真は“自分が何に興味があるのか”を教えてくれた。

どうやら僕は人間に興味があったらしい。

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一度分かってしまえば何故今まで気づかなかったのか理解不能に思えるようなことにずっと気づけないということが僕には頻繁にある。この件では10年以上の時間を要したということになる。

僕は人間を知りたかった。でも知るための距離まで人間に近づくことができなかった。人間を知るために人間に近づくことすらできないくらいに人間のことを知らなさ過ぎた。しかし猿くらいなら学べば理解できるだろう、だから猿から。今から思えばそんな、「服を買いに行くための服を買いたい」というような動機で僕は猿の行動や社会の研究に惹かれたのだろう。

学生時代の周りの人達は理系の人ばかりだったけれど、その後に出会った、話していて面白いと思う人は文系の人が多かった。本来的に僕の興味の対象は文系分野にあるのだろう。だから動物行動学という理系分野で唯一望んだ道が潰えた時点で、僕にとっての正解もなくなった。恐らくその周辺で何を選んでも興味を持てなかっただろう。大学を卒業して10年以上経ってやっと気づいた。

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朝井リョウが原作小説を書いた映画「何者」のキャッチコピーは「青春が終わる。人生が始まる。」だった。ライムスターの宇多丸さんがレビューの中で「『可能性が開かれている状態=青春』というのが僕の定義である。」と言っていて、青春が終わるということは可能性が閉じていくということ、そういうとネガティブな響きがあるけど、それは同時に自分と向き合って進むべき道を選びとることであり、その先に大海原が開かれている祝福されるべき人生の門出なんだ、そんな監督のメッセージを感じたというような主旨のことを言っていた。なるほど、だからこそ青春が終わると「人生が始まる」のだろう。

青春を「可能性が開かれて、進むべき道を選ぶ前の状態」だとするなら、「青春ごっこ」とは「可能性が閉じて一本道を歩いているのにそれを受け入れていない状態」ということにでもなるだろうか。ああ、まさに今の僕だ。深夜高速はやはり「僕の曲」だったのだ。




と、昔の曲と昔の記憶を引き合いにしてセンチメンタルなナルシズムで自分を刺し殺してこの話を綺麗に終わらせたくなるけれど、おあいにく様、この曲は現在進行形だ。今もバンドは続いているし、深夜高速は演奏されている。


(YouTubeには公式チャンネル含めて各時代の音源があるけど、無断アップロードでない最新の動画、ということでこれを選んだ。)正直なところ僕はこの動画よりも最初の2004年の音源が純粋な演奏としては断然一番好きだけど、そこから積み重ねた年月が、その事実が曲の重みを変えた。

可能性を閉じて自分と折り合いをつけて選んだはずの道を後悔しながら歩いてきた歌ではなく、選んだ真っ暗な道を走るその行為を青春ごっこと呼び、それを今日まで続けてきた歌。最近の音源ではサビの「生きてて良かった」がはっきりと「生きていて良かった」と歌われているのは、歌詞にある“そんな夜”を乗り越えての今だからなのだろう。

道を選ぶ前のことだけが青春ではない。不確かな道を進むこと、そんな青春もある。だから僕も周回遅れの“青春ごっこ”を始めなければと思う。だって自分が興味あるもの、分かってしまったのだから。


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