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才能の民営化について。(AI)

ここ数日、自分の顔写真をPS2風にするAIフィルターが爆発的に流行っている。

ローポリルックのゲーム画面だったりそれをオマージュした映像、アート作品はここ数年の隠れトレンドだったようにも思えるし、何人か好きな作家さんもいてフォローもしていたので一見するとそれが流行ることはよきことのように思える。(この言い方悪意ある)

さて、どうしようかまず自分の話でもしようか。

去年から準備を進めて今年の末ごろから初頭にかけてmotherpillという自分が参加しているバンドでレコーディングを慣行してサブスク配信までこぎ着けた(宣伝)のが最近、それに合わせてMVを作るために3Dソフトを軽く勉強したのがもうさらにすこし最近。

それの延長線(あるいは延長戦)で自分でつくったコラージュのキャラクターをVtuberの3Dモデルにしたのがもっとも最近(最の重複)の話。

自作のコラージュキャラ(キモイ、かわいい!)


もともと、ジェットセットラジオとかkiller7みたいな昔のトゥーンレンダリングっぽいグラフィックがすきだったので主流ハイクオリティのかわいいツルツルのモデルというよりは
ローポリのショボいゴツゴツのVモデルを作りたかったので作った。

それをもとに作ったVtuberの3Dモデル(体手抜き)

以上の経験から自分から言えることは、自分でやったほうが大変だけど楽しいということ。
それにblenderを使って何かを作ることは特殊な才能が必要な作業でもないし特殊な教育機関に大金を払って学ぶようなことでもない。
意外とネットにあがってるチュートリアル動画で何とかなる。
これはblender以外の大抵のことに言えたりする。
もちろんかけた時間が多いほうがいいし、自分は要領がよくないので、かなり時間をかけて顔面のモデルしか作れなかった(というか元のコラージュが顔だけなので体を想定してなかったともいえる。)
けど、達成感はほかの何物にも代えられない経験となったのは間違いないと断言できる。

ここから本題

何が言いたいのかといえば、昨今論争になっているAIを用いての創作についてだが、これについてインターネットの有象無象のうちひとつが
「才能の民営化を止めるな」
というようなことを言っていた事についてだ。
まずは前置きしておきたいけどあたしは創作にAIを用いることには肯定派で。道具は多いほうがいいし、使えたほうが楽しいのという思想を持つ。
この前提条件を置いたのちにその言説そのもの(才能の民営化)についてはやや議論の余地あるんじゃないかと思って所感をタイプしていきたいと思う。

はたして、それは才能か。

ここど前置きで話したPS2のフィルターの話にリワインドする。
自分はまず前記した通り直近で自分の分身とも言える自作のキャラを自力でローポリ3Dに落とし込んだ経験があるのでとてもじゃないがノレ無かったのだ。
自分でやった方が楽しいが勝ってしまった。
そしてこれを人は才能と呼び、AIを止めることは才能を止めること
というのだ。
しかし待て、待て待て。
前記した通り全くの素人が数時間動画見ながらフリーソフトをこねくり回した努力を、お前たちは才能と言い吐き捨てるのか?と

あたしはそうは思わない。
インターネット、ひいてはSNSの現代病の一つに思える。

SNSにおいては結果だけが公開される。

出来上がった動画、音楽、絵、Etc…
しかしその作家たちの日々の生活や努力、その完成に至るまでの過程はなかなか可視化されない。

確かにそうだ、俺たちは誰1人として醜くもがく血反吐を吐きながら苦しむ醜態なの晒したくはないのだ。

つまり作品を作らない大衆は、それらの努力を度外視してまるで持って生まれたものの如く作家に対して才能という言葉の刃を突き刺すのである。

絵にしてもそう、例えばまっすぐな線を引けない。
これは筋肉操作の精密性であるからひたすら線を描き続けるしかない。
丸を綺麗に描くのも練習次第では上達するのだ。
そういった「可視化されない努力」を無視して
お前は才能の民営化とほざく。
待って欲しいそれは、例えば俺が楽器を弾いて上手くなるために音楽サークルのパイセンから受けたハラスメント。それに耐えながらも練習し続けた日々をお前はまるで持って生まれたものの如く才能と刺し殺して。
才能の民営化というのか?

それは努力の簡素化ではないだろうか。
すくなくとも才能の民営化ではない。

PS2のゲームが多くの人の睡眠時間を削り、紡がれ、開発された一本、一本がその表層だけ掬われてルックだけ引用されフィルターとして流行る現状。

お前はコレを才能の民営化というのか?
搾取の加速化ではないのか?

まとめ

バンドだったりをやってる人なら経験があるかもしれない手垢のついたクリシェかもしれないけども、創作をやっていることを”じゃない側の人間に”伝えた時の最も多かったであろう反応
「メジャー行きたいの?」
「売れてるの?」
「それだけで食っていけないでしょ」
みたいなやつ。
人は作品を出す意味や意義を資本主義の人気商売の形に落とし込みたがる。
その方が理解や共感し易いから。
金銭目的や承認欲求で創作してる奴なんかほんとはその2割にも満たないのではないか。
もっとこう子供のころに天井まで積み木を積み上げたときのあの達成感みたいな、
はじめて九九を最後まで言えた時の達成感みたいな、

創作をしてそれを世に出す(出さなくたってかまわない)ことの意義ってもっとこう、

SNSでは可視化されないプロセス(過程の)中にあるんじゃないかと思うんだよね。

AIだと一瞬で省略されてしまうクソみたいだと吐きすれられたカスみたいな人間の努力。

暑苦しいことはあまり言いたくないけども、才能という言葉で人々の努力や試行錯誤の日々を殺さないでほしい。
才能の民営化だとは思わない。過程の短縮化だ。
そして、才能ない奴はAI使ったってしょうもないものしか作らないだろう。
でもそれでいいんだよ、人が物を作るってことはそれだけで尊いんだから。
だったらさ、短縮化なんかしてただ消費するんじゃなくて創作しましょうよ、というのが私の考え。
もち、商売にしてる人は消費のスピードにあわせて作品を生み出す必要があるから今後AIの力を頼ることは多くなるでしょう。
そんなのはごく一部なんだから、あたしたちパンピーは時間かけてモノづくりしませんか?
もちろん完成しなくたってかまわない、大事なのは過程なんだから。

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