看護師になりたかった

小さい時の記憶はあまり無い。
夫は3歳位からの記憶があるようだけど、私は小学生位からしか無い。しかもほんの少し。友達だった人の名前も良く思い出せない。

そんな少ない記憶の中で残っているものは強烈に覚えている。

もうすぐ2年生という小学校1年生のときに、学校の休み時間に腕を複雑骨折し2ヶ月間入院した。
毎日笑顔で優しい看護婦さんの仕事を見て、『看護婦さんになりたい』と。それを聞いた母親は、
「何ヵ月も学校を休んで、みんなはもう2年生になって、算数の九九の勉強が始まってると先生が言ってたよ。算数で良い成績が取れないと看護婦さんにはなれないよ。」と、私を馬鹿にするように言った。

私の両親は超田舎の出身で、学校全体で10人居ない学校で、勉強をしなくてもクラスでいつも1番だったという人たちで、それが自慢だった。
ちょっと都会の私の学校は何クラスもあり、そして私には勉強しなくてもクラスで1番になる脳は遺伝しなかった様で。その中でも算数が苦手だった。
いま大人になって思えば、小学校1年生の算数が苦手でもそんなに問題じゃないと思うけれど、小さかった私は掛け算とは大層恐ろしいもので、それが出来ないと看護婦さんになれないのだと、本当に恐ろしかった。

学校に復帰し、お友達は掛け算の終盤に入っていた。
私は一人片隅で、みんなとは違う1の段から始めていた。これができないと看護婦さんにはなれない。
九九は何とか8割型覚えたが完璧ではなく、数式が増えるとお手上げだった。
苦手意識から緊張し、算数の時間になると頭が真っ白だった。
あの頃からHSPだったのだろう。
母の言葉に、馬鹿にするような表情に、子供ながら深く傷ついていた。

そんな私を、母は暗算教室に入れた。スパルタで、出来ないとオデコをペンで叩かれた。今やったら大問題だろう。
そこでも、出来ない恥ずかしさと悔しさとで、パニック状態だった。叩かれる恐怖、張り出される点数、他の生徒と比べられ…自分が馬鹿なのだと思い知らされる。

そこで私はわかってしまった。
私は看護婦さんにはなれない脳なのだと。
小学校3年生になった春。
私は看護婦になるのを完全に諦めた。
そうじゃないと辛すぎたから。
暗算教室はやめさせて貰えず、悪夢は小学校6年生までずっと続いた。

小学校3年生の春に看護婦になる夢を諦めざるを得ないと。そこまで子供を追い詰める必要があっただろうか? 
算数は苦手だったけど、国語や社会は得意だった。
看護士になるのに算数は出来た方が、出来ないよりは良いだろう。でも、中学高校で挽回出来ていたかもしれない。
でも私は、叩かれる暗記教室のせいで算数=恐怖になっていた。

世界中どこでも学校教育というのは自分が馬鹿だと知る場所になる人が8割だろう。
残りの2割は自分がなかなかイケてると自信をつける場所。

それでも親が。子供の特性を伸ばすように、学校が全てじゃないと、算数は嫌いにならないようにボチボチで良い。実際に看護師の人と話しをさせてくれるとか、出来ることはあったと思う。

小学校3年生の春。諦めてしまった自分を今でも責めてしまう。
どうしてもう少し強く居られなかったかと。

そんなことがあった春もありました。

自分がHSPと知ってから、看護士という仕事は自分に合っていたかも知れないと。諦めが悪い私がいる。

そして私は、今。随分と大きな大人になってから。 自分は何がしたいのかを問うている。本当の自分を、塗り固められた嘘の自分の中から掘り出そうとしている。

果たして本当の自分はまだそこに在るのだろうか? 溶けてなくなってはいないだろうか?

桜と一緒にあの3年生のときの苦しさも、どこかへ散ってくれますように。


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