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「北の国から」制作秘話~3分で読めるブランドノチカラ (83)

前回、フジテレビの名作ドラマ「北の国から」のブランディングについてあれこれと書きました。

この「北の国から」の原作者であり脚本家である倉本聰氏が「ドラマへの遺言」という本で実に面白い制作裏話を語っていたので、今回はそれをご紹介したいと思います。

「北の国から」はフジテレビ系列で1981年10月から1982年の3月までの2クール、半年間放送された、倉本聰 原作・脚本のドラマです。

 都会での生活に疲れ果て、小さな子ども二人を連れて故郷の北海道富良野に戻った男の、大自然に悪戦苦闘しながらも生き抜いていく自己再生の物語です。
 父親の黒板五郎役は田中邦衛、幼い兄妹の純と蛍を吉岡秀隆、中嶋朋子が演じています。

 実家だった廃屋をなんとか住めるように自らの手で修理していく父親と、過疎地の更に奥の電気も来ていない廃屋の有様に「電気がなければ暮らせませんよぉ」とひとり愚痴る都会っ子の兄・純と健気に現状を受け入れようとする妹・蛍の演技のリアルさに心動いた記憶があります。

 「ドラマへの遺言」で倉本聰が語ったインサイドストーリーで、純の不貞腐れの実態を知り納得しました。
 以下、北海道のロケ地でのエピソードの引用です。

スタッフは東京のやり方に慣れているもんだから、役者を甘やかすんですね。純と蛍がネコっていう一輪車で石を運ぶ場面がありましたが、スタッフは下にいっぱい藁を積んで、うわべだけ石を置くんですよ。

それはやめてくれと。“本当にあっちの石の山からこっちに運ばせろ”って言った。
で、実際にやらせてみるとつい石をいっぱい積んじゃうから、すぐに崩れて転んじゃう。
それが見ていて面白いんです。

原野でたき火をするときも、普通は美術さんが全部お膳立てしてくれますが、そんなことやっちゃだめだって。
初めて東京から来た子供なんだから、とにかく薪に火をつけさせろっていって、火付け用のガンビッっていう白樺の皮を渡した。
でもなかなか火がつかない。そのことをリアルにやったんです。

ドラマへの遺言


ネコでヨロヨロと石を運ぶシーン、よく覚えています。

子供なのに吉岡秀隆も中嶋朋子もなんと自然で真に迫る演技をするんだろう、天才かっ!と感心した覚えがあります。

思わず「危ないっ!」て口に出ちゃう。
しかし。そうだったんだ。迫真の演技なんかじゃなくて、リアルにやってたんだ。( ;  ; )

倉本聰は更にこう語っています。

真冬の富良野ロケも本当に寒かった。特にあの年の冬は連日マイナス20何度で。ライトやカメラのコネクション部分が凍っちゃう。
自分たちはこういう寒さの中での暮らしを描いているんだってことが次第に分かってきて、みんな本気にならざるを得なくなった。
とはいえ、純や蛍は子供だったわけですよ。夜、蛍を膝の上に乗っけて抱えてやると寒さもあってすぐ寝ちゃった。
純なんかは“杉田死ね、倉本死ね!” ※って台本の裏に書いてました (笑)」

ドラマへの遺言

「今なら児童虐待ですよ」と倉本聰も白状しています。

ドラマで純が「東京に帰りたい」と独り言を呟くシーンがありましたが、あれは吉岡秀隆少年の本音だったんですね。

倉本聰がここまでリアルに拘ったのは経緯があります。

1959年に東大を卒業して日本放送に入社した山谷 薫 (倉本聰の本名) はディレクターとして働きながら、ペンネームで脚本家の仕事もこなしていました。

脚本家として名前が売れ始めたので1963年に日本放送は退社しました。東京オリンピックの一年前です。

その後、文五捕物絵図、赤ひげ、東芝日曜劇場※のいくつかの作品で脚本家としてグングンと頭角を現していた倉本聰ですが、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いだった30代後半の彼についにNHKから大河ドラマの脚本の依頼が来たのは1974年のことです。「北の国から」をつくる6年前。

作品は「勝海舟」でしたが、この作品は揉めました。主役の渡哲也が病気で途中降板、その代役に松方弘樹がなりましたが、このキャスティングをNHKは出来なくて、ホンを書いていた倉本聰自らが動いて成立させた。
この間にいざこざがあり、倉本聰自身が下ろされてしまう結果になってしまいました。出る杭、激しくうたれたというわけです。

倉本聰って、潔いひとなんですね。NHKと喧嘩してから、とっとと飛行機に乗って札幌に行ってしまうんです。何で札幌だったのかは分かりませんが、ひとはこういうとき北に向かうんですかね。LOL

ホテル暮らしをしながら、倉本聰は札幌で飲み歩く日々を送ります。すすきに行きつけのバーが10軒以上あったそうです。毎晩バーの女の子たちとアフターで朝まで騒いでいた。いいな。LOL

「そんな生活の中でヤクザとと付き合ったり、板前さんと仲良くなったり、いろんな人と出会いましたね」

ドラマへの遺言



倉本聰自身が東大出のエリートです。東京での仕事はやはり一流大学卒ばかりの放送局が相手だし、俳優さんたちとの付き合いも多い。付き合うひとは皆業界人。

そんな彼が札幌で出会った市井の人々、普通の人たちは逆に違う世界の人々。彼らのリアルな生活オーラに倉本聰の脚本家としての本能が「ここ掘れワンワン」とシグナルを出したのではないでしょうか。

実は「ここ掘れワンワン」話、すごく面白いエピソードがこの「ドラマへの遺言」に書かれていますので、次回ご紹介します。今日はこれまで。


最後に。

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※ 文五捕物絵図 赤ひげ   前者は1967~1968年、後者は1972~1973年にNHKで放送された時代劇。文五捕物絵図は杉良太郎、赤ひげは小林桂樹が主演を務めた。
 東芝日曜劇場 1956に始まったTBSの一社提供単発ドラマ枠。JNN系列 (TBSをキー局とする全国民放ネットワーク) の主要局が持ち回りで制作した。倉本聰はHBC北海道放送で「幻の町」(田中絹代、笠智衆、桃井かおり、北島三郎)、「りんりんと」(田中絹代、渡瀬恒彦)、「うちのホンカン」(大滝秀治、八千草薫) といった名作を書いた。

※「杉本死ね!倉本死ね!」 杉本というのはフジテレビの演出ディレクターだった杉本成道氏(2023/06/04現在79歳) のこと。「北の国から」は氏が演出をして一躍有名になった番組。粘り強い演出家で、笑いながらも何度もテイクを重ねるので俳優からは「笑う悪魔」と渾名をつけられていた。倉本とは言うまでもなく倉本聰。





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