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『音楽の聴き方』【基礎教養部】

この記事はJLAB基礎教養部の活動で作成したものである。Naokimenさんに紹介していただいた岡田暁生の「音楽の聴き方」と Naokimenさんの作成した記事を読み私が素朴に感じ、考えたことを記載している。

小中学生の頃の同級生が弾いていたピアノが好きだった。弾いている姿はとても素敵で、私は何もできないのに彼女がその手で美しい音色を奏でられることに嫉妬した。それから母の持っていたジョージウィンストンのCD、「AUTUMN」を繰り返し再生して、ピアノの生み出す世界に何度も飛び立った。子供もの頃から何か楽器をやっておけばよかったということは、人生の大きな後悔のうちの一つである。大学受験が終わったらピアノを始めようと決心していたので、ついに20歳の誕生日に電子ピアノを購入し、ピアノの奏でる世界に自分の足で地に足をつけて一歩を踏み出した。そんな音楽を始めたばかりの私にとって、音楽に対する向き合い方を問われる本、記事であった。

『音楽の聴き方 -聴く型と趣味を語る言葉』を読んで考えたこと

音楽は所詮、音である。もっと言えば空気の振動である。音楽は人間の感覚器官に受容されて初めて形を表す。人間の耳なしに音楽は成立しない。そういった意味で、音楽は脳の中に存在する。振動が音楽になる過程は聴く人間によって様々で、その人の精神状態やそれこそ本書の言う「聴く型」を持っているか否かによっても異なる。誰かと同じ空間で演奏を聴いたとしても、その演奏がある人にとって音楽としての形を得た時には、その演奏から生み出された音楽は別の人にとっては全く異なる形をしているかもしれない。

音楽体験をすり合わせる際には3重のフィルターが存在する。1つ目は音の連なりから音楽が形成されるプロセスの違い。2つ目はその音楽によって駆り立てれる心情の違い。3つ目はその音楽を語る言葉の違いである。これらのフィルターがあるからこそ、音楽の完成形なるものは存在しないだろう。


音楽体験は、文学や美術よりも、むしろ香道やワインのテイスティングに近いところがあるかもしれない

岡田暁生『音楽の聴き方-聴く型と趣味を語る言葉』第1章 音楽と共有するとき p6

本書にも軽く書かれてあるが、私は音楽と食べ物の味は互いにとても類似していると考える。どちらも、人間の感覚器官に「触れてくる」ものであるが、物理的に存在しているものではなく、目で見る事ができない。脳の中に存在するものだ。

誰かと同じ空間で音楽を聴くことは、同じ釜の飯を食べることと同じである。ここにロックンロールの盛り上がりや、讃美歌を使ったキリスト教の広がりの訳がある。

Naokimenさんの記事を読んで考えたこと

naokimenさんの音楽をしてるか否かと言う問いにはハッとさせられた。音楽的表現の有無に関わらず、五線譜にぶら下がる音符に合わせて指を動かすことができただけで十分に楽しかったからだ。

でも一体なぜ、「音楽をする」ことを要請されるのだろうか。正確に演奏して楽しいだけでは何がいけないのだろうか。

料理の比喩が非常に有用なので再び使用する。料理の素人が料理をするときに参考にするのはその料理のレシピだ。特に頭を働かせずとも、レシピに書かれた材料を用意して、指示通りの手順を踏めば、大抵どんな料理でも美味しく作る事ができる。そして、素人にとってはこれだけで生きて行けるのだ。

音楽も同様にレシピ(楽譜)通りに演奏する事ができれば、アマチュアにとっては十分美しいものが出来上がる。ただ、料理と違って音楽の場合、素人にとってはレシピを読むことすら難しく、また、レシピの指示通りに手を動かすことも難しい。たくさん練習して楽譜の通りに演奏ができたときには、このような困難を乗りこえたのだから、表現性を生み出すことができなくても、正確に曲が演奏できれば満足だという人は多いと思う。

しかし、毎回毎回レシピ通りの料理しか作らないなら、料理は決して上手くならない。レシピから少しアレンジしてみたり、何回も試行錯誤することで料理と同じように音楽も上達するのだ。

しかし、実は「音楽をする」ことは賞賛につながるだけではなく、きちんとした必然性があると考える。なぜなら音楽の土台には「想い」があるからである。

音楽は必ず誰かのために作られるものである。それは自分の為であったり、応援してくれるファンのためであったり、讃美歌のように神さまのためであったり、ヴェートーベンのエリーゼのためであったり、製作者の「想い」を軸に音楽は作られてゆく。

書かれている内容がどれほど情熱的で素晴らしいラブレターでも、棒読みで代読されたとしたら一言一句正確に噛まずに読み通したとしても、届く想いも届かない。

カラオケや、音ゲーなどの「音を大事にして、何かを伝えようとして」いない演奏は音楽の構成要素の要である「想い」を無視している。これはあえて強い言い方をするならば音楽への冒涜なのである。この点がNaokimenさんがYouTubeの広告に出てきたピアノの練習用アプリに感じた違和感なんだろうと思う。

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