『音楽の聴き方』【基礎教養部】

1. はじめに

 本記事は、JLAB 基礎教養部の活動の一環として作成されたものであり、以下に引用する Naokimen 氏の記事を受けての返句でもある。いずれ あんまん 氏も同趣旨の記事を投稿される予定であるから、そちらも参照されたい(あとでリンクを貼ります)。

2. 僕にとっての音楽と漫才

2.1 僕にとっての音楽

 ジェイラボにも音楽を趣味としている人は多いが、僕はそうではない。クラシックに興味を持つわけでも最近流行りの歌を追いかけるわけでもない。よく聞く曲といえば 80 ~ 90 年代のものばかりで周りと話も合わない。さらには誰かのライブやコンサートに行ったこともないし、学術的な側面から音楽を見つめたこともない。

 できるかぎりで僕と音楽のかかわりを思い出してみる。中学のときは担当の先生が精神を病んで複数回休職したほど音楽の授業が荒れていて、適当に歌を歌ってリコーダーを弾いて終わるくらいしかできなかった。勉強らしいことといえばせいぜい音楽記号をいくつか覚えたくらいだろうか。おかげで音楽史や音楽理論についてはまったく詳しくない。高校では音楽・美術・書道からの選択授業だったが、抽選に敗れて第3志望の音楽に配属された。赤点スレスレを取るほどまったくやる気がなく、パズドラばかりしていて怒られたことだけ覚えている。同級生にボーカロイドを好む子が多かったこともあって何曲か覚えたが、そこから自分でも開拓しようとまではならなかった。学校の外でも、自発的に好みの曲を探したり音楽鑑賞に耽ったりする時間はほぼない。

 まぁこんな感じで、僕は音楽についてはアマチュア以前のズブの素人である。それゆえ、本書で挙げられる具体例のほとんどを知らなかった。普通でいえば例というのは、抽象的に書かれた内容を具体例でもってイメージしやすくしたり、あるいはその逆に、みんなが共有できるいくつかの事例から共通点を抽象してまとめたり、そういうためにあるものだと思う。本書のそれも篤志家にとっては「はいはいあれね」と思わせる例だったのかもしれないが、僕にはわからなさを増幅させるだけだった。時にはあえて具体例をすべて無視して、筆者の考えだけを抜き出して読んだ部分もあった。本当に僕は本書を読んだと言えるのだろうか。


2.2 漫才を味わう型

 そんな僕が本書を読むうえで採った方法は「漫才でも似たことが言えるのではないかと考えつつ進める」ことである。書評という趣旨を外してしまうので僕が考える漫才論について全開で語る機会は別の記事に譲るが、ここでは本文を引用しながら、筆者が音楽を語るように僕も漫才を語ってみたいと思う。

⑴ 僕が好きな漫才
 音楽をより良く「聴く」ために、筆者は次のような提言をする :

 いずれにせよ私たちは、他のどんな芸術にも増して音楽経験は、こうした生理的な反応に左右されやすいことを、よく自覚しておいた方がいい。「自分はこういうタイプのメロディにぐっと来てしまうクセがあるんだよなあ」とか、「こういうリズムを聴くと反射的に嫌悪を感じてしまうんだ……」といった具合に、自分の性癖を理解しておくわけだ。それこそが、個人の生理的反応の次元と客観的な事実とをある程度分けて聴くための、最初のステップである。

岡田暁生『音楽の聴き方』P.11

 僕は大阪生まれなので、小さいときから吉本新喜劇を見て育った。映画やゲームなどでは「ネタバレ」が問題になるが、新喜劇の良さはむしろ「ネタがある程度バレている」ことにあると僕は思う。新喜劇のメンバーの多くはお決まりのギャグや件を持っていて、お客さんはそれを「また同じやつかいな」ではなく「待ってました!」という感じで受け入れている。それがなぜかといえば、そのネタの多くが演者の人柄に大きく根差されているからではないか、と僕は考えている。

 新喜劇のメンバーには、コンプレックスを持ちうるような身体的特徴を抱える人が多い。太っていたり、ハゲていたり、今にも死にそうに弱っていたり、背が低かったり、活舌が悪かったり、顔が丸かったり長かったり、アホだったり、そういった弱い部分を「面白い人」という特徴で塗り替えて前向きに頑張っている。無茶苦茶にふるまいながらも普通の人の心も持ち合わせている。それを「しゃあない奴っちゃなあ」という感じで可愛がるように受け入れるのが新喜劇の文化だと思う。「ウケる」とは「受け入れられる」なのである。お客さんが彼らを見る様子はまるで、親戚のおじさんが甥っ子や姪っ子に接するようなものだ。変わらず元気でいてほしいと思っているから同じネタに抵抗がないし、むしろそれを望むのである。

 芸人の中では、その人の個性や人柄のことを「ニン (人)」と呼ぶ文化がある。最近は漫才やコントの境目がどんどん曖昧になってきているが、漫才はコントのように役になりきらず、あくまでも本人であるという体を貫く。漫才とは「ニン」を前面に出したうえで異常性を存分に発露するもの、つまり自分が思うことを素の自分として思い切りぶつけている、というのが究極的な漫才の定義だと考えている。その様子が見られる漫才が僕は好きだ。その「異常性」という部分にはまだ掘り下げる余地があるが、完全に音楽から離れてしまうのでここでは述べない。

 逆に言うと、その人の芯を感じないような漫才には僕は惹かれない。「こういうボケを入れたら受けるんじゃないか」という打算が透けて見えたり、ありのままの自分を出すことを恐れていると感じ取られたりすると萎えてしまう。


⑵ 漫才を語ること
 
本書では、音楽を「聴く」ことだけではなく「語る」ことや「読む」ことにもページが割かれている。音楽についても語ることが憚られる一面があるようだが、漫才についてはさらにその性質が強烈である。しかしながら僕にとっては造詣を深めるとは「語っては反例を見つけて修正する」という仮定の繰り返しであり、語る部分を除くことはできない。たとえそれが音楽であっても漫才であってもだ。また本文から引用しよう :

 既に引用したように、パウル・ベッカーは「結局人は自分の中にあらかじめ存在しているものに対してしか反応しないのだ」という、読みようによってはかなり醒めた見解を述べてきた。私もおおむねこれには賛成である。だが今あげたような体験を想起するたびに私は、究極の芸術体験とはひょっとすると「未知なるものとの遭遇」であるのかもしれないという思いにとらわれる。
 [中略]
 音楽が自分の身体に乗り移ってくるあの黒魔術のような感覚は、初めてストラヴィンスキーの ≪春の祭典≫ を聴いたときなどにも通じるものであった。思うに右のような鮮烈な印象は、結局のところ「言葉」の問題と関わっているように思えてならない。つまり音楽に言葉という網をかけるのがうまくなるほど、人は体験の衝撃をまともに喰らうことなく、自分と音楽との間に言語のクッションを介在させてショックを和らげるようになるのではないか。やがてルーティーン化が恒常的になってくると、何を聴いても「これって要するにこういうことだよね」と、すぐに概念でもって納得してしまうようになる。そして逆に言えば、私にとって ≪村松ギヤ・エンジンによるボレロ≫ や『アフリカン・ピアノ』は、それを前にどういう言葉を口にすればいいか途方に暮れるような音楽、手垢がついた規制の言葉を一度無効にしてしまって、ゼロから「音楽を語る言葉」を鍛えなおすことを求めてくる種類の音楽だったのだろう。おそらくこういう経験だけが、音楽に反応する感受性の表面積を根底から拡張してくれるのだと思う。

『同書』P.24 ~ 26

 僕にとって M-1 はこういう出会いの場である。ここではヨネダ 2000 を例に、僕が衝撃を言語によって和らげていく様子を説明してみたい。僕がはじめて彼女たちのネタを見たのは 2021 年の M-1 予選だった。それまでにも一風変わったネタをすると言われる漫才師をいろいろ見てきたが、彼女たちは単に面白いとか他とは違うとかいうだけではなくて、何かものすごいことをやっているんじゃないかという気がしたのだ。それについて一つ言葉による答えを出したのが翌年 2022 年の The W を観たときで、次のように note 記事にも書いている :

 Twitter やヤフコメなどでの評価を見て感じたのは、彼女たちがネタの中で拾わないボケや要素の中にも面白いものがたくさんあるのに、それをわかりやすく前面に出さないがために損をしているのかもしれない、ということだった。たとえば W で披露した 2 本のコントの中だけでも、
 ・体形や座り方で巻きグソに見せる
 ・自分の感覚で簡単に他者を批判してはいけないという風刺
 ・ウンコがやさぐれて吸いなれていないタバコに咽る
 ・ウンコがグレてウンコ座りをする
 ・ウンコが親(?)の愛情に触れて改心する
 ・松山千春の名曲の歌詞通りなのに場違いな雰囲気を作る
 ・"動物の気持ちがわかる謎の女性外国人" に目をつける発想そのもの
 ・キャサリンの吹き替えのチグハグ感
 ・愛がちゃんと英語っぽい謎の言語を話している
など、僕が思ったことだけでもこれだけある。彼女たちがこのことを意図してネタを作っているのかはわからないし、僕の勝手な思い込みや買い被りなのかもしれない。ただ、これだけ想像力を膨らませながらネタを見られる芸人はそうそういない。解釈の幅を多く残しながら、センスやメッセージ性をひけらかすこともなく、表面上にハッキリ作る笑い所をぜんぶバカなものにする。しかもそのバカなところだけで他のコンビに劣らない量の笑いを取っていた。芸人としてあるべき姿だと思う。"隠す" というのが "お客さんに届いていない" と判断されかねない脆さもあるが、僕はそこに良さを感じた。

蜆一朗 『M-1 グランプリ 2022 決勝前日の所感』

これを受けて 2022 年の M-1 を見て、後日に審査員の1人だった博多大吉氏が自身のラジオで語っていたことを聴いて嬉しかったと同時に驚いたことがあった。彼は「彼女たちの漫才は謎解き漫才だ」と言ったのである。お客さんに訴えかけるのではなくて見つけてもらう形だと評していて、要は僕が表現した上記引用に近いことを言っていたのだ。だが僕はそれを誇りたいわけでもない。僕が驚いたのは、僕があれだけ長々と説明したことを「謎解き」という今どきの単語一つでニュアンスまで簡潔に表現されたことである。さすが芸歴を 30 年以上重ねた審査員だと感動したのを覚えている。これを聴いてもっと漫才への造詣を深めたいと意欲的になれたものだ。

 僕や大吉氏が感じたことはヨネダ 2000 にとっては皆目見当違いかもしれないが、彼女が意図したとおりに伝わっているのかはどうでもよい。大事なのは彼女たちが「これは一体どういうことなのだろう」と人々に考えさせるだけの魅力を持ち合わせていること、それについてあれこれ思索に耽られるだけの深みや芸術性が漫才にも生まれ得るということだ。


3. 最後に

 不勉強につき音楽について語ることはとうとうできなかったが、それでも僕はこの記事が本書の感想として成立していると感じている。本文の言葉を借りるに「感受性を愛撫される」感覚を持つという意味では、漫才も芸術と言えると信じているからだ。音楽を芸術ということについて異論を持つ方は少ないと思うが、こと漫才についてはそうではないだろう。その差異について考えるとても良い機会になった。特に 19 世紀に音楽が社会形成に利用されたという記述については、M-1 というイベントを語るにあたって大きなヒントになると感じた。以前コミュニティの中で「M-1 について記事を書く」と予告したが、体調を崩したこともあって計画倒れになっていた。今年の M-1 までにその記事を書いて、また M-1 を見て、漫才についてまた考え直して、…というサイクルをどんどん回していきたい。

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