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お墓参り

一人暮らしを始めて約一年が経った。今の時代はスマホがあるから家族や地元の友達とは離れていても、いつでも連絡が取れるし、繋がっていると感じられる。寂しさなんてものは微塵も感じない。しかし、地元から離れて唯一恋しくなったのはお墓参りであった。お線香のあのいい匂いとも悪い匂いとも言えない独特の匂いが恋しい。

正直、地元で暮らしていたときはお墓参りに行くのは面倒で億劫だった。お墓を掃除するのは大変だったし、家族に連れられた時にしか行かず、私からお墓参りに行こうなんて言い出すことはなかった。なにも深く考えずに、とりあえず手を合わせていた。でも、今思い返せばお墓参りに行った後はなんだか心がスッキリしていた。

自分がこの世に存在するのは、自分に先祖がいたからである。子供の頃はそんな当たり前のことを意識していなかった。でも、親元を離れて精神的にも成長して、自分の存在、親の存在、先祖の存在に思いを馳せると、自分が今生きていることに言葉にできない感動を覚える。心からありがとうって思える。

お墓参りをする目的は自分の先祖に感謝することだと思う。「ありがとう」という言葉は相手に対して使う言葉なので、相手の前で言う必要がある。だから、こうやってパソコンの前で先祖に「ありがとう」って感謝しても、感謝を伝えた気がしない。伝えられない。先祖に感謝するためには必ずお墓に参る必要がある。お墓に向かって手を合わせてやっと感謝の気持ちを伝えることができるのだ。死者には2度と会うことはできない。死んでしまえば対象を失ってしまう。でも生きている人はもう一度会いたい、語りかけたい。だからお墓を建てるのだ。お墓を建てるのは亡くなった人のためではなくて、生きている人のためなのだ。

先祖には嘘は通用しない。なんでもお見通し。それでいて自分の味方の存在だと思っている。だから、先祖に対しては取り繕っても意味がない。さらに、手を合わせて祈ると言う行為は、声を出さないから言葉を選ぶ必要がない。心の最も生の状態をそのまま伝えることができる。先祖に対してはありのままの自分の心を相手に伝えることができる。

私は、霊などは一切信じていない。お墓に先祖の霊がいるなんて思っていない。お墓に向かって手を合わせているとき、お墓を媒体に先祖に向かって心の中で語りかけているが、それは結局自分の脳が生み出した先祖である。私はひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんには出会ったことすらないが、彼らのお墓の前に立てば、私の頭の中にひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがいる。しかし私の頭の彼らは、私が作り出した幻像であってそれはもう一人の自分である。つまり、お墓に向かって手を合わせると言う行為は、先祖だけでなく自分自身とのコミュニケーションでもある。だから、先祖に伝えたありのままの自分の気持ちはダイレクトに自分にも伝わる。これがお墓参りに行ったら心がスッキリする理由だと思う。

今度地元に戻ったら、綺麗なお花を持ってお墓参りに行こうと思う。そして、両親が死んだら立派なお墓を建ててやろう。まあそれは両親のためじゃなくて自分のためだけど。


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