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『サラバ!』 西加奈子(2)

 おばさんは、とてもつつましい人だった。僕が覚えているおばさんは、大体4パターン程度の洋服しか持っていなかった。
 映画を見に行くときも、厳選に厳選を重ねていたし、大概は家の小さなテレビで借りてきたビデオを見るにとどめていた。レコードと本はたくさん持っていたが、すべて古レコードか古本で、どれも擦り切れていた。
 おばさんの選ぶものは脈略がなかったが、脈略がないからこその真剣味があった。おばさんは、誰かに知らしめるためにそれらを吸収していたわけではなかった。つまり自分のアイデンティティを形成するために芸術を利用することは、決してしなかった。おばさんは自分のために、あるいは自分を慰めるためだけにそれらを欲した。

 僕にとって、須玖は驚異的だった。これだけの知識があるのに、それをまったくひけらかさないことが、そしてこれだけの造詣が、ありながら尚、サッカーに思い切り取り組んでいる姿が。 
 須玖は、夏枝おばさんに似ているのだ。 
 おばさんの芸術を愛する様子、そしてそれらを決してひけらかさず、ただ愛によってのみ突き動かされている様子が、とてもよく似ているのだった。 

「逃げ場みたいなもんやったんかも」
「けっこう家の中が殺伐としとったんやけど、そんな中で本読んでたら、なんやろう、この世の中にこんな世界があるんか、て驚いて。家の中で本開いてるだけやのに、一気に別の世界に行けるやん。」
「小説だけやない。音楽も、映画もそうやねん。」
「今俺がおる世界以外にも、世界があるって思える。」 
 須玖のその言葉は、のちの僕に影響を与えた。とても大きな。 
 でも、その時の僕は、須玖がなぜ自分の知識をひけらかさなかったのか、その理由を目の当たりにしただけだった。 
 須玖にとって映画や音楽、小説は、知識ではなかった。それも、自分を飾るためのそれではなかった。須玖にとってそれらは、よりどころだった。もっともっと、切実なものだった。だから誰かにひけらかす必要はなかった。ただそれらと共にあるだけで、須玖は救われたのだ。 
 だから須玖は、夏枝おばさんに、とてもよく似ていた。

「金なくっても、意外と豊かやなぁって思うわ。」 
 須玖は実際、豊かに見えた。 須玖は、たくさん持っていたレコードや本を、ほとんど手放していた。だが、新しい音楽や新しい物語には、金を介在しないで出会うことが出来るようだったし、その豊富な知識と変わらぬ芸術への愛で、須玖は誰よりも余裕のある男に見えた。ほとんど同じ洋服を着ていたが、綺麗に洗濯していて、清潔だった。
 須玖はまったく、平日の昼間にブラブラしている男にあるまじき気品を備えていた。

 僕はまだ歩き出せずにいた。  
 もはやそのことを焦ることはなくなり、僕はただ粛々と日々を過ごしていた。僕は何かを待っているような気持ちだった。それが何なのか分からなかったが、それさえあれば動き出せる、僕はそう思っていた。楽観的であったのか、悲観的であったのか分からない。僕はおそらく、ただとても、静かだった。 
 朝は7時に起き、質素な朝食を食べ、部屋の掃除をした。毎日掃除していると、綺麗なままだろうと思っていても、確実にどこか汚れていた。部屋の隅には綿埃がたまり、トイレの便器には染みがつき、風呂場には毛が溜まった。僕は静かに、自分が生きていることを思った。毎日、僕は何かしらのものを輩出していた。 
 掃除が終わると、おにぎりやサンドイッチを作って、図書館へ向かった。   
 家では一切の情報を遮断して過ごしていた。テレビをつけることはなかったし、インターネットを開くこともしなかった。 
 図書館に行くのに、僕は自転車を利用した。電車の吊り広告やふとしたときに見える誰かのスマートフォンの画面すら、僕は避けた。僕は自転車に乗り、家からまっすぐ図書館へ行くことだけを考えた。 
 図書館では、相変わらず小説だけを読んだ。物語の世界に没頭した。席に座り、本を開くと、僕はもう、別世界に行けるのだった。今自分がいる場所だけがすべてではないと思うことが、僕の何よりの慰めになった。 
 自分の作ってきたお昼ご飯を休憩室で食べ、閉館まで本を読んで過ごした。自転車を漕いで家に戻る途中、スーパーで晩ご飯と明日の朝食と昼食の材料、最低限のものを買って帰り、夜はまた、図書館で借りてきた本を読んだ。 
 これを禁欲的な生活、と言っていいのかは分からなかった。ただ、とてもシンプルだと思った。僕はとてもシンプルな生活サイクルの中にいた。質素な食事と自転車での移動だけで、僕の体は徐々に元の体型に戻り始めた。  
 僕はあまりにも完璧な自分だけの世界にいた。情報を遮断し、静けさのただ中にあった。僕と物語以外のところで何かぎ起こっているなんて、想像すらしなくなっていた。

『サラバ!』西加奈子

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