アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』第1章:いかにしてボヘミアン一派は築かれたか

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ここに記すのは、懐疑論者たちが神の代理人と呼ぶところの偶然によって、あるとき出逢った個々人が仲間となり、のちにボヘミアンと、つまり本書の著者が世に知らしめようとした一派となった、その邂逅のいきさつである。

ある朝(4月8日のことだ)、絵画と音楽というふたつの自由技藝に精進していたアレクサンドル・ショナールは、目覚まし代わりにしていた近所の雄鶏の時鐘に、いきなり叩き起こされた。

「ちくしょう!おれの羽根つき時計は進んでやがる、もう今日だなんてありえないぞ」ショナールは怒鳴った。

台詞とともに、自身の器用な発明による家具から飛び起きた、それは夜にはベッドとなり(言うまでもなく、まるでなっていないわけだが)、昼はベッド以外の何にでも使える家具である、前の冬があまりに寒かったから他の家具は消えたのだ。よろず屋ジャック〔器用貧乏〕の家具のといったところだ。

刺すような朝の北風から身を守るべく、ショナールは急いでペチコートを履いた、星のスパンコールを散りばめたピンクのサテン製で、部屋着にしていたのだ。その悪趣味な安服は、ある仮面舞踏会の夜、ショナールのまことしやかな約束に引っかかるという悪ふざけが藝術家の許に残していったもので、モンドール侯爵に扮したショナールはポケットの中でこれ見よがしに10エキュほど鳴らしたのだが、それは芝居の小道具から拝借した、金属板を打ち抜いた作りものの硬貨であった。

部屋着を整えると、藝術家は窓と鎧戸を開けに行った。光芒一閃、太陽が部屋に射しこみ、眠気で靄のかかった目を大きく見開かせた。同時に近所の鐘楼が5時を打った。

「ちょうど夜明けか、驚いた」ショナールは呟いた。そして壁にかかったカレンダーを見ながら続けた。「しかしやっぱりおかしい。科学的知見からいって間違いない、一年のうち今の時期には、5時半にならないと日が昇らないはずだ。まだ5時なのに日が出ている。罪深い熱意だ!この惑星は間違ってるぞ、経度局に訴えてやる。それはそうと、少しは自分の心配事にも気を回さないと。昨日の次が今日、これはよいだろう。で、昨日が7日だから、土星が逆行でもしていないかぎり今日は4月8日のはずだ」ショナールは守衛が壁に貼り出した解約規則を読み返して言った。「この紙切れの文面を信じるなら、今日の正午きっかりに、この場を空にして家主のベルナール氏に期限の来た3期分75フランもの金を払わなければならない、下手くそな字でそう書いてある。いつものごとく偶然が解決してくれるを期待してきたが、時間切れのようだ。ついに残すところあと6時間、それを上手に使えばおそらく……さて……さっそく取り掛かろう」

ふさふさの生地でできていたはずが今やあちこち毛の抜けたコートを羽織ろうとして、ショナールは突然、タランチュラに噛まれでもしたかのように踊り出した、ダンスホールで畏れ多くもたびたび憲兵隊のお世話になった自作の舞を始めたのだ。

「それ!それ!不思議だな、朝の空気が妙案を与えてくれる。どうやら気分が乗ってきたようだ、さっそく……」

ショナールは半裸でピアノの前に座り、けたたましい和音を次々に重ねて寝ぼけた楽器を叩き起こすと、独り言を呟きながら、ずっと思案している旋律を鍵盤の上で探しはじめた。

ド・ソ・ミ・ド・ラ・シ・ド・レ、ふんふん。ファ・レ・ミ・レ。おっと!ああ!このは違う、ユダみたいな偽者だ」ショナールは音の怪しい鍵を乱暴に叩いて言った。「さて、短調は……。青い湖に白いマーガレットを落とした若い娘の嘆きを巧みに描かないと。目新しい発想じゃない。要は流行っているからで、青い湖の出てこない恋歌をあえて発表しようという編集者なんかいない。長いものに巻かれよ……。ド・ソ・ミ・ド・ラ・シ・ド・レ、納得できないわけじゃないが、どうもヒナギクのような感じを与える、とくに植物学に強い人間にとっては。ラ・シ・ド・レ、まったく、しょうもないだ!さて、青い湖だとはっきり分からせるには、湿っぽさや碧さや月明かり(月も似たようなものだからだ)が必要だろう。よし、けれども、そしたら白鳥も忘れずに……。ファ・ミ・ラ・ソ」ショナールは高く澄んだ音を連ねながら続けた。「あとは娘の最期の言葉だ、雪に埋もれた最愛の相手と結ばれるべく青い湖に身投げしようと決心した娘だ。この結末は分かりにくいけれども面白い。やわらかさと物悲しさが要るな。来たぞ、来たぞ、マグダラのマリアのようにさめざめと泣ける12小節の曲だ、心を裂くような!おお!寒い!」星を散りばめた寝巻姿のショナールは身を震わせて言った。「薪も裂けたらいいのに!寝室に梁がある、皆で集まるときに邪魔で仕方ない……夕食をとるのにね。あれをちょっと燃やそうか……。ラ・ラ……、レ・ミ、ひらめいたら頭に寒気が来た。ああ!やれやれ!何てこった!このまま娘を溺れさせるぞ」

揺れる鍵盤を指で痛めつけながら、目を輝かせ耳を欹てたショナールは自分の旋律を追い求める、そいつは捉えがたい風の精のように、楽器の振動が部屋に振り撒いた音の霧の中を飛び回っているのだ。

「さて、おれの旋律は詩人の歌詞とどう組み合わさるかな」ショナールは続けた。

そして、あまり感じのよくない声で、もっぱら歌芝居や俗謡に向いた詩の一節を口ずさんだ。

金髪の娘、
星空の頃に、
マンティラ〔レースのヴェール〕を脱いで、
かすんだ目をやる、
そして、紺碧の波間に
の漣を立てる池に……

ショナールは義憤に駆られて叫んだ。「何だって!どうしろと!銀の湖の紺碧の波、そんなもの一向に見えてこないぞ、ロマンチックすぎる、だいたいこの詩人は馬鹿なんだ、銀も湖も見たことがないんだ。それに、こいつのバラードは下手くそだ、詩句の切れ目が曲の邪魔になる。いずれおれが自分で詩を作ってやろう、今すぐにでもだ、いま気分が乗っているんだ、旋律に合う歌詞の案を作ってみよう」

ショナールは両手で頭を抱え、詩の女神たちとつながろうとする人間らしく厳かな姿勢をとった。

数分間の聖なる同衾を終えると、いみじくも台本家が怪物と呼んでいる〔monstreは怪物とか畸形とかいった意味だが、藝術用語では試作型のこと、とくにここでは音数だけ合わせた仮置きの詩句のこと〕不恰好な歌詞、作家が案を出しやすくするための仮組を作った。

もっとも、ショナールの怪物は常識的なもので、ある日付が不意に訪れたために呼び起こされた心中の不安をはっきりと描いていた。4月8日だ!

これがその歌詞である。

8たす8は16
6と置いて1繰り上がり
おれは楽に
見つけられることだろう
貧しくて正直で
800フラン貸してくれる奴を
おれの借金返済のために
おれに時間さえあれば……
《くり返し》
絶対的なる時計盤が
12時の15分前を鳴らす
部屋代をきっちり払うのだ(3回くり返し)
ベルナール氏に

作品を読み返してショナールは言った。「ちぇっ、絶対部屋代、いかにも金のなさそうな韻だ、しかし練っている暇はない。つぎは音符と音節をどう合わせるか、やってみよう」

そして独特のひどい鼻声で再び恋歌を奏ではじめた。できあがったばかりの成果に気をよくしたか、ショナールは嬉しそうに顔を顰めて自画自賛し、鼻の上に山型記号〔アクサン・シルコンフレックス〕の皺を寄せた、満足したときはいつもそうなのだ。しかし鼻高々の至福も長くは続かなかった。
近くの教会の鐘が11時を打った。震える音のひとつひとつが部屋に入ってきて、あざ笑うかのごとく響きながら消え、哀れなショナールに言うようだった。「準備はできたのか?」

藝術家は跳ねるように椅子を立った。

「時は鹿のように駆けるというが……残り45分で75フランと新しい住処を見つけねばならない。そんなことはできまい、あまりに魔法じみている。見てろ、5分で策を探すぞ」頭を両膝に挟み、深い瞑想に入った。

5分後、ショナールは頭を上げた、75フラン相当のものは何も見つからなかった。

「ここから抜け出す方法はただひとつ、ごく自然に出てゆくことだ。いい天気だ、おれは偶然を友としている、そいつも太陽の下を散歩しているだろう。ベルナール氏に清算する術を見つけるまで偶然の世話にならないとな」

ショナールは洞窟のように深いコートのポケットに詰められるだけ物を詰め込み、スカーフに肌着類をくるんで部屋を出たが、わが家にサヨナラを言うのを忘れはしなかった。

中庭を横切ると、家の門番が待ち構えていたらしく、急に引き止めてきた。

門番は藝術家の行く手を遮り、大声で言った。「おや、ショナールさん、覚えていませんか?今日は8日ですよ」

8たす8は16
6と置いて1繰り上がり

ショナールは口ずさんだ。「それしか考えてないよ!」

門番は言った。「引越が少々遅れているようですな、11時半です、あなたの部屋を借りた新しい住人が間もなく来るでしょう。急いでください!」

ショナールは答えた。「それなら通してください、引越の車を探しに行くんですから」

「そうでしょうな、しかし引越の前に、ちょっとばかし済ませてもらいたい手続があります。支払期限の来た家賃3期分を納めない限り、髪一本たりとも持ち出させませんよ。払えるんでしょうな?」

ショナールは一歩進みながら言った。「もちろん!」

門番は答えた。「では守衛室で領収証を切ります」

「戻ったときに受け取ります」

門番は食い下がった。「おや、どうして今ではないんですか?」

「両替屋に行くんです……持ち合わせがないもので」

門番は怪訝そうに答えた。「ああ!そう!金策に行くんですな?それなら腕に持っている包みを担保に預かっておきます、邪魔でしょうから」

ショナールは胸を張った。「管理人さん、もしかして疑っておられるのですか?わたしがハンカチに家具一式を入れて持ってゆくと思いますか?」

門番はやや声色を落として答えた。「すみません、そう仰せつかっていますので。ベルナールさんから、あなたが支払うまで髪一本も持ち出させてはならない、と念を押されてれいるのです」

ショナールは包みを開いて言った。「しかし見てくださいよ、これは髪の毛じゃありません、ここから20歩のところ、両替屋の角にある洗濯屋へ持ってゆく下着ですよ」

包みの中身を確かめると、門番は言った。「たしかに違いますね。失礼ですがショナールさん、新しい住所を教えてもらえますか?」

「リヴォリ通りです」藝術家は落ち着き払って答えたが、足はもう通りに向かってずんずん進んでいた。

「リヴォリ通り、か」門番は指を鼻に突っ込みながら呟いた。「リヴォリ通りで部屋を貸したひとがいるとして、身元を確かめに訪ねてこないのはおかしい、じつに怪しい。しかしともかく支払わないことにはいつまでたっても家具を持ち出せない。どうかショナール君が出てゆくまで新しい借り手が来ませんように!階段のところでアリアが聞こえるぞ。ほら、そうだ」すぐさま小窓から頭を突き出して言った。「さっそくおいでなすった」

重荷をものともしない様子の運び屋を連れて、ルイ13世ふうの白い帽子をかぶった若者が、ちょうど入口をくぐったところだった。

若者は目の前に現われた門番に尋ねた。「もう部屋に入れますか?」

「それがまだなんです、しかしすぐ空きますよ。前の住人は引越の車を探しに行っています。待っている間、家具を中庭に置いておくこともできますが」

「雨が降らないか心配で。家具が傷むかもしれない」若者は歯に咥えていたスミレの花束をそっと噛みながら答えた。そして、後ろに控えている男、門番には得体の分からぬものをあれこれ担がされている人夫に呼びかけた。「運び屋さん、その荷物はロビーに置いて、前の部屋にまだ残っている大事な家具と藝術作品を取りに行ってください」

運び屋は壁づたいに高さ6尺か7尺ほどの木枠を並べ、折り重ねられた画布はひとりでに広がってゆくようだった。

折られた絵の一枚を少し開き、画布にできた引っかき傷を指差して、若者が言った。「ほら!何てことだ、わたしの大ヴェネチア鏡にひびを入れてくれましたね。今度は注意してくださいよ、とくに本棚を運ぶときは」

壁に立てかけられた木枠のほうを訝しげに振向き、門番は呟いた。「ヴェネチア鏡が何だって?鏡なんかないぞ、きっと冗談なんだろう、屏風しか見あたらない。ともかく、次に運ばれてくるものを見に行こう」

「おたくの入居者はすぐに部屋を空けてくれないんですか?12時半ですよ、部屋に入りたいんですが」若者は言った。

「もう間もなくだと思いますよ、それに別段まずいこともないでしょう、あなたの家具はまだ来ていないんですから」門番は答えた。

若者が言い返そうとしたとき、伝令の騎兵が中庭に入ってきた。

騎兵は脇に提げた大きな革の郵便鞄から手紙を取り出して尋ねた。「ベルナール氏はおられるか?」

「こちらですが」門番が答えた。

「彼に手紙だ、受領証をいただきたい」そう言うと騎兵は門番に速達を渡し、門番はサインを貰うために部屋へ向かった。

門番は、いらいらと中庭を歩き回っている若者に言った。「お相手できなくてすみませんが、大臣から大家のベルナールさん宛に手紙が来たので、渡してきます」

門番が部屋に入ると、ベルナール氏は髭をあたっている最中だった。

「何の用だね、デュラン?」

門番は帽子を取って答えた。「伝令兵がこれを届けに来ました、大臣からです」

そしてベルナール氏に陸軍省の証印つきの封書を渡した。

ベルナール氏は驚きのあまり剃刀で傷を作りそうになった。「何と!陸軍省からだって!レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに叙勲されたに違いない、ずっと願っていたことだ。ついにわたしの立派な姿勢が評価されたんだ」そして上着のポケットを探って言った。「よし、デュラン、わたしを祝して一杯やるための100スーだ。受け取ってくれ、いま財布を持っていないが、すぐに渡すから待っておれ」

門番は、普段そんな癖などない大家から降って湧いた大層な気前よさに驚いて、帽子をかぶり直した。

いつものベルナール氏ならば、そのような社会的上下関係の掟破りを厳しく非難しただろうが、このときばかりは気づかなかったようだ。眼鏡をかけると、スルタン〔君主〕の勅命を受けるワズィール〔宰相〕のようにうやうやしく封書を開け、速達を読みはじめた。最初の数行で、たいそう顔が歪み、修道士のごとく脂ぎった頰に真っ赤な皺が寄り、小さな目から火花が散って、もじゃもじゃの鬘を燃やすところだった。

ついにはすっかりひっくり返ったような顔になった、地震に遭った顔とでも言えそうだった。

騎兵によって急送され、デュラン氏が政府に受取証を渡した、陸軍大臣からの書状に記された内容とは、このようなものだった。

大家どの、
神話によれば、礼節とは美しい所作の祖であります、その礼節を以って貴殿にお伝えせねばならないのは、やむを得ぬ事情によって、家賃を払えないということなのです、払うべきときに限ってそうなのです。わたしは今朝まで、家賃3期分の領収書を手に、今日という日を祝福できると期待しておりました。奇想、幻想、理想よ!わたしが枕を高くして微睡もうとしたら、不運、ギリシャ語で言うところのアナンケ、そう不運が期待をかき消したのです。当てにしていた入金が、おお何と取引の上手く行かぬことか!!!支払われず、かなりの金額がもたらされるはずのところ、たった3フランしか貸してもらえませんでした、そんなものをあなたに差し上げはいたしません。われらが美しきフランスにとって、そしてわたしにとっても、もっとよい日が来るはずです、きっと。入金されたら直ちに貴殿にお知らせします、そして部屋に置きっぱなしの貴重品を引き取りに戻りましょう、それらはあなたの保護下に置かれるわけです、万一にもあなたがわたしの誠実さのうちに刻まれている金額を回収すべく売却しないよう、法の保護により一年間は商取引を禁じられています。とくにお願いしたいのは、ピアノと、それから毛髪の繊細な色階の全てを集めた60本の巻毛を収めた額縁です、それはの解剖刀によって美貌の額から採取されたものなのです。
ですから大家どの、わたしの住んでいた部屋の天井板は、ご自由にしていただいて構いません。ここに署名をもって貴殿に許可を与えます。
アレクサンドル・ショナール

藝術家が友人の家で陸軍省の大臣を騙って書いた書簡を読み終わると、ベルナール氏は激怒して手紙をくしゃくしゃにした。そして約束の特別手当を待っている老いぼれデュランを見つけ、何をつっ立っているのかと乱暴に尋ねた。

「待っているのです、大家さん!」

「何を?」

「いや、気前よく……朗報だからって!」門番は口ごもった。

「出て行け!何だと、ふざけた奴だ!帽子をかぶったままでわたしの前に立つとは!」

「しかし、大家さん……」

「うせろ、口答えするな、出て行け、さもなくば、いや、待てよ。ろくでなしの藝術家の部屋に行こうじゃないか、何も払わずに引越しやがって」

「何ですって、ショナールさんが……?」門番は言った。

「そうだ」大家の怒りはニコレのように昂っていった〔18世紀の興行師・大道藝人ジャン=バプティスト・ニコレは、いつも観客に新たな驚きをもたらしたので、どんどん激しくなってゆくことを「ニコレのように」と言うようになった〕。「あいつが少しでも何か持ち出していたら、お前をクビにしてやる、分かったか?クビだ」

哀れな門番は呟いた。「しかし無理ですよ、そんなことは。ショナールさんは引越していません。あなたに支払うための金策に出かけたんです、それから家具を運ぶ車を探しに」

「家具を運ぶだと!急ぐぞ、まだ途中のはずだ、奴はお前を守衛室から遠ざけて一仕事するために嵌めたんだ、この間抜け」ベルナール氏は叫んだ。

「ああ!何てこった!おれが馬鹿だった!」老デュランは自分を階段へと引きずってゆく雇い主の大いなる怒りに震えて叫んだ。

ふたりが中庭に着くと、白帽子の若者が門番に突っかかった。

「ちょっと!管理人さん、すぐ部屋に入れるんじゃないんですか?今日は4月8日ですよね?わたしがが借りたのはここで、あなたに保証金を渡しませんでしたか、そうですよね、違いますか?」若者は叫んだ。

大家のベルナール氏が言った。「すみません、すみません。わたしがお答えします」そして門番に向かって続けた。「デュラン、この方はわたしが対応する。上の階に行け、ショナールの奴が荷造りのために戻っているはずだ。奴を捕まえたら閉じ込めておけ。そしたら降りてきて衛兵を探しに行け」
老デュランは階段に姿を消した。

ひとり残った大家は若者に頭を下げた。「すみません、わたしがお話しさせていただいているのは、どちら様でしょうか?」

「あなたの家の新しい借主です。この家の7階の部屋を借りたのですが、その部屋が空かなさそうで、待ちきれなくなったのです」

ベルナール氏は答えた。「本当に申し訳ありません。ある下宿人、あなたの入居される部屋の住人ですが、そいつとの間で問題が起こりまして」

最上階の窓から老デュランが叫んだ。「大家さん、大家さん!ショナールさんはいません……けれども部屋には……わたしが馬鹿でした、何も持ち出されてはいません、髪一本たりとも」

「それはよかった、降りてきなさい」そう答えると、ベルナール氏は若者に向かって言った。「まったく!どうか少しばかり辛抱してください。門番が家賃の払えない下宿人の部屋の品々を倉庫に運びます、あと30分のうちに入居できますよ。それに、あなたの家具はまだ着いていないのですよね」

「いや、大家さん」若者は静かに答えた。

ベルナール氏は周りを見回し、ようやく門番の気を揉ませていた大屏風に気づいた。

「えっ!すみません……いや……しかしわたしには何も見えませんが……」ベルナール氏は口ごもった。

「ほら」若者は木枠の紙を広げ、唖然としている大家に、碧玉の柱の並んだ壮麗な宮殿の内観を見せた。

ベルナール氏は尋ねた。「それで家具は?」

「ほらここに」若者は、買ったばかりの宮殿に描かれた豪華な家具を指差した、ホテル・ブリオンで社交劇〔貴族がサロンなどで内輪の友人たち向けに演じる芝居のことだが、ここでは知り合いしか観客のいない芝居のことだろう〕の小道具の即売会があり、そこで買ってきた……

大家が言った。「もっと真面目な家具をお持ちだと思うのですが……」

「何ですと、正真正銘ブール〔ルイ14世の家具職人〕の家具ですよ!」

「ご存じでしょうが、家賃の担保をいただかねばならないのです」

「やれやれ、宮殿では屋根裏部屋の家賃の保証に足りませんか?」

「いや、わたしは家具が、本物のマホガニーの家具が欲しいのです!」

「ああ!ある古代人に曰く、黄金だろうがマホガニーだろうがわれわれを幸せにはしてくれないのです。それにわたしはマホガニーには我慢できない、あれはあまりにひどい木です、誰もが持っているのです」

「しかし家具くらい持っておられるでしょう、どうなんです?」

「いや、家具は部屋で場所を取りすぎます、椅子でも置こうものなら座る場所がなくなりますよ」

「そうはいってもベッドはお持ちでしょう!どこで寝るですか?」

「神の御手の上です!」

「失礼ですが、もうひとつ訊いてもよろしいでしょうか、ご職業は何ですか?」ベルナール氏が言った。

ちょうどそのとき、運び屋が二度目の搬送を終え、回廊に入ってきた。背負子に積まれた品々の中に、イーゼルが見えた。

「あっ!」老デュランが恐ろしげに叫び、大家にイーゼルを見せた。「画家ですよ!」

今度は恐怖のあまり鬘の毛も逆立ったベルナール氏が叫んだ。「藝術家だと、そんなの先刻承知だ!画家だ!!!」そして門番に向かっていった。「だが、お前はこの方について何も教えてくれなかったな?この方の職業が分からなかったのか?」

「だって、この方はわたしに5フラン〔=100スー〕の心づけを下さったんです。画家だなんて思わないでしょう……」哀れな門番は答えた。

若者が口を挟んだ。「いつまでかかるんですか」

ベルナール氏は落ち着いて眼鏡を鼻にかけ直した。「家具をお持ちでないなら入居できませんな。担保のない借り手を拒否することは法律で認められているのです」

「わたしが約束するということで、どうですか?」藝術家は威厳を込めて言った。

「そんなものは家具の代わりになりません……別の部屋をお探しになることですな。デュランの心づけもお返しします」

門番は驚いて言った。「えっ?あのお金は貯蓄銀行に預けてしまいましたよ」

若者は喰い下がった。「しかし大家さん、すぐに別の部屋を見つけるなんてできません。せめて一日だけでも泊めていただけませんか」

「ホテルに泊まりなさい」とベルナール氏は答えたが、慎重に考えながら、すぐに言い足した。「それはそうと、よろしければ、あなたの入居するはずだった部屋を家具つきでお貸ししましょう、家賃を払えなかった入居者の家具ですが。ただ、ご存じのとおり、このような場合、家賃は前払いになります」

他にどうしようもない若者は言った。「ぼろい部屋で幾ら取られるのか?それが分からないと」

「そうはいっても部屋は上等なほうですよ、家賃は月25フラン、現状渡し、前払いです」

「前払いなのはさっきも聞きました、それ以上おっしゃる必要はありません、500フランお持ちですか?」若者はポケットを手探りしながら言った。

「何ですって、何とおっしゃいましたか?」大家は面喰って尋ねた。

「はあ、1000の半分ですよ、まったく!見たことがないのですか」藝術家が大家と門番の目の前で紙幣をひらひらさせると、ふたりは正気を失ったようだった。

「お貸ししましょう。20フランで結構です、デュランがあなたに心づけを返しますから」ベルナール氏は恭しく答えた。

藝術家は言った。「心づけは差し上げます、毎朝わたしに日付と曜日、月齢、天気予報、政治体制を伝えに来てくれるなら〔19世紀フランスでは何度も政治体制が変わったので〕」

「おお!だんなさま」老デュランは直角になるくらいおじぎをしながら叫んだ。

「よし、あなた、カレンダー役をお願いします。ひとまず今は運び屋の引越作業を手伝ってください」

「追って領収書を送ります」大家が言った。

その晩、ベルナール氏の新しい借主である画家マルセルは、逃げたショナールの部屋に入居し、宮殿に変えたのだった。

一方、当のショナールは、パリで金策なるものに走っていた。

ショナールは借金を藝術の域にまで高めていた。外国人を強請る必要に駆られた場合を見越して、地球上のあらゆる言語で5フラン借りる術を習得したのだ。金が追手を逃れる策略の数々を熟知していた。それに、潮の干満の時刻を知っている水先案内人にも増して水位の低いとき高いときを知っていた、つまり友人知人の定期的な入金日を知っていた。それで、朝どこかの家に入って行くのを見た者は「おやショナール君だ」ではなく「今日は1日か15日だな」と言うのだ。必要となったときに払える者から什一税を容易かつ平等に徴収すべく、ショナールは地区や街区ごとに全ての友人知人を載せたアルファベット順の名簿を作っていた。それぞれの名前に対して、家計事情を鑑みての借入限度額、持ち合わせのある時期、食事の時間帯と定番メニューが記されている。その名簿とは別に、ショナールはきっちりと整理された通帳を何冊か持っており、ごく細かい額も含めた借入総額を書きつけていた。ノルマンディーの叔父が一筆したためさえすれば相続できることになるはずの額面を超えた借金を背負いたくはなかったのだ。誰かからの借金が20フランに達したら、ショナールは直ちに借りるのを止め、もっと借入額の少ない何人かから借金してでも、すぐに一括返済する。こうして常に何かしらツケを抱えており、それを流動負債と呼んでいた。いつでも懐が温かくなったらすぐに返してくれると分かっていたから、皆も貸せるときは進んで金を貸していた。

ところが、必要な75フランをかき集めるべく家を出た午前11時よりこのかた、得られたのはたった1エキュだけだった、これはかの有名なリストのうちMとVとRの字の協力のおかげである。残りのアルファベットは、同じように支払日だったから、頼みの件を突っ返してきたのだ。

6時になって、猛烈な空腹が胃袋で夕食の時鐘を鳴らした。そこはメーヌ城門で、Uの字が住んでいるところだった。ショナールはUの字の家へ上がり込んだ。食卓の用意ができていれば加えてもらえるのだ。

通りがかりに門番が呼び止めた。「どちらへ行かれるのですか?」

「U氏の家だよ……」藝術家は答えた。

「彼はおりません」

「奥さんは?」

「奥様もいらっしゃいません。おふたりは、今夜家を訪ねてくるはずのある友人に、街へ食事に出かけたと伝えてくれ、と言伝して行かれました。じつは、もしあなたがその友人でしたら、住所の書置がありますので」そう言って門番がショナールに渡した紙片に、友人Uは次のように書いていた。

「ショナールの家へ食事に行ってくる、何々通り、何番地、そこで会おう」

「面白い、ことによってはおかしな話になるぞ」ショナールは引き返しつつ呟いた。

そして、何度か安く食事を済ませたことのある、近くの小さな大衆食堂を思い出し、そのメーヌ道路にある店、うだつの上がらないボヘミアンたちが「カデットおばさん」と呼んでいる店へと足を向けた。食事もできる居酒屋で、オルレアン街道の車屋やモンパルナスの歌手やボビノ座の二枚目役者が常連客だった。夏になると、リュクサンブール公園ちかくの有象無象のアトリエの二流画家、本を出したことのない作家、怪しげな雑誌の三文記者が、こぞって「カデットおばさん」へ夕食に来た。うさぎの白ワイン煮込みや昔ながらの塩漬キャベツ、火打石の香りのする薄い白ワインで有名だった。

ショナールは木蔭の席を取りに行った。「カデットおばさん」には、数本の痩せた木がまばらな枝葉で弱々しい緑色の天井を作っている席があるのだ。

「よし、仕方ない、景気づけだ、自分でベルシャザル〔宴会のこと。旧約聖書ダニエル記から〕を開くとしよう」ショナールは独りごちた。

それから一も二もなく、スープ一皿、塩漬キャベツ半皿、そして煮込み半皿をふたつ注文した。半皿をふたつ頼むと、合わせて一皿より4分の1以上も多くなることを知っていたのだ。

この注文の仕方が、ある若い娘の視線を惹いた。白い服を着て、蜜柑の花を髪に挿し、踊り子用の浅い靴を履き、身分を隠すためか模造品を真似たヴェールを肩にかけていた。モンパルナス座の歌手で、謂わば「カデットおばさん」の調理場を楽屋としていた。よく「ランメルモールのルチア」の幕間に来て、オイルビネガー和えアーティチョークだけの夕食を、デミタスコーヒーで〆るのだった。

「煮込み二皿ですって、なんて奴なの!」そして小声でウェイトレスに言った。「よく食べる若者ね。わたしの会計は、アデル?」

「アーティチョークが4スー、デミタスコーヒーが4スー、パンが1スー。計9スーになります」

「これで」歌手は鼻歌を歌いながら店を出て行った。

神に賜いしこの恋よ!

ショナールと同じテーブルの、古本の砦に半ば隠れていた正体不明の人物が言った。「ほう、お手本のようだ」

ショナールは言った。「お手本ですって?むしろ音痴だと思いますよ、わたしは」さらに「ランメルモールのルチア」がアーティチョークを食べていた皿を指差して続けた。「それに、ファルセット〔裏声で出す高い音〕を酢漬けにするなんて、馬鹿げてますよ!」

「確かにきつい酢だ。オルレアンの町はきつい酢の産地ということで評判ですからね」口火を切ったほうの男が言い立てた。

ショナールは、おしゃべりの釣針を投げてきた人物を注意深く見定めた。大きな青い目の据わった視線は、常に何かを探しているようで、顔つきに神学校の生徒めいた自信ありげな落ち着きを漂わせていた。古びた象牙のような顔色で、ただ頰だけは砕いたレンガの色を塗ったようになっていた。口は初心者の学生に描かれたようだ、誰かが腕を揺すって邪魔したのだろう。唇は少し黒人のようにめくれて犬歯を覗かせ、顎は白いネクタイの上で二段になり、一段は天をも脅かし、もう一段は地をも突き刺すといった具合だった。すり切れたフェルト帽のやたらと広いつばから髪がブロンド色の滝となって溢れていた。肩掛のついたはしばみ色のコートを羽織っていたが、生地はほつれ、おろし金のようにざらついていた。ぱっくりと開いたポケットからは新聞や雑誌の束がはみ出していた。自分が観察されていることなど少しも気を留めず、満足げな音を何度も響かせながら肉添え塩漬キャベツ一皿を平らげた。食べ終えると、目の前に開いておいた古本を読み、時おり耳に挟んだ鉛筆で書き込みを加えた。

ショナールは突然ナイフでグラスを叩いて叫んだ。「おい!おれの煮込みは?」

皿を手に現われたウェイトレスは言った。「すみません、もう売り切れなんです。これが最後の一皿ですが、あちらの方が先に注文されていまして」そう言うと、古本を読んでいる例の男の前に皿を置いた。

「ちくしょう!」ショナールは怒鳴った。

この「ちくしょう!」には、かなり鬱屈した落胆の響きが混じっていたため、古本を読んでいた男の心を打った。ショナールとの間に積み上げた本の砦をどけると、皿を真ん中に置き、極力やわらかな声色で話しかけた。

「もしもし、よろしければこの料理を分け合いましょうか?」

「いや、横取りするつもりはないのです」ショナールは答えた。

「親切心を受け取ってはいただけませんか?」

「そういうことなら、では……」ショナールは自分の皿を差し出した。

「頭は差し上げられませんが、よろしいですか」相手が言った。

「ああ!あなた、そんなのは気にしませんよ」ショナールは声を張り上げた。

しかし、皿を手許に戻すと、この見知らぬ男が、あげないと言っていたまさにその部分をくれたことに気づいた。

「何だって!ご丁寧にも言っていたことは何だったんだ?」ショナールは愚痴を独りごちた。

「人間にとって頭が最も崇高な部分だとして、うさぎにとっては最も不愉快な部分でしょう。人間だって、多くの者は頭に耐えられない。わたしは違いますがね、頭を崇めていますよ」

「それで、わたしのために取っておいてくれたのであれば誠に申し訳ないのですが」ショナールは言った。

「何ですって?……失礼、頭を取っておいたのは自分のためですよ、僭越ながらわたしも君を観察していてね……」

「すみません、ではこのかけらは何ですか?」ショナールは相手の鼻先に皿を置いた。

「驚いた、何だこれは!神よ!もうひとつ頭があるなんて!ビケパロス〔双頭〕のうさぎだ!」見知らぬ男は叫んだ。

「ビ……」とショナール。

「……ケパロス。語源はギリシャ語です。これについてはビュフォン氏が用心深く畸形の例を挙げています。いや、もちろん!そんな畸形を食べてしまったからどうというわけでもないですが」

この珍事のおかげで、ついに会話が繋がった。ショナールは、親切に与ってばかりではよくないと思い、追加の1リットル瓶を頼んだ。次の一瓶は古本の男が頼んだ。ショナールがサラダを差し出すと、古本の男はデザートを勧めた。夜8時にはテーブルに6本の空瓶が並んでいた。喋りながら安ワインをたらふく飲んで打ち解けたので、ふたりは互いに来歴を語り合うまでになり、幼馴染かのように知己の仲となっていた。古本の男は、ショナールの身上話を聞いたあと、自分はギュスターヴ・コリーヌだと名乗った。職業は哲学者で、数学やスコラ学や植物学、ほかにも多くのと名のつくものを教えることで生計を立てていた。

授業料として得た僅かな金額、それをコリーヌは古本に費やしていた。はしばみ色のコートはコンコルド橋からサン=ミシェル橋まで河岸の露天古本屋みなに知れ渡っていた。一生かけても読み切れないほど大量の本をどうするのかは誰も知らなかったし、何より本人も分からなかった。ただ、この癖は情念のようなものになっており、一冊の収穫もなく帰宅した夜など、皇帝ティトゥスの言葉を引いて「わたしは一日を無駄にしてしまった」と嘆くのだった〔スエトニウス『ローマ皇帝伝』〕。柔らかな物腰、あらゆる文体を組み合わせた言葉づかい、会話に散りばめられた強烈な地口に魅せられて、ショナールはすぐさまコリーヌに、前述の有名なリストに名前を加えさせてくれと頼んだ。

ふたりは夜9時に「カデットおばさん」を出たが、すっかり酔っ払って、まさに何本も空けて語り合ったという足取りだった。

コリーヌがコーヒーでもどうかと誘うと、ショナールも同意したが、自分は酒にすると言った。ふたりはサン=ジェルマン・ロクセロワ通りに面した、遊びと笑いの神モモスを看板に掲げたカフェに入った(シャンフルーリ『シルヴィウスの告白:惚れっぽいボヘミアン』を参照のこと)。

店に入ると、常連ふたりが白熱した議論を始めたところだった。ひとりは顔が色とりどりに茂った髯に埋もれている若者だった。ふさふさした輝かしい顎とは対照的に、若禿で薄くなった額は膝小僧のようで、数えられるほどしか本数のない髪のかたまりでは地肌を隠しようがなかった。黒い服は肘が擦り切れており、腕を高く上げると袖口から通風孔らしきものが幾つも見えた。ズボンはおそらくかつては黒かったのだろう、しかし靴は最初から新品でなく、「彷徨えるユダヤ人」に履かれて世界を何周もしてきたかのようだった。

ショナールは、友人となったばかりのコリーヌが、豊かな髭の若者と挨拶を交わすのを見ていた。

「知り合いですか?」哲学者に尋ねた。

「いや全然、ただ何度か図書館で見かけたことがあって。文学者なんでしょう」

「少なくとも図書館に通いつめているわけですね」ショナールは答えた。

この若者と議論している人物は40代で、太った頭が首を介さず両肩の間にそのまま埋まっているところからして、脳卒中で斃れる運命にありそうだった。へこんだ額には白痴と大書されており、小さな黒いカロッタ〔神父帽〕をかぶっていた。男はムートン氏といい、パリ4区の区役所に勤め、死亡記録係をしていた。

若者の服のボタンを掴んで揺さぶりながら、男は宦官のように甲高い声で叫んだ。「ロドルフさん!わたしの意見を言えというのですか?いいでしょう、新聞なんかいくらあっても何の役にも立ちません。こう仮定しましょう、わたしは一家の父である、いいですか?……それで……わたしはカフェにドミノをしに来た。話についてきてくださいよ」

「どうぞ、続けてください」ロドルフは言った。

ムートン親父は一節ごとに拳でテーブルを叩いてジョッキやグラスを揺らしながら続けた。「さて、わたしは新聞に目をやる、そして……何を見たか?ある新聞は白と言い、また別の新聞は黒と言う、あれこれごちゃごちゃと。それでわたしがどうなるというのか?わたしは一家のよき父親で、来たのは……」

「ドミノの勝負をするため」ロドルフが言った。

「毎晩ね。もちろん仮定の話です、分かっておられますか……」ムートン氏が続けた。

「もちろん!」ロドルフが言った。

「とても賛成できない記事を読んだのです。腹が立ちましてね、いても立ってもいられませんよ、というのはねロドルフさん、新聞なんてどれも嘘なんですよ。そう、嘘っぱちだ!」甲高い声をいっそう尖らせて叫んだ。「それに新聞記者ってのはごろつきだ、三文記者なんだ」

「そうはいってもムートンさん……」

勤め人は続けた。「そう、ごろつきなんだ、この世の不幸の原因は奴らだ。奴らが革命を起こし、アシニャ紙幣を作ったんですよ。ムラー〔Joachim Murat〕がその証拠だ」

「失礼、マラー〔Jean-Paul Marat〕とおっしゃりたいのでは」ロドルフが口を挟んだ。

「いやいや、違いますよ。ムラーですよ、わたしは子どものころ彼の埋葬を見たことがあるんだから……」ムートン氏が反論した。

「なるほど……」

「サーカスで演目になっていたくらいですから……ね!」

「ええ、確かに、ムラーですね」ロドルフは言った。

しつこいムートンが叫んだ。「一時間前から話してるでしょう?ムラーは地下室で働いていたんですよ、何てことだ!ああ、こう仮定しましょう。ブルボン家の人間は、彼は裏切ったのだからギロチンにかられけて然るべきと思ったのではないか?」

「誰が?ギロチン!裏切り!どうして?」今度はロドルフが叫び、ムートン氏のフロックコートのボタンを掴んだ。

「ええと、マラーですね……」

「違う、違いますよムートンさん、ムラーです。はっきりさせてくださいよ、まったく!」

「確かに。マラーです、ならず者の。1815年に皇帝を裏切ったのです。だからわたしは新聞なんてどれも同じだと言っているんです。わたしの言いたいことがお分かりですか、ロドルフさん?そうだ、こう仮定しましょう。わたしはまともな新聞を望んでいる……いや!大新聞じゃない……まともな!そして紋切型など書かないような、ね!」ムートン氏は話を戻して主張を、いや本人に言わせれば説明を続けた。

ロドルフが口を挟んだ。「注文の多いひとですね、紋切型なしの新聞だなんて!」

「まあ、そうですね。話についてきてくださいよ」

「そのつもりです」

「王の健康と農地の作況だけを伝えてくれるような新聞です。というのは、つまり、読んでも何も分からない新聞など、何の役に立つんですか?こう仮定しましょう。わたしは市役所にいます、いいですか?記録をつけているのです、そう!さて、ひとびとはわたしに、こう言いに来ます。「ムートンさん、あなたは死亡記録係ですね。では、これとこれをお願いします」ふむ、これは、こうですか?これは、こうですか?これは!こうですか?そう、新聞も同じですよ」この結論をもって話は終わった。

「確かに」話の分かった隣人が言った。

ムートン氏は、自分と意見を同じくする常連客たちの称讃を得たので、ドミノの勝負をしに戻った。

そして、ショナールとコリーヌのいるテーブルに向かうロドルフを指差して言った。「彼を自分の場所に帰らせたんですよ」

「馬鹿な奴だ!」コリーヌは役人を指してふたりの若者に言った。

「奴はいい頭をしてるよ、二輪馬車の幌みたいな眉に、まん丸な目だ」ショナールは見事なほどに黒く使い込まれた短い陶器のパイプを手に言った。

「おっと!じつに素敵なパイプをお持ちですね」ロドルフが言った。

ショナールは無造作に答えた。「ああ!よそゆき用にはもっと上等なのを持ってますよ。タバコをくれ、コリーヌ」

「ほれ!これっきりだぞ」哲学者は叫んだ。

「差し上げましょうか」ロドルフがポケットからタバコの箱を取り出してテーブルに置いた。

この親切に、コリーヌは何か奢って返さねばと思った。

ロドルフも受け取った。話は文学へと移った。職業を訊かれたロドルフは、もう身なりから露見していたことではあるが、詩の女神との関係を告白し、二杯目の奢りに与った。給仕が壜を下げると、ショナールはそれを忘れてくれと頼んだ。コリーヌのポケットから5フラン銀貨2枚のかちかちと響く二重奏が聞こえていたからだ。間もなくロドルフはふたりの友人と同じくらい心を開き、自分も打明話をした。

お帰りくださいと言われなかったら、きっとカフェで一夜を明かしていただろう。通りに出て10歩も歩けなかったし、そうするにも15分はかかった、急に滝のような雨に襲われたのだ。コリーヌとロドルフは、一方はサン=ルイ島、他方はモンマルトルという、パリでも対照的なふたつの地区に住んでいた。

ショナールは、自分が宿なしだということをすっかり忘れて、ふたりを家に誘った。

「うちに来いよ、近くに住んでるんだ。文学や藝術について語り明かそうじゃないか」

「なら音楽をやってくれ、ロドルフは詩を朗読してくれ」コリーヌが言った。

「よし、いいだろう。楽しくいこう、一度きりの人生だ」ショナールが続けた。

わが家を見つけるのも覚束なかったが、ようやく辿り着いたショナールは、まだ開いている酒屋に寄って夜食の材料を買っているロドルフとコリーヌを待つべく、しばし縁石に腰を下ろした。ふたりが戻って来たとき、ショナールは何度も扉を叩いていた、いつも門番に待たされることをうっすらと思い出したからだ。とうとう扉が開いた、寝入りばなの心地よさに浸っていた老デュランは、もうショナールがこの建物の住人でないことを覚えておらず、小窓ごしに名前を叫ばれても全く出てこようとしなかったのだ。

長くてしんどい階段を3人とも昇りきったところで、先頭のショナールが、自分の部屋の扉につけられた鍵を見つけ、驚きの声を上げた。

「どうした?」ロドルフが尋ねた。

ショナールはまごついた。「分からない、今朝がた持って出たはずの鍵が、扉にかかってるんだ。ああ!ほら見ろ。おれは鍵をポケットに入れたんだ。あっ!何てことだ!ここにまだあるぞ!」鍵を取り出して叫んだ。

「魔法だ!」

「幻想では」コリーヌが言った。

「気のせいでは」ロドルフが言い添えた。

「いや、聞こえるか?」ショナールの声は恐怖を帯びはじめていた。

「何が?」

「何が?」

「おれのピアノだ、ひとりでに鳴ってる、ラ・ミ・レ・ドラ・シ・ソ。しょうもないだ、まったく!いつも音が外れる」

ロドルフは言った。「いや、君のピアノじゃないんだろう、たぶん」そして、ぐったりとコリーヌにもたれながら、その耳に小声で囁いた。「酔っ払ってるんだな」

「そうだな。何より、あれはピアノじゃない、フルートだ」

床に座り込んだ哲学者に、詩人が答えた。「何だ、お前も酔ってるのか。これはヴァイオリンだ」

コリーヌは友人の足を引っ張りながら早口でまくしたてた。「ヴァ……へえ!おいショナール、ずいぶんいいフルートじゃないか!ここにおられる御方は、あれがヴァ……」

ショナールはすっかり恐ろしくなって叫んだ。「何てことだ!おれのピアノがいつまでも鳴っている、これは魔法だ!」

「幻……覚だ」コリーヌが手にしていた壜を落として怒鳴った。

「気のせいだ」ロドルフが金切声で言った。

騒いでいると、ふいに部屋のドアが開いて、ばら色の蝋燭を立てた三叉の燭台を手に、男が戸口に現われた。

「どうなさいましたか、皆さん?」男は丁寧な物腰で3人衆に尋ねた。

「ああ!何だ、おれは何をしているんだ!間違えました、ここはわたしの部屋じゃありませんね」ショナールが言った。

「あなた、こいつを許してやってください。すっかりできあがってるんです」コリーヌとロドルフも一緒になって、扉を開けに来た男に言った。

突然、一筋の光が酔ったショナールを貫いた。扉にチョークで書かれた次の一文を読んだのだ。

わたしは三度、新年祝いのためにここへ来た。
フェミー

「そう、そうだ、確かにおれの家だ!元日にフェミーが持って来た挨拶状だ。わが家の扉だ」

「何だと!本当に訳が分からなくなってきたぞ」ロドルフが言った。

「信じてくれ、ぼくもかなり混乱してきた」コリーヌも言った。

若者は笑いをこらえきれなかった。

「少し入ってみますか、ご友人も中を見たら思い違いだと分かるでしょう」

「喜んで」

詩人と哲学者は、ショナールを片腕ずつ掴んで、マルセルの部屋に、というより読者はご存じであろう宮殿に、抱え入れた。

ショナールはふわふわと周りを見回して呟いた。

「驚いたな、おれの棲家がこんなに綺麗だとは」

「おっ!腑に落ちたか?」コリーヌが尋ねた。

しかしショナールはピアノを見つけると、近づいて音程を試した。

「さあ、皆さん、お聞きください……よし!こいつは主人のことを覚えているようだ。シ・ラ・ソファ・ミ・レ。ああ!しょうもないだ!いつもそうだ、ほら!おれの楽器だと言ったとおりだ」和音を鳴らして言った。

「だそうですが」コリーヌがロドルフに言った。

「だそうですが」そのままロドルフがマルセルに繰り返した。

ショナールは椅子に脱ぎ捨てられた星模様のペチコートを取り上げて言った。「それに、これはおれの柄じゃないか、たぶん!ああ!」

マルセルを睨みつけた。

そして、前もって伝えられていた守衛による解約通告を壁から剥がした。「ほら」

読みはじめた。

「「したがって、ショナール氏は4月8日の正午までに部屋を空にし、借りたときの状態に戻して返さねばならない。また、ここでわたしは彼に5フランの請求を通達する」。ほら!ほら!守衛から解約通告を貰い、印鑑代に5フラン払ったショナール氏というのは、おれじゃないというのか?」そこでマルセルの履いたスリッパに目を留めた。「ときに、そのお手製のスリッパはおれのではないな?君の番だ、どうして君がうちにいるのか、説明してくれ」

マルセルは、コリーヌとロドルフに向かって、ショナールを指差しながら言った。「お二方、このひとは確かに自分の家におられます」

「ああ!それはよかった」ショナールは叫んだ。

マルセルは続けた。「けれども、わたしも同じ、わたしも自分の家にいるのです」

「しかし、われらが友人の見たところでは……」ロドルフが割り込んだ。

「そうだ、われらが友人の見たところでは……」コリーヌも続いた。

「それに、あなたも思い出せるのでしたら……どうしてこうなったか……」ロドルフが言い足した。

「そう、どうしてこうなったか!……」コリーヌが繰り返した

マルセルが答えた。「お座りになってください、皆さん、この謎を説明しましょう」

「飲みながらでもいいかな?」コリーヌが切り出した。

「軽くつまみながらね」ロドルフも乗っかった。

若者4人はテーブルを囲むと、酒屋で貰ってきた冷製仔牛の肉に飛びついた。

そしてマルセルが、朝に入居しようと来たとき大家との間であったことを説明した。

「なるほど、じつにもっともだ、ここはこの方の家だ」ロドルフが言った。

「あなたはご自分の家にいらっしゃる」マルセルも丁寧に言った。

しかしショナールにいきさつを分からせるには骨が折れた。おかしな出来事が起きて、話がややこしくなった。ショナールが食器棚をあさっていると、今朝マルセルがベルナール氏から受け取ったお釣りの500フラン札が見つかった。

「ああ!分かった!偶然はわたしを見捨てなかった。思い出したぞ……これを求めて朝から出かけたんだった。賃貸期限だから、なるほど、おれのいない間に奴が来たんだな。すれ違いになった、そういうことか。抽斗の上に鍵を置きっぱなしにしといてよかった!」

「愉快な失態だ!」ショナールが小銭を同じ山に積んでいるのを見て、ロドルフが呟いた。

「夢、まぼろし、それが人生だ」哲学者が言い足した。

マルセルは笑った。

一時間もすると4人とも寝入ってしまった。

翌日、昼に目覚めると、どうして一緒にいるのか、一様に面喰った様子を見せた。ショナールとコリーヌとロドルフは互いに初対面かのように「あなた」と呼び合った。マルセルは昨晩こぞって押しかけて来たことを3人に思い出させねばならなかった。

そのとき、老デュランが部屋に入って来た。

老爺はマルセルに言った。「もしもし、本日は1840年4月9日……通りはぬかるんでおり、ルイ・フィリップ陛下は今日もフランスとナバラの王であらせられます。おや!」老デュランは前の借主に気づいて叫んだ。「ショナールさん、一体どこから入ってきたんですか?」

「電報で」ショナールが答えた。

「またそんな、相変わらず冗談が好きですね!」門番は言った。

「デュラン、わたしは召使が会話に混ざるのは好きでないのです、近所の料理屋へ行って4人分の昼食の出前を頼んできてくれますか」そして献立を書いた紙片を渡した。「注文はこれで。さあ」

マルセルは3人に向かって言った。「皆さん、昨晩は夜食をご馳走してくださいましたね。今朝はわたしに昼食をご馳走させてください、わたしの家ではなく、あなたの家で」そう言ってショナールに手を向けた。

昼食を終えると、ロドルフが口を開いた。

「皆さん、ぼくはこれで失礼して……」

ショナールは感情的になって言った。「おっと!だめだよ。おれたちは決して別れちゃいけない」

コリーヌも続いた。「そうだ。ここはいいところだぞ」

なおもロドルフは言った。「ちょっとだけ失礼できないかな。ぼくが編集長を務めるファッション誌『イーリスの羽衣』〔虹のこと〕が明日発売なんだ。それで校正を反映しに行かないといけない、一時間後には戻る」

「何だって!そういえばぼくもアラビア語を学びにパリへ来たインドの王子に授業するのを思い出した」コリーヌが言った。

「明日にしては」マルセルが言った。

哲学者は答えた。「いや!だめだ、王子は今日ぼくに金を払ってくれるはずなんだ。それに、じつを言うと、少しは古本市を見てこないと、今日という日が台無しになってしまうんだ」

ショナールが訊いた。「でも、戻ってくるのか?」

「確かな手から射られた矢のように速く」風変わりなイメージを好む哲学者が答えた。

そしてロドルフと一緒に出ていった。

ひとりマルセルの元に残ったショナールは言った。「ときに、無為を枕にだらだら過ごすよりも、ベルナール氏の貪婪を鎮めるべく何がしかの金策に出かけるというのはどうだろう?」

「しかし君はずっと引越すことを考えているんだろう?」マルセルが不安そうに言った。

「まったく!そうするしかない、守衛に解約通告を突きつけられたんだ、5フランまで払わされて」ショナールは答えた。

「しかし引越すなら家具を持って行くのかい?」マルセルは続けた。

「そのつもりだ。髪一本たりとも残さないよ、ベルナール氏がそう言うんだから」

マルセルは言った。「何だって!それは困った。わたしは家具つきで君の部屋を借りたんだ」

「おいおい、本当のことだよ。それに、ああもう!おれが75フランを明日でも明後日でもなく今日見つけられる保証なんか何もない」ショナールは憂鬱そうに言い足した。

「いや、だったら待ってくれ、考えがある」マルセルが叫んだ。

「話してみろよ」ショナールが言った。

「現状はこうだ。法的に、この家はわたしのものだ、一ヶ月ぶん前払いしたんだから」

「家はそうだ、しかし家具は、おれが家賃を払ったら、持って行くのは合法だ。できることなら非合法だとしても持って行きたい」ショナールは言った。

マルセルが続けた。「つまり、君は家具を持っているけれども家がなく、わたしは家はあるけれども家具がない」

「その通り」ショナールは言った。

「わたしはこの家が気に入っている」マルセルが答えた。

「おれも、今までにないほど気に入ってるよ」ショナールが言った。

「何だって?」

「いっそう気に入った。おお!自分の言葉使いが分かるぞ」

マルセルは続けた。「そうか、策はあるよ。一緒に住むんだ、わたしは家を提供する、君は家具を提供する」

「家賃は?」ショナールが訊いた。

「今日は持ち合わせがあるから、わたしが払おう。次回は君の番。それでどうかな」

「おれは考えあぐねたことなんかないよ、ありがたい申し出なら尚更だ。すぐに受け入れる。ところで、絵画と音楽は姉妹なんだ」

「義理の姉妹だ」マルセルが言った。

そのときコリーヌとロドルフが帰って来た、ふたりは鉢合わせしたのだ。

マルセルとショナールは、ふたりも仲間に加わるよう言った。

ロドルフはポケットをちゃらちゃら響かせて叫んだ。「皆の者、ぼくが諸君に夕食を奢ろう」

コリーヌはポケットから金貨を取り出し、目の前に放った。「まったく同じことを言おうと思っていたよ。生徒の王子にヒンディー-アラブ語の文法書を買ってこいと頼まれて貰ったんだが、即金6スーで手に入れたからね」

ロドルフも続いた。「ぼくは『イーリスの羽衣』の会計係から30フラン前借りしたよ、ワクチンを打たなきゃいけないとか言って」

「入金日ということか?ご祝儀がないのはおれだけか、恥ずかしいな」ショナールが言った。

「ひとまずぼくが夕食を奢るよ」ロドルフが答えた。

「ぼくもだ」コリーヌも言った。

「じゃあ誰が勘定を払うかコインの裏表で決めよう」ロドルフが言った。

ショナールが大声を上げた。「いや、もっといい案がある、問題を解決するのに、ずっといい話だよ」

「どれ!」

「ロドルフが夕食を、そしてコリーヌが夜食を奢るんだ」

「まさにぼくがソロモンの裁きと呼んでいるものだ」哲学者が叫んだ。

「ガマッチョの結婚式〔『ドン・キホーテ』の一場面から。贅沢な食事のこと〕には劣るね」マルセルがつけ加えた。

夕食は、文学気質の給仕たちと、その手によるアイオリソース〔にんにく入りマヨネーズ〕で有名な、ドーフィーヌ通りにある田舎料理の店となった。夕食の場所に相応しく、節度を守って飲んだり食べたりした。昨夜コリーヌとショナールの間に、そして後からマルセルとの間にも芽生えた友情が、より深まっていった。4人の若者は各々が藝術について一家言あった。4人とも同じ勇気と同じ希望を抱いていることを知った。雑談や議論を交わし、等しく共感を覚え、それぞれ冗談のうちにも傷つけることなく楽しませる滑稽な言葉さばきの上手さを感じさせ、勇ましい若者たちは皆が心を隈なく充たし、素晴らしいものを見たり聞いたりしては素直に感動した。4人とも同じところから出発して同じ目的に向かっていたから、自分たちが集まったのにはよくある偶然の取り違え以上のものがあって、きっと予め定められた者たちを見守ってくださる神が、手に手を取らせ、「互いに支え合い、愛し合え」という人類に固有の憲章とすべき福音的な箴言を耳元でそっと囁いたのだと思った。

食事を終えると、何だか厳粛な気分になって、ロドルフが未来に乾杯しようと立ち上がり、お返しにコリーヌが短い演説を行なった、それは古本からの引用ではなかったから、どう見ても洗練とは程遠く、たどたどしく述べたことも充分に理解できるほど素朴な田舎言葉だけで喋っていた。

「何と下手くそな哲学者だ!ワインに水を差すようなことをしやがって」ショナールはグラスに鼻面を突っ込みながら呟いた。

夕食のあと、以前一夜を明かした「モモス」へコーヒーを飲みに行った。その日いらい、他の常連客にとっては居心地の悪い店となった。

コーヒーと酒を飲んだボヘミアン一党は、団結を確かなものとし、「ショナールの楽園」〔ナダールが自分の家を「ナダールの楽園」と呼んでいたことのもじり〕と名づけられたマルセルの部屋へ戻った。コリーヌが約束の夜食を頼みに出かけている間、他の面々は爆竹や火矢や花火の類をかき集めた。食べる前に、窓から盛大に花火を放って建物じゅう上を下への大騒ぎにさせながら、4人の仲間は高歌放吟しどおしだった。

「祝おう、祝おう、この素晴らしい日を祝おう!」

翌朝、改めて一緒にいることに気づいたが、今度は驚かなかった。それぞれの仕事へ戻る前に、揃ってカフェ「モモス」で軽い食事をとった。晩にまたそこで落ち合う約束をして、毎日足しげく通うのが、長いこと見られたものだった。

こうした顔ぶれを主人公とする小話で本書は構成される、それは一本の小説ではない、題名の示すとおりのものだ、というのも『ボヘミアン生活の情景』は、これまで誤解されてきた一団に属し、無秩序を最大の欠点とする、この登場人物たちの習俗の研究に他ならないからだ。もっとも、この無秩序こそボヘミアン生活に不可欠なのだと、主人公たちは弁明するだろう。

(訳:加藤一輝/近藤梓)

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