アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』第9章:極地の菫

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当時ロドルフは従妹のアンジェラに惚れこんでいた、といってアンジェラのほうは真っ平ごめんなのだったが、シュヴァリエ技師〔Jean-Gabriel-Augustin Chevallier、パリの大時計河岸(Quai de l'Horloge)で測定器機の店を営んでいた〕の温度計がマイナス12℃を示す頃のことだ。

アンジェラ嬢は、すでに話した暖炉職人モネッティ氏の娘である。アンジェラ嬢は18歳、必ず遺産を相続させてくれるというブルゴーニュの親戚のもとで5年を過ごしたのち、ここへ来たばかりだった。その親戚は老婆だが、かつて若かったことも美しかったこともなく、しかし常に意地悪だった、敬虔ではあったのだが、いやあるいは敬虔さゆえかもしれない。出立のときアンジェラは可愛らしい子で、青春の瑞々しさが芽生えつつあった、ところが5年経つと、美人ではあるが冷ややかで乾いた酷薄な人物になっていた。田舎に籠り、過度の勤行と狭量な教育のため、心は粗野で理不尽な偏見に満たされ、想像力は狭められ、心臓は振り子の機能を全うするだけの装置にさせられていた。つまりアンジェラの気脈には血潮ではなく聖水が通っていた。帰ってきたときも従兄を冷たくあしらい、従兄妹の間によくある『ポールとヴィルジニー』のような淡い恋心の記憶を揺さぶろうと従兄が再三試みるも徒労に終わった。それでもロドルフはアンジェラに夢中だったが、従妹のほうは苦痛だった。ある日、近々アンジェラが女友だちの披露宴に行くと知って、ロドルフは披露宴に持ってゆく菫のブーケを用意すると約束してのけた。アンジェラは父親に許可をもらうと、従兄の申し出を受け入れたが、しかし同時に白い菫を欲しがった。

ロドルフは従妹の優しさに喜び勇んで、歌い踊りながらサン・ベルナール峠に帰った。自分の住まいをそう呼んでいたのだ。理由は間もなくお分かりになられよう。パレ・ロワイヤルを過ぎ、有名なプロヴォスト夫人の花屋を通りかかったとき、ロドルフは白い菫が並べられているのに気づき、ちょっと値段を訊いてみようと店に入った。それなりのブーケは10フランを下らず、もっと値の張るものもあった。

「まったく!10フランだって、そんな大金を見つけるのに1週間しかないぞ。剣呑だな、しかしどのみちブーケは従妹の手許に届くだろう。考えがある」

これはロドルフが作家の卵のときに起こった出来事だ。ある馴染の大詩人が、しばらくパリにいたのち後援者を得て地方の学校の校長になり、月15フランの仕送りをしてくれていたが、当時それ以外に収入はなかった。ロドルフは浪費癖を代母としており、仕送りを4日で使い切っていた。哀歌詩人という気高くも非生産的な職を捨てる気はなかったから、あとの日々は神慮の籠からそろそろと落ちてくる危なっかしい天の御糧をもって暮らしていた。この四旬節は恐れるに足らなかった。厳然たる節制と、大斎を終えて復活祭となる翌月一日を迎えるべく日々めぐらせている豊かな想像力のおかげで、四旬節を楽しく過ごしていた。その頃ロドルフは、聖マルセル内堀通り〔Rue de la Contrescarpe-Saint-Marcel、現在のブランヴィル通り(Rue Blainville)〕の、かつてリシュリューの腹心ジョセフ神父が暮らしていたらしく灰色の枢機卿の館と呼ばれていた大きな建物に住んでいた。ロドルフはその最上階、パリで最も高い場所のひとつにいた。部屋は見晴らし台めいた形で、夏には素晴らしい住処だが、10月から4月まではカムチャッカのようだった。四方に開いた十字窓から東西南北の風が吹き込み、冬の間じゅう猛烈な四重奏を響かせた。皮肉なことに、暖炉の口も立派で、さながらボレアスに続く神々〔ボレアスはギリシャ神話の北風の神。ほか南風はノトス、東風はエウロス、西風はゼピュロス〕専用の表玄関のようだった。寒さの気配を感じると、ロドルフは特別な方法で部屋を暖めた。なけなしの家具を計画的に切ってゆくから、一週間後にはすっかり縮んでいた。ベッドと椅子2脚だけは残っていたが、実をいうとそれらは鉄製で、つまり元々燃えないものだ。ロドルフはこのやり方を、暖炉を使った引越と呼んでいた。

だから1月には、眼鏡屋河岸〔前出のシュヴァリエ技師の店のこと〕でマイナス12℃だった温度計が、ロドルフのサン・ベルナール峠とかスピッツベルゲン島とかシベリアとか称する見晴らし部屋へ持ってくると、もう2~3℃低い値を示すのだった。

従妹に白い菫を約束した夜、帰宅したロドルフは大いに腹を立てた。四つの風がまた一枚ガラスを割って、部屋の隅々まで吹きさらしていた。被害は2週間前から始まって、これが3度目だった。また割れたのかと、ロドルフはアイオロス〔風の神たちの主〕の壊し屋一味に憤怒の呪詛を吐いた。ある友人の肖像画で新しい割れ目を塞ぐと、ロドルフは服もそのままにマットレスと称する毛貼の板2枚に挟まって眠り、夜どおし白い菫の夢を見た。

夢を叶える方法は5日経っても見つからず、従妹にブーケを渡す日が翌々日に迫った。その間、温度計はずっと低いまま、不幸な詩人は菫が値上がりしているだろうと思って絶望していた。すると神慮が憐れんで、救いを差し伸べた。

ある朝、ロドルフが藁にもすがる思いで食事を求めて友人の画家マルセルを訪ねたところ、喪服の女と話しているのが目に入った。近くに住む寡婦で、最近夫を亡くし、墓を建てたので、そこに男の手を描いてもらうには幾らかかるか訊ねに来たのだ、絵の下にはこう書くという。

待っているよ、いとしの妻よ

なるべく値切ろうと、神に呼ばれて夫と再会するときには、もうひとつの手、つまり腕輪をつけた女の手を、次のような文言とともに描いてもらう、とも画家に言った。

かくしてわれらはまた結ばれる……

「この契約は遺言に書いておくわ、あなたに仕事を託せるようにね」寡婦は言った。

「つまりこういうことですね、あなたのいう金額で手を打つ……けれどもそれは握手を描くのも任せてもらえると承知した上でのことだと。遺言に書き忘れないでくださいよ」藝術家は答えた。

「なるべく早く欲しいわ。でも、じっくり描いてくださいよ、親指の傷も忘れずに。生きた手が見たいんですから」寡婦は言った。

「口を利きそうなくらい生き生きとした手になるでしょう、まあ待っていてください」見送りながらマルセルが言った。ところが寡婦は玄関で踵を返した。

「まだ頼んでおくことがあったわ、画家さん。夫の墓に詩のようなものを書いていただきたいんです、生前の善行とか、死の床での最期の言葉とか。素晴らしいでしょう?」

「じつに素晴らしい、墓碑銘ということですね、じつに素晴らしい!」

「誰か安く引き受けてくれる人をご存じないかしら?ちょうど隣にゲランさんという代書人がいるんだけど、目玉の飛び出そうな値段をいうのよ」

ここでロドルフがマルセルに視線を投げかけ、マルセルは即座に察した。

藝術家はロドルフを指して言った。「奥さま、ちょうどここに、あなたのお悩みに役立ちそうな人物がいます。この方は優れた詩人です、これ以上のひとは見つからないでしょう」

「悲しげなのを頼むわ、あと綴りは正しくね」寡婦が言った。

「ええ、友人は綴字をしっかり覚えこんでいます。学校では賞を総取りしていたんですよ」

「あら、うちの甥も賞を取ったわ。まだ7歳だけど」寡婦は言った。

「それは早熟なお子さんですね」マルセルは答えた。

「でも、この方は悲しい詩を作れるの?」ふと寡婦が言った。

「並ぶ者なしですよ、なにせ悲しみの多い人生を送っていますからね。とくに悲しい詩が得意なんです、いつも新聞で叩かれているくらいです」

寡婦は叫んだ。「何ですって!新聞に取り上げられるなんて!ということは代書人のゲランさんくらい物知りなのね」

「ああ!もっとです!話してみたらどうですか、後悔しませんよ」

寡婦は夫の墓に彫りたい詩の趣旨を詩人に説明し、満足ゆくできばえならロドルフに10フラン払うと約束した。ただ、すぐに詩を見たいとも言った。詩人は翌朝その詩を友人づてに渡すと請け合った。

寡婦が去るとロドルフは叫んだ。「ああ、うるわしき仙女アルテミスよ、きっと喜んでもらえることをお約束します。哀悼の詩情たっぷり、綴字は公爵夫人よりも正確に。ああ善良なるおばあさん、天が貴女に報いて、上等な酒のように、107歳まで生き永らえさせますように〔ノートル=ダム寺院が1163年に着工して107年後の1270年に完成したことから、長い時間を指す〕!」

「それには反対だね!」マルセルが言った。

「ごもっとも、死んだあとで手を描かなきゃいけないんだったな、忘れてたよ、そんなに長生きされたら君に金が入らなくなるわけだ」そして両手を掲げて言った。「天よ!わが祈りを叶え給うな!」さらに続けた。「ああ!ここに居合わせるとは何て幸運なんだ」

「ところで、わたしに何の用だったんだ?」マルセルが訊ねた。

「思い出していたところだ、それに今や一晩かけてこの詩を書かねばならなくなったからな、君に頼みに来たものがないと困る。第一に晩飯、第二に煙草と蝋燭、第三に君の白熊の衣装だ」

「仮面舞踏会にでも行くのか?確かに今晩からだが」

「違うよ。だがご覧の通り、ロシアから退却する大陸軍〔ナポレオン軍のこと〕のように凍えているんだ。緑の薄手の上着にチェック柄の羊毛ズボン、上物だけど春物だ、赤道下で着る用のものだ。ぼくみたいに極地で暮らすなら白熊の衣装のほうが相応しい、いや必要なんだ」

「ほら、熊公だ。名案だな、燠火のように暖かいぞ、くるまれば窯の中のパンみたいになる」マルセルが言った。

ロドルフはすでにふかふかの毛皮を着ていた。

「もう温度計が大変なことになってるよ」

ふたりが5サンチームと刻印された皿で何だか分からない食事を終えたところで、マルセルが言った。「その格好で出るのか?」

「もちろんだ、世間の目は気になる、でも今日は謝肉祭の初日だ」ロドルフはそう言って、かぶった毛皮の獣のごとく堂々とパリを横切った。シュヴァリエ技師の温度計の前を通るときには手をひらひらさせて温度計を嘲笑った。

守衛を怒らせないよう用心して部屋に戻ると、詩人は蝋燭を灯し、北風の悪戯を防ぐべく半透明の紙で覆って、すぐさま仕事に取りかかった。ところが、すぐに分かったことだが、身体はそれなりに寒さから守られていても、両手はそうでなかった。墓碑銘を2行と書かないうちに、鋭く厳しい風が指に刺さって、ペンを落としてしまった。

「いくら勇敢な人間でも自然の力とは争えない」ロドルフは呆然と椅子に座りこんだ。「ルビコン川を渡ったカエサルにしたってベレジナ川なら渡らなかっただろう〔ナポレオン軍はロシア退却の際にベレジナ渡河で壊滅的な打撃を受けた〕」

突然、詩人が熊の中から哄笑を上げ、勢いよく立ち上がって毛皮にインクを少しこぼした。ひらめいた、チャタートン〔序文を参照のこと〕が降りてきたのだ。

ロドルフはベッドの下から大量の紙束を引っぱり出した、その中には有名な演劇『復讐者』の原稿が10枚ほど入っていた。この演劇に2年も取り組み、書いたり消したり直したりを繰り返して、原稿の写しは7kgにまで達していた。ロドルフは最も新しい原稿を抜いて、残りを暖炉の前に移した。

「いずれ使い方というのは分かるものなんだな……辛抱強くやれば!散文の薪だ。ああ!こうなると分かっていたら序幕も書いたのに、そしたら今日もっと燃料があった……いや!全てを見通すことはできない」そして原稿の何枚かに火をつけ、かじかんだ手を暖めた。ものの5分で『復讐者』第1幕が演じられ、ロドルフは墓碑銘を3行書き上げた。

暖炉に火があると知った四風神の驚きようを描ける者などいまい。

「幻覚だ」ロドルフの毛皮を戯れに逆立たせながら北風が言った。

「煙突から吹きこめば暖炉は煙でもうもうだ」別の風神が言った。だが風神たちが哀れなロドルフを悩まそうとしたとき、南風がアラゴ氏〔フランソワ・アラゴ、科学者としてはパリ天文台長を、政治家としては第二共和政の臨時政府議長(首相にあたる)を務めた〕に気づいた、天文台の窓に立ち、四人組を指さして警告していたのだ。

南風は大声で仲間に知らせた。「急いで逃げよう、予報によれば今夜は無風だ、天文台に逆らうことになる、真夜中までに引き上げないとアラゴ氏に捕まってしまう」

その間にも『復讐者』の第2幕が盛大に燃えていた。ロドルフは10行書き進めた。しかし第3幕では2行しか書けなかった。

ロドルフは呟いた。「この幕は短すぎると思っていたよ、まあ上演すると粗ばかり目につくからな。さいわい次は長くなりそうだ。23場もある、玉座の場面だ、わが栄光ともなったはずの……」あと6行というところで、玉座の場面を締めくくる長台詞が火の粉となって燃え尽きた。

「さあ第4幕だ。5分は持つだろう、全部独白だ」火に当たりながらロドルフが言った。結語にさしかかったところで、ぱっと炎が上がって消えた。その瞬間、ロドルフは迸る詩情とともに故人を称えるべく今際の言葉で締めくくった。「二度目の上演のぶんはまだあるな」そう言って残った原稿をベッドの下に押し込んだ。

翌日、アンジェラ嬢が夜8時に会場の入口をくぐったとき、手には見事な白い菫のブーケがあった、真ん中には2輪の白薔薇も咲き誇っていた。ブーケのおかげで娘は一晩じゅう女たちの讃辞や男たちの口説きを浴びた。それでアンジェラはささやかな自尊心を満足させてくれた従兄に少し感謝した。新婦の親戚のひとりに熱く迫られて何度も一緒に踊っていなかったら、もっと従兄のことを思っただろう。その男は金髪の若者で、端の跳ねあがった見事な口髭に乙女心が引っかけられたのだ。若者はアンジェラに、皆がぼろぼろにしたブーケに残っている2輪の白薔薇をせがんだ……。アンジェラは断ったが、宴のあと2輪の花を椅子に置き忘れてしまい、金髪の若者は駆け寄って手に入れた。

同じ頃、マイナス14℃の見晴らし部屋で、ロドルフは窓に寄りかかり、メーヌの城壁のほうを向いてダンスホールの明かりに目を凝らしていた、そこでは従兄のことなど気にも留めていないであろうアンジェラが踊っていたのだった。

(訳:加藤一輝/近藤梓)

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