ロドルフ・テプフェール「進歩について、小市民および学校教師との関係において」
【原典:Rodolphe Töpffer, « Du progrès dans ses rapports avec le petit bourgeois et avec les maîtres d'école », 1835】
【ジュネーヴで寄宿学校の校長をしていたロドルフ・テプフェールは、ジュネーヴ・アカデミーで修辞学講座の教授を務め、また保守派の論客として「ジュネーヴ万有文庫 Bibliothèque universelle de Genève」誌の常連寄稿者でもありました。この記事は、実学重視のためラテン語教育をやめようという当時の風潮に反論したものです。()は原文にあるもの、〔〕は訳註です】
進歩、進歩への信仰、進歩への狂信は、われわれの時代を特徴づける性質であり、現代を荘厳かつ粗末、盛大かつ貧相、驚異かつ退屈にしている。進歩とコレラ、コレラと進歩、古代人の知らなかったふたつの災いだ〔1832年、パリとロンドンでコレラが大流行した〕。
進歩とは風であり、あらゆる地点から一斉に平原を吹きぬけ、高い木々を揺らし、葦を曲げ、草を痛め、砂を渦巻かせ、洞窟で鋭い音を立て、ベッドにまで押しかけて休もうとしていた旅人を困らせる。
進歩とは(見かけ以上に)しつこい熱病であり、激しい渇きであり、社会全体に働きかけて休息も安寧も幸福も許さない、絶えざる昂奮である。この病気にどのような治療が必要かは分からない。そもそも医師たちの意見が割れているのだ。ある医師は正常な状態だと言い、ある医師は病的な状態だと言い、ある医師は伝染病だと言い、ある医師は伝染病ではないと言う。こう言ってよければ、コレラを待ちかまえている間にも、進歩は変わらず進みつづけている。
わたしとしては、普通は現状から過剰が生まれるものだと踏まえた上で、ここでは過剰から現状が生まれていると考えている。さて、現状が何であれ、誰がこれを否定できよう? 社会の進歩は、急激かつ計り知れない。進歩は、どの瞬間にも、さまざまな形で、あらゆるものに現われる。30年前、20年前、10年前と同じように行なわれていることは皆無だ。すべてがよりよく、より速く、より多くの人々の利益となるよう変わっている。これが現状だ。しかし、こうした驚異を前にして、丈夫な頭の持ち主ではないジョセフ・オモ〔Joseph Homo〕は、目が眩み、呆然としたまま、田舎を叩いている。太陽にも月にも、サンドウィッチにも前髪用の鬘にも、アメリカにも肉キャベツ煮込みにも、いたるところに進歩を見出す。そればっかりだ、宗教にもカプセル剤にも、道徳にも付襟にも、政治にも鼻眼鏡にも、どこでもいつでも進歩を見つけたがる。これが過剰なのだ。
ここには進歩がある、だからいたるところに進歩がある、と彼は言う。すべての進歩は刷新であり、したがって、すべての刷新は進歩である、と言う。こうして、相対的なものから絶対的なものへ、真実から偏見へ、偏見から千もの戯言へと、独特の考えかたで推論してゆく。
しかし、戯言の根本、戯言の母、戯言の原型は、ジョセフが進歩を手段としてだけでなく目的として考え、唯一の幸福な目的と看做す態度である。したがって、追い求めるけれども到達はしない、なぜなら進歩の後には必ず次の進歩があるからだ。したがって、楽しむことはない、なぜなら楽しみは無限に延期されるからだ。したがって、それなりのものであった過去を顧みず、既に充分である現在を軽蔑し、常に自分の前にある未来を待つ。したがって、すべてがよくなっていながら、より悪く感じられる。これがわれわれの見ていることだ。あちこち改善されていながら居心地が悪い。いたるところで明日のものが今日のものを先回りで貶めている。まだ来ていない最良のものが手許にあるまずまずのものを台無しにする。安定、安心、安息はない。どこにいても休んだり止まったりできない。進歩がそこにいて、巨大な鞭で群衆を打つのだ。「歩け!」「何だって! いつも歩いている! 休んだことなどない!」「歩け!」「この木蔭が気に入った、この隠れ家に惹かれる……」「向こうにはもっとよいものがある、歩け」「わたしたちはここにいる」「もっと歩け」この狼藉者は、船乗りシンドバッドの肩にしがみつき、あちらへ行け、こちらへ行け、右へ行け、左へ行けと言う小さな老人のようだ〔『船乗りシンドバードの物語』第五話〕。
わたしにとって、そして何人かの知人たちにとっても、進歩は嫌われものであり、敵であり、われわれの時代を不愉快にさせ、思い出を穢し、われわれの住むところを台無しにしたものだ。前にあり、後ろにあり、横にあり、耐えがたいほど邪魔で、おしゃべりな愚か者であり、熱心な嘲弄家だ。日曜日には店が閉まり、われわれはサヴォワへ行って、アランジュの栗の木の下、エヴィアンの胡桃の木の下で、休息を味わう。そこでは進歩もわれわれを静かなまま放っておいてくれるのだ。形跡もない。しかし何が起こるか分からないのではないか?
政治では、熱狂が続いている。すべてが為されねばならない、と言われている。93年の革命、それがどうした! 重要なのはこれから起こる革命であり、終わったらすぐに別の革命が起こるだろう。駆足で過ぎていったこの50年間、それがどうした! 重要なのは駆足で行こうとすることだ。7月にひと踏んばりした、それがどうした! ……何と疲れたことか! すべてはわれわれを自由にするためだ。自由とは何と厳しい女主人だろう! これほど専制的な女スルタンを知っているか! トルコ人の奴隷はキオスクで静かにパイプを吸っている。われわれ自由人は終わりのない埃っぽい道を喘ぎながら走る。だから日曜日には店が閉まり、わたしは気心の知れた何人かとサヴォワへ行って木蔭で葉巻を吸うのだ。トルコ人になったつもりで、心地よく過ごす。
文学では、進歩は突き棒を持ち、刺し、押し、追いたて、羊が羊へと殺到するのが見られる。一週間で演劇が演劇を乗りこえ、24時間で小説が小説を打ちやぶる。お前は醜いことをした、わたしは恐ろしいことをしよう、お前は恐ろしいことをした、わたしは奇怪なことをしよう、お前は奇怪なことをした、わたしは……それ以上はない。袋小路だ、引き返すしかない。道に迷わされた市民にとって、どれほど嬉しいことか……!
産業では、進歩はやはり熱狂的で、やはり忙しなく、いっそう押しつけがましい。元の場所に何も残さず、目の前にあるものを一掃する。削り、掘り、石膏で固め、ひっくり返し、運河を作る。田畑を事務所に、道路を客車つき機械に変え、人間や炭屋や株主をいかがわしい運び屋にするのだ、何を運ぶべきか訊ねず、とにかく運びたがる、そいつが君を運ぶだろう。間違いない。わたしは運ばれたくない、嫌だ! ……けれども、客車に乗りこみ、ボイラーに座る、機械に轢かれるよりは機械の中にいたいからだ。そして日曜日には店が閉まり、粗末な二輪馬車で行く、これが楽しい。馬車は命令で止まる。動物は泉で飲み、わたしたちは居酒屋で飲む。わたしたちのボイラーはポトフであり、わたしたちの蒸気はオーツ麦である。雌鶏はオーツ麦を2升食べるが、わたしたちには1杯で充分だ。さあ、御者よ、鞭を打て。溝に嵌まっても、よし! 馬車は待つ、動物も待つ、すべてがちょうどよい。苛だつピストンも、蒸気を吹きつけるボイラーも、愚鈍な大男のように迫ってくる客車もない。
生産し、製造し、完成させようとする熱情……資本は労働者を作るが、製品は消費者を作らない……。というのも、注意したまえ、進歩は、生産を望み、変化を望み、完成を望み、そこから抜けられないのだ。生産すればまた生産し、変えればまた別のものを変え、完成させればまた別のものへと移る。多くの者が莫大な出費をしているが、お構いなしだ。冷酷で、感情がない。何千人ものカモを路頭に迷わせる。不思議なことに、何千人もが手を伸ばしている。わたしの叔父の話だ。叔父は点火器を発明した。赤い容器にリンの瓶が入っており、指で押して使う。当時にしては大きな進歩だった! 火打石しかなかったのだから。いやはや! どれほど点火器が評判になったことか! 科学アカデミーで話題になり、街角に広告が貼られ、新聞を賑わせ、使用人でさえ他の方法で蝋燭に火をつけたがらなかった! フランス、次いでヨーロッパが点火器を使うようになり、叔父は早くも海外展開を考えていたが、そのときひとりの変人が現われ、瓶をなくし、砂にリンを含ませ、砂を紙につけた。もはやマッチを披露するのみ……。叔父は負けた。自分の点火器にこだわった。わたしたちが引きとった……。この変人が数百万フランと儲けようとしたとき、三人目がやって来た。ガスを壺に入れて売り、栓をひねると、バン! 青くて小さな可愛らしい炎が出る! ……変人は砂とともに負けた。三人目が何千万フランと儲けようとしたとき、刃つきライターが発明され、火打石方式に戻って、普通のライターにつながった。わたしもひとつ持っており、日曜日にはサヴォワへ持って行く、もし忘れたとしてもどこでも見つけられる。
つまり、われわれを息切れさせ、困らせ、痛めつけ、追いたてるのは、進歩なのだ。家にいたら攻撃から身を守れるのであれば我慢できようが、進歩は6階まで家々を行商してまわる〔原文では「1階から5階まで」だが、ヨーロッパでは日本でいう1階を地上階と称し、2階を1階とするため、階数がひとつずれるので、このような訳文とする〕。
わたしは学校教師であり、教室で生き、教室に籠って、若いころ教えを受けた旧知の埃っぽい本の後ろに隠れている……。無駄だ! 進歩はわたしを見つけ、わたしを嗅ぎつけ、わたしの扉のベルを鳴らし、中に入ってきて、日に5回は隠れ家でわたしを追いつめた。
進歩はわたしに粉末インクを使わせようとする。粉末インクがなければ何もできない、液体インクは惨めだ、そして進歩はわたしの古い大事なインク壺を見て馬鹿にした目をする。
進歩は金属製のペンを勧めてくる。「わたしは自分のペンのほうが好きです」「しかし金属製のペンのほうが進んでいるのでは?」「わたしは自分のペンのほうが好きです」「しかし特別に調合されたインクで?」「わたしは自分のペンのほうが好きです」「ペリー氏の発明ですが?〔イギリスのジェームズ・ペリー(James Perry)が1824年に商品化した金属のペン先のこと〕」「ペリー氏なんかどうでもよい、わたしは自分のペンのほうが好きです」そして心の中で呟く。「ろくでなし! 文明の忌まわしき産物! 進歩と災厄の憎むべき手先、いや災厄そのものだ!」
別の者は、あらゆる歴史をギリシャもローマもバビロニアも一枚の紙面にまとめた。見苦しい色つきの線、日付と固有名詞に覆われた不愉快な難物、どんな歴史にも永遠に嫌悪感を催させるもの……。別の者は、わたしに速記をさせようとする……。別の者は、わたしに石版多色刷をさせようとする……。別の者は、わたしに記憶術をさせようとする、わたし、わたしのもの、わたしの生徒、わたしの女中、わたしの牛、わたしの驢馬……。ああ! 日曜日! 日曜日! サヴォワに逃げれば、どんなに楽しいだろう。進歩の商人、変人たちは、そこでは禁じられている。攻撃から逃れ、古い木々の下、寂れた集落の近く、進歩の恐怖を知らない村人たちの隣で、わたしたちは過ごす。幸福な、幸福な村人なのだ、アランジュの村人たちは! 進歩が暮らしを乱したり、岩山の上まで追いかけてきたりはしない。進歩が果樹園を荒らし、丘の自然を汚し、生家の藁葺き屋根を壊し、幼いころ木蔭に入った橅を倒しはしないのだ。何かにつながれ、何かを頼り、平和や静寂や安心を感じられる。安心! この感覚だけが人生を美しくし、日々を輝かせ、時間を豊かにし、甘くも気だるい心の糧となるのであり、進歩の驚異は安心の代わりにはならない。
わたしと意見を同じくし、進歩に夢中にならず、判断を誤らず、わたしと一緒になって進歩の悪口を言い、わたしと同じく進歩を愚かで馬鹿らしいと思う者を、見つけられるだろうか? ああ! 来たまえ、わが友よ。これだけでわたしはあなたが好きになる。来たまえ、一緒に暮らそう。あなたはわたしの同類、わたしの隣人、わたしはあなたを自分自身のように愛する。来たまえ、わたしたちはサヴォワへ行き、死ぬ前に静寂を見つけ、巨大な幻影から逃れ、自然の杯から穏やかに飲もう、進歩の揺れる杯からは飲むまい、その杯の飲みものは刻々と変わり、酔いはするが渇きは癒されず、触れられるが味わえない、藪医者が調合して勧めてくる悪い薬であり、庶民は生命の秘薬と信じこんで苦いながらも飲んでいる。
来たまえ、わが友よ、わたしたちの家はこの丘の斜面にあって、湖と遠くの湖岸を望み、朝は涼しく、夕には玄関の梁の下まで金色に輝き、いつも穏やかだろう。あなたの家の姿はわたしにとって愛おしく、わたしの家の姿はあなたにとって嬉しいだろう。なぜなら、いつも変わらず、わたしたちの穏やかな生活と結びついており、拠りどころのない流行から離れ、すべてを変質させる進歩を無視して、風景の一部となり、それ以上に、わたしたちの印象、わたしたちの心、わたしたちの存在の一部となるだろうからだ、もし何らかの災害で破壊されたとしても、そうだ、隣人よ、その場所を涙とともに眺めるだろう……。
来たまえ、わたしたちは、必要ならば進歩するだろう、遅くて静かな進歩だ。スイカズラの新芽であり、あなたの窓の周りに広がる蔓草であり、満開となったあなたの果樹園の壮麗な姿である……。毎年、春の暖かい風に若返った素朴な美しさが目を喜ばせ、田舎仕事が余暇を楽しくさせ、会話を弾ませるだろう……。隣人よ、静寂、安心、習慣という甘美なもの、安逸といういっそう甘美なものが、わたしたちの日々に漂うだろう。進歩というおもりを引きずる必要はなく、よりよいものが絶えずわたしたちのよいものを狂わせはしない。不安、不調、熱狂、完璧を求める貪欲な熱情は、わたしたちの柵の中の平和を乱さず、人生を去らねばならないときが来たとしても、少なくともわたしたちは生きたのである……。
甘美な夢だ、隣人よ、しかし夢なのだ。こうしたことは夢であって、実践するものではない。それに、どうやってわたしたちにできるだろう? あなたにはあなたの店があり、わたしにはわたしの学校がある。それに、この谷で、スイカズラの下で、果樹園にひとりきりで、一週間もすれば退屈するのだ。夏の終わりにはまた売りに出す。年の終わりには元に戻って、田舎から解放された、夢から解放されたとさえ言う! ああ! それが何よりも残念だ! 夢を枯らしてはならない、わたしたちが自由に想像できる愛すべき世界を無に帰してはならない、わたしたちが夢見た、とても美しく、とても純粋で、わたしたちの声に敏感で、とても温かく心の結ばれた魅力的な女性を、目で見たり手で触れたりしたいと思わないでほしい。 ……わたしたちは失望し、夢は死んでしまうだろう! せめて延期しよう。こうした計画には、人生の黄昏どきのほうが適していると言われている。ひとまず、隣人よ、日曜にサヴォワへ行くだけで満足しよう。
ただ、正しい道を通ってくれ。あなたはアランジュへ行きたいのか? アランジュはトノンの裏手、山側にある。双子の丘が廃墟となった城ふたつを囲んでいる。かつては二人兄弟が住んでおり、陰惨な戦争をしていた。今は戦争もなく、兄弟もおらず、ただ(土地の者の話では)真夜中になると白い女が城壁を彷徨い、塔の下に現われ、岩の急斜面に座って平野のほうへ手を振り、風に髪をなびかせるという。恐るべき光景であり、夜が来ると誰も廃墟に登ろうとしない。別の場所で愛を育む。
丘へはふたつの道があって、ひとつは進歩する者たちの道、もうひとつは、隣人よ、わたしたちの道だ。ひとつ目はシンプロン街道の一部で、どこでも同じ幅、進歩の道を損ねるような影はなく、直線のように真っすぐで、石が敷きつめられ、税関吏の小屋や中継地点の厩舎が集落となっている。溝を作って客車を通しさえすれば、この道はじつに見栄えよく、産業的な絵、現代の絵、進歩の絵を実現できただろう。あなたは時計を手にジュネーヴを8時に出発し、時計を手にトノンへ9時に到着するだろう。1時間に6里だ! 時計を手に3分で朝食を済ませられる、改良された蒸気は茹で卵にも使えるからだ。時計を手に7分で廃墟を訪れる、廃墟についてはアランジュで既に案内人から聞いているのだ。そして、ボイラーに乗り、時計を手にジュネーヴへ11時前に到着し、この小旅行に満足し、時計を手に誰彼かまわず旅の話をするだろう。なるほど、進歩とは立派なものだ! 加速させ、喜びを倍加させ、存在の価値を2倍や3倍にする……そうではないか? 野次馬、観光客、進歩の人間、蒸気の人間、客車の人間。そうではないか?
隣人よ、もう一方の道について話そう。わたしたちの道だ。ボナパルトは当時この道を見ず、そのままにしておいた。ウィーン会議によってサヴォワは元の主人の下に戻ったから、サヴォワは元のままで、サヴォイア家さえ存続していれば、これからもそのままだろう。サヴォイア家は真に絵画的なものを好む。わたしも同じ嗜好だ。廃墟を好み、田舎らしい荒廃を楽しむ。サヴォイア家の後見による管理の下、古い道は古いままで、ただし木蔭ができている。湿っており石だらけだが、粗野で静かで、客車でない人間にとっては魅力的な道である。曲がり角ごとに様相が変わる。ときには上り坂、ときには緩やかな坂道、ときには急な坂道、という道のりは、疲れるというよりも鍛えさせられる。丸天井に閉じこめられてなどいない泉が、勢いよく激しく湧いている。道に沿って音を立て、轍を流れ、靴底を冷やし、一巡して草原に戻る。隣人よ、あなたはこの清らかな水を飲む、あなたの動物も飲む。あなたは村娘の波うつ動きの新鮮な面白さを褒め、彼女が草刈りを中断してあなたを見ると、あなたは気にせず穏やかな旅を続ける。
これがわたしたちの道なのだ、隣人よ。ヴォワロン山という緑の山に寄りかかり、胡桃や栗の木の下に隠れている。涼しく奥まったところを出ると、ランギンの塔の土台となっている岩の周りを、陰ひとつなく這うように進む。難所を越えると、ひとけのない花咲く平原の曲がりくねった道となり、高い木々の集まりから鐘楼の尖塔が突きぬけていなければ、人跡未踏の湖岸にいるように感じるだろう。隣人よ、こうした場所は心地よい静寂に満ちており、ゆったりとした夢のような魅力があって、感覚が蘇り、心が水を飲んで渇きを癒す場所である。歩いていると、ラ・ロシェットの廃墟があり、戸口に影を落とす橅の古木の下で足を留めるよう誘う。
古い屋敷に、高い塔、暗い地下室、小さな銃眼の開いた巨大な壁がある。あちこちで朽ちた石や砕けたセメントに蔦が絡んでいる。中庭の日陰では苔の上に苔が生え、瓦礫の山を二重のビロードで覆っている。かつては活気があったが、今は誰も住まず、夜鳥の棲家となり、信心深い羊飼いから恐れられるようになった住居に近づくと、心を揺さぶられる。視線は瓦礫の奥に光を見つけて喜び、壁に沿って目を上げ、蒼穹の紺碧を見つめると、自由で軽やかで静かな雲が浮かんでいる、あるいは、壁の穴を通して、靄がかった山頂に目が留まる。隣人よ、わたしはこの休憩を勧める。最後の休憩だ。そこを発つと裏からアランジュの丘に入り、1時間で鬱蒼とした森を抜けると、突然、足元にシャブレーの明るい平原が広がり、静かな入江、木に覆われた岬、そしてレマン湖の広大な水面には遠くスイスの湖岸が映っている。
隣人よ、これがあなたの進むべき道だ。時計は家に置いてきたまえ。ル・モン村には日時計がある、この地方の名物だ、それに、何事によっても流れを感じさせられない時間、一日の長さのうちに溶けこむ時間こそ、最も甘美で魅力的ではないか? 客車で行く人間にとっては否だ、というのも、見たり遊んだりするのが楽しいのではなく、祖父の時代よりも速く、昨日よりも速く、今までよりも速く走るのが楽しいのだから。速さこそ魅力であり喜びなのだ、これらの美しい場所ではない。あなたが時間を忘れて手足や心を動かしているとき、そいつは針を見つめ、測り、計算し、何分か数え、秒単位で区切る……。
いや、隣人よ、進歩の話に戻ろう。教えてくれ、進歩は、われわれ学校教師の教育や方法に口を出すのと同じように、あなたの仕事に口を出し、あなたの店の扉を叩き、あなたの香辛料に鼻を突っこむか? 進歩はわれわれをひどく脅かし、困らせた。変人が父兄と結託して、われわれ専門家を言い負かすこともしばしばあった。われわれの言葉を大声で遮ったのだ。お訊きしたいのだが、進歩はわれわれ教師を教育しに来たのだろうか? 進歩は器用な鍛冶職人であり、運河や客車や乗合馬車を上手く作る、つまりは実用的な人間であり、しかし四角四面の頭で、思考は鈍い、そんな進歩が、溝も、株も、利札も、配当金も、点火器も、革命も、運河も、安物の文学も、圧縮されたヴォルテールも、クリノリン〔スカートを膨らませるための骨組。第二帝政期に流行した〕も、前髪の鬘も、パラグアイ・ルー〔歯痛の特効薬〕も、ラカウ〔澱粉に砂糖やココアなどを混ぜた食品。粥状にして食べる。中東起源とされ、フランスでは19世紀に流行した〕も、クレオソートも、粉乳も、シェイクスピアの演劇も、怪奇小説も、ホワイトチョコレートも作るわけではない、知的な領域に口を挟むべきなのか? ホワイトチョコレート! 隣人よ、ああ! それは進歩の到達点だ、これ以上の進歩があると思うか? 何世紀にも亘って黒かったものが、白くなっている! ……この光景を見て、進歩の人間がどれほど目を見開くか、どれほど鼻の孔を膨らませるか、黒いチョコレートを飲んでいた哀れな祖父をどれほど軽蔑するか……馬鹿げた黒いチョコレート……。そして進歩がまた別の進歩をもたらした。詩の中で、オーギュスト・バルビエ氏が青いワインを詠んでいる[1]。
しかし、隣人よ、不当なからかいはやめよう。わたしはオーギュスト・バルビエ氏の青いワインを大目に見る。わたしは青いワインを飲む、その詩人の精一杯であり、その詩人の食卓と同じくらい準備された食卓で、美味しいと感じるだろう。しかし、青いワインを発見した進歩の詩人たちの群れが見えないか? ……詩人たちがわれわれに出すもの、われわれが飲まされるものは、失敗であると気づきたまえ……。あなたは青ざめた乙女の緑がかった頬、青い林檎、緑青を望まないか? ……赤い湖、赤褐色の空は? ……わたしはすべてを予期している、というのも、進歩は変化させ、変質させ、方向転換させ、元の向きに戻し、整理しようとして混乱させ、混乱させようとして整理し、止まらないと知っているからだ。もっとも、わたしが話したかったのは別のことだ。
進歩は、われわれの仕事に首を突っこんできた。学校で何が行なわれているのか知りたがった。われわれの道具を並べさせた。道具が少し古く、ところどころすり減っているのを見ただけで、仏頂面をして言った。「腐っている。わたしに寄越したまえ」「しかし他の道具をくださるのですか?」「寄越したまえ」捨てた、捨てる、捨てるだろう、父兄が捨てはじめたからだ。進歩は父兄に、便利な方法、実用的な方法、直観的な方法、経済的な方法、普遍的な方法、絵に描いたような方法、二束三文の方法、自然史を絵で学ぶ方法、物理学を手引書で学ぶ方法、歴史を線で学ぶ方法、文法を表で学ぶ方法、絵画を型紙で学ぶ方法、音楽を黒板で学ぶ方法が必要な時代となったのだと説得している。より早く追いつくために、進歩はギリシャ語を殺し、ラテン語を殺し、具体的でないもの、もっぱら知性や想像力、趣味、心、魂を養うものを、ことごとく殺そうとする。代わりに、ドイツ語、誰でもどこでも使えるドイツ語、望むのであれば英語、できることならイタリア語、あるいはイロコイ語でもよい、けれどもラテン語は駄目だと忠告してくる。進歩はラテン語に怯えるのだ、雄牛が緋色の布に怯えるように。想像してくれ、隣人よ、誰かがあなたにこう言ったとしよう。あなたのシナモン、チョウジ、ナツメグ、コショウを風に投げ捨てよ、猫用の粥を食べるときが来たのだ。愉快に思うだろうか? もちろん否だ。それ自体には栄養がなくとも、料理に味と香りをつける香辛料を捨てて、代わりに猫用の粥を食べるのが、実用的に優れていると思うだろうか? もちろん否だ。この粥が実際にあなたを肥えさせ、ふっくらとさせ、丸々とさせるのは認めるが、あなたは素直に香辛料で食事するのではなく粥で腹を満たすほうが得策だと思うか? もちろん否だ。では、進歩がわが国に粥を定着させたことで、われわれがどれほど喜んだか、考えてくれ。われわれは黙っていた、なぜなら進歩は声が大きいし、進歩にとっては数字と時間の声が大きいからだ。しかし、進歩のための食事を作らされている巨大な鍋は……あまりに耐えがたい、消えてくれ。そして、日曜日にサヴォワへ行くと、わたしは鍋の陰に隠れてボイラーを避ける。
つまり、隣人よ、進歩は鼻より先を見ないのであり、それこそが力や利点となっている。というのも、鼻より先を見ない人間と同じく、進歩もまた頑固でしつこいのだ。論理は四角四面の頭に浸透せずに消える。これが強そうな雰囲気となって人々に好まれているのだ。われわれ専門家はよく疑うが(なぜなら、隣人よ、よく考え、掘り下げたら、何について確信できよう?)、進歩! 進歩は疑わない、進歩は先を急ぐ。それだけが問題、それだけが思考なのだ。限定されているからこそ逞しく、速く走るために引綱を切ろうとしか考えていないために牛6頭ほどの強さがある。通りすがりの者たちは、あまりの熱気、あまりの勢いを目にして、取りこまれてしまう。
そして、隣人よ、鼻より先を見ない人間と同じく、進歩は何よりも新しさに惹かれるのだ。間違いなくホワイトチョコレートのほうが美味しいと感じるだろう、たとえ石膏のように不味くとも。なぜなら、進歩にとって最新であることだけが善なのだ。既知のものや古いことは悪なのだ。これが、とても一般的な好みであり、人類の傾向であるのは、ご存じだろう。それで進歩は大勢を惹きつけ、粥が流行となるのだ。
さらに、隣人よ、鼻より先を見ない人間と同じく、進歩は間近な当座の物事しか理解できない。進歩は、新しいものに次いで、具体的なもの、真っすぐに一発で要領を得るものを好む。進歩にとって大事なのは迂回や媒介の排除であるが、それはしばしば本質的で有用なものだ。
つまり、隣人よ、そうでもなければ、進歩がいつものごとく、ラテン語はラテン語学者に任せるべき、と言うと思うか? もちろん否だ。しかしここでも、他のことと同じように、また同じ理由で、最初の教育の基礎となりうる、また基礎とすべき唯一の原則、すなわち知的訓練と完成を軽視している。子どもにとって、道徳のあとには、これが重要であり、それ以外はすべておまけだ。いやはや! 知的訓練を実施し、完成度を高めるために、われわれはラテン語という、豊かで多様な要素と完璧な方法を兼ね備えた複雑な学問を手に入れた。そのため、(わたしも含め)多くのひとが、(わが国も含め)いくつかの国々の評価を高めている平均的な能力の高さは、われわれ全員が、多かれ少なかれ幼少期に優れた先生によって優れた教育方法と実証された方法で育てられたことに、多少なりとも因ると考えた。万人にとって、このうちの幾らかは重要なのだ、ラテン語の専門家にとってだけではない。さまざまな時計職人、さまざまな商人、さまざまな実業家がいる。そして、他の全てが同じであるとして、一方と他方、つまり、わが国ともうひとつの国との驚くべき違いが、知識の優越ではなく、知性や教養、発想力、理解力、正確な把握力、方法に基づく推論力の優越だとしたら、それは何によるのか? こうした優越が、能力を形づくり拡張するのにとても適した、大多数の者にとって死語を学ぶには不充分でも思考力を進歩させるには不充分でない、段階的で手間のかかる訓練の結果でないとしたら、何の結果だというのか? しかし他国のほうは聞きいれない。そして父兄に言うのだ。ラテン語はラテン語の専門家に! この考えは父兄に衝撃を与える。商売には文字を。銀行には数字を。藝術には線画を、すなわちコンパスと定規の使いかたを。全員にドイツ語を、なぜならドイツ語は……なぜならドイツ語は……。なぜならドイツ語は……父兄に繰り返し、この考えも父兄に衝撃を与える。時間がない、お金がない、この考えはさらに父兄を打ちのめす。
隣人よ、結果は笑い話のような、もっと言えば悲しい事態になると、気づきたまえ。進歩は、社会的平等の真の原則に反し、最大多数の知的自由をもたらすものに反対しているにもかかわらず、自由と平等の最高かつ唯一の正式な友と看做されている。他方で、人間を知性によってできる限り平等にし、ラテン語によって就ける顕職から誰も排除したくないと考えるわれわれは、排他的だ、特権階級だと言われる……われわれは鬘をかぶった旧弊人と呼ばれる!
そして、隣人よ、鼻より先を見ない人間と同じく、進歩は何より手軽なもの、省略されたもの、簡単なものを好む。手軽なもの、省略されたもの、簡単なものは全て、晴天のように進歩を微笑ませる。それゆえ、あらゆる手順を台無しにし、破壊する。わたしが言っているのは、優れた方法、人間の性質を考慮し、人間を構成する要素を分別し、そこから要素を選んで伸ばすために、何よりも時間を、そして努力を要する方法のことだ。平易ではなく有益であることを目的とし、教育上の困難や障碍を最も強力な補助として利用し、避けるのではなく乗り越えさせるための方法だ。進歩は全くそのように考えない。進歩にとって人間は、特定の土壌と条件で、季節のめぐりや天からの慈雨によって育てられる植物ではなく、熟した果実を瞬時につける樹木なのだ。この果実は美しいが、人工的な方法で木に固定されているだけで、木に成っているのではなく、樹液を吸わず、数日もすれば乾燥して落下する。進歩は、それぞれの人間が、段階的で手間のかかる成長のための勉強を、終わるまで再開するとは考えない。進歩は、他の者によって行なわれた進歩も、当人が獲得したと考えるのだ。進歩は、人間のために結果を定式化し、口で反復させ、あるいは手で写させようとしか考えていない。美術は技法で、数学は公式で、言語は直観と習慣で、歴史は線で学ばせる。あらゆる事柄を、知性の訓練や能力の活動を抑制するもので学ばせ、代わりにがらくたやごた混ぜのものを置くのだ。
隣人よ、それこそが進歩のやり口なのだ。進歩が教育に介入しようとしたのは、間違いではないか? それに、もし進歩が弱く、ひとりで柵の中にいて、3、4人の乱暴者と一緒になっていたら、進歩は殴られ、それで終わりだったかもしれない。しかし、そうではなかった。やはり進歩には脱帽せざるをえない。進歩は10万人の兵士を前と後ろに従えた軍隊の長なのだ。進歩は、思慮の浅い者、倹約家、せっかち、他人をことごとく馬鹿にしている者、ホワイトチョコレートを好む者、ラテン語を知らない者、ラテン語に退屈している者、退屈していた者、退屈するであろう者、啓蒙の普及による人民の解放を望む急進派、無知による人民の奴隷化を望む王党派、略式の、手短な、普遍的な、見れば分かる方法で生きている者、粉末インク、鉄のペン、記憶術、速記、取扱説明書、宣伝広告、浣腸器、粥、その他もろもろによって生きている者は皆、進歩の側につく。 ……そして、隣人よ、シナモン商人の多くもそうなのだ、あなたの気を悪くさせるつもりはないのだが。シナモンにもいろいろある。
そして、宗教教育、道徳教育、社会教育がどのように理解されているかといえば! ……また別の機会にしよう。では日曜日に。
(訳:加藤一輝)
[1] つまりは居酒屋の娘だ、
青いワインを飲んでいる、云々。(オーギュスト・バルビエ「諷刺詩:偶像」〔Auguste Barbier, Iambe : L'Idole〕)
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