若月馥次郎『桜と絹の国』ガップ講演

【原典:Fukujirō Wakatsuki, Le pays des cerisiers et de la soie】
【若月馥次郎は1920年から1927年まで在リヨン領事代理を務めており、『桜と絹の国』は1923年の関東大震災を受けてガップとリヨンで行なった復興支援講演の記録です。ここに訳したのはガップ講演で、震災被害の報告と日本文化の紹介をしつつ、アルプスの山並や南仏の詩歌などを挙げて日仏の共通性を謳っています。()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文ローマ字です。リヨン講演はこちら

講演会
1923年11月7日、於ガップ
日本の被災者たちのために
後援:フランス赤十字委員会

司会:ポール・ルメートル氏
ガップ弁護士会会長、傷痍軍人会会長

領事閣下、

ご登壇に敬意を表して、貴国の国歌を演奏しました。どうかここでは自国にいるように思い、感じてもらいたい、そして公務に尽くすため遠く離れてきた祖国、いま最も過酷な試練のうちにあるだけにいっそう思いを寄せておられるであろう祖国を偲んでいただきたいと願って、お聞かせしたのです。
また、つづけて高らかにラ・マルセイエーズを演奏いたしました、わが国の国歌を返歌とすることで、われわれの日本国民に対する深い同情の念と、平時の親密なつながり、戦時の有意義かつ誠実な同盟関係を示したかったのです。
領事閣下、ようこそおいでくださいました、類稀なるご厚意と真摯なる寛大さによってわれわれの申し出に応じてくださったことを、心から感謝いたします。
戦時には「戦の中にも博愛を〔Inter arma caritas〕」という美しい標語を気高く遂行し、平時にも崇高な使命を継続しておられるフランス赤十字中央委員会、そして中央議会の呼びかけによって、かつてないほど悲惨な荒廃と破壊と死を日本にもたらした恐るべき大震災の被災者たちのために募金が開かれ、ガップ傷痍軍人支援会とフランス女性連合が呼応しました。
何を躊躇うことがありましょう?
ヨーロッパ諸国に血なまぐさい衝突が起こったとき、座視したまま、有利に事を運べる時機を待つこともできたのに、日本は1914年8月15日から断固としてわれらの陣営に就き、ドイツ帝国に対して日本および中国海域から戦艦を即時撤退し武装解除するよう、そして膠州湾租借地から退去するよう命令が下ると、日本は8月23日に決然と参戦し、青島を占領し、ドイツ艦隊に勝利したことで、仏領インドシナの安全保障を固めた、それを忘れられましょうか!
日本の艦隊がドイツの潜水艦を地中海まで追跡するという積極的かつ効果的な協力を、思い出さずにいられましょうか?
さらに、傷痍軍人支援会の皆さん、日本から派遣された医師の方々による大変ありがたい連携によって、じつに多くの勇敢なフランス兵たちが命を救われ苦しみを鎮めていただいたのを、思い出さずにいられましょうか?
それゆえ、われわれは中央議会の呼びかけに応じようと思ったのです、そして最も有効な方法は、募金を開くよりも、夜会を開いて麗しい貴国について写真を映しながら語っていただくことだと考えました。
つまり目的はふたつあるわけです、日本について皆さんに多少なりとも知ってもらうことと、このたびの震災によるご不幸をやわらげる助けとなることです。
しかるべき在リヨン日本人会に照会したところ、領事閣下、あなたは自ら講演者となることを申し出てくださいました。望外の計らいです、われわれの気持ちをしかと受け取っていただけたのが分かりました、ここに来てくださったことを深く感謝いたします。
われわれは日本の一部を襲った災害の大きさを知っています、われわれにできる募金による貢献が大海の一滴にすぎないことも充分に承知しています、しかしまた、励ましには物理的なものだけでなく精神的なものもあると思うのです、そして後者こそ、非力なわれわれが貴国の被災者たちに届けたいものなのです。
フランスのしがない街からわずかな額の義捐金を送るとき、領事閣下から被災者の方々にお伝えしていただきたいのは、あなたがたの苦しみに痛ましいほど思いを寄せる友人たちによる、わが街の心からの申し出だということです。日本に深く激しく共感の念を抱くフランス国民からの献金なのです。
領事閣下、わたしはしばしば日本人が「極東のフランス人」と呼ばれているのを耳にしました。このような譬えが貴君や貴国民のお気に召すか分かりませんが、われわれの側としては、こうした譬えは身に余ると言えましょう、知的で思慮深く、あらゆる進歩的な考えに対して東洋で最も開かれた国民、驚くべき素早さで大国の一等に昇りつめた国に、わが国民やフランス国が肩を並べられると思うと、じつに嬉しくなります。
それだけでも既にわれわれの共感を呼び起こして当然だったのです。
しかし戦争の間に、共感は親愛へと変わりました。さきにも述べたとおり、言い落とすまじきことですが、大日本帝国が戦争の初期から旗色鮮明にフランス共和国の味方となったのは、どれほど自発的であったか。この同盟関係は絶えず公正かつ誠実に続いており、戦争が終わったからといって誠実さを捨てたりはしません。
ですから、領事閣下、貴国と貴国民に対し、フランス国とフランス国民の変わらぬ愛情を、保証いたします。
今晩ガップ市民があなたをお迎えすることで、それが本当であると確かめていただければさいわいです。

県知事、将軍、市長、会長、そして皆さま、

ただいま傷痍軍人会会長のポール・ルメートル氏がお示しくださった、わが国に対する篤い共感の念に、わたしは深く心打たれました、また、この機を逃さず急いで申しますと、氏の慈善団体が現在よく働いておられることを称え、氏が熱意と献身をもって主導しておられる団体の発展を強くお祈りしたいと思います。
話を始めるに先立ち、ガップ赤十字委員会にも、心から感謝を申し上げます、人間的連帯の高貴な発露によって、日本の被災者、わが同胞のために、今日の会を主宰してくださいました。
皆さまにご来賓の方々を紹介します、オート=アルプ県知事、オート=アルプ連隊長、そして市長です。深い感謝とともに敬意を表します、というのは、この日仏友好の催しにご臨席いただくことで、会を華やかにし、フランス公式の精神的支援という貴重な要素を加えているからです。
ここにお集まりいただき、いま苦境の只中にある日本への共感を確かに示しておられる皆さまのことは、けっして忘れません。第三アルペン猟兵隊の演奏が華を添えてくださり、大変うれしく思ったことも、申さずにはおれません。そのファンファーレのおかげで、この集まりが、とても心地よく藝術的な雰囲気となりました。
今晩のささやかな講演のきっかけについてお話しいたします。つい先日、この街の赤十字委員会が、9月の震災による被災者を支援するための講演会を開きたいので、日本人をひとり紹介してほしいと頼みに来られたとき、わたしのすべきことは直ちに決まりました。寛大なるご提案に感動し、すぐさま考えたのは、お気持ちに最大限お応えするには、わたし自身が登壇して、上品な講演をするよりもむしろ、わが国を襲った過酷な出来事から多少なりとも教訓を引き出そうと試み、またわたし自身がガップの方々に感謝を伝えるべきだろう、ということでした。
この天災は、どのようなものだったのでしょうか?新聞は、いつも世界中のニュースを読者に素早く伝えているように、日の出ずる帝国の東雲が不吉な帷に覆われた恐るべき瞬間について、早くも震災の翌日には報じていました。遠く離れた地の苦しみをここでわたしがあれこれ代弁するのをお許しください、わが同胞が打ちひしがれている苦しみを、わたしもまた強く感じているのです。
地震の恐ろしさは、何に譬えられるでしょう?おそらく戦争の恐ろしさでないかと、わたしは考えます。ですから、われわれ日本人は、しきたりではなく共感から、尾を引く混乱が今も続いている大戦によってフランスから失われた多大な犠牲者について、思いを傾けられると思います。ただ、われわれ自身のことについて言えば、地震は数秒間のうちに――その瞬間については後でお話しします――おぞましい災禍をもたらしたのです。一家は突如として不幸に陥り、父や母を、あるいは祖父や祖母を喪ったのです。両親とも、あるいは祖父母とも、兄弟姉妹もろとも喪った家もあります。さらに、子どもが亡くなったら、悲しみはどれほど大きいことか!いずれにせよ、頼れるものはほとんどない、いや一切ないのです。家族に希望の灯は薄れ、消えさえします。ああ!日本の道々には、悲嘆に暮れた者たち、悲しい孤児たちの行列が、日を追うごとに伸びるでしょう。
はなはだ恐ろしいことながら、とりわけ苛烈な境遇を挙げて、皆さんに衝撃を与えるのをお許しください。
たとえば、子爵の一家17人が、家にいて生きたまま焼かれました。女学校が瞬く間に燃え、校舎にいた百人あまりの生徒たちが、迫りくる危機への恐怖から姉妹のように手を取り合って、一斉にこの世を去りました。さらに、東京の橋という橋が焼け落ちました、何ということでしょう!あちこちから上がる巨大な炎と煙の渦で息ができなくなり、逃げ場を求めて橋に押し寄せた何千もの人々が、川に落ちて溺れました。開けた場所に集まっていた3万3千の人々が、恐ろしいことにどんどん狭まってくる火に囲まれて身動きできなくなり、一度に亡くなったのです。おぞましい光景です。川には無数の死体が流れ、公道には貧苦にあえぐ哀れな者たちが溢れています。
さいわいフランスでは地震は極めて稀で、とても小規模ですから、こうした話は想像を絶する恐ろしさでしょう、このあたりで止めておきます。
偉大なるジャン=ジャック・ルソーによる、慰めとなる考えを思い出すのがよさそうです。「人間は、否応なく、不幸なひとに対する憐れみを持っている。不幸者の苦しみを見ると、つらくなるのだ」〔『エミール』第4編〕。あなた方をこの会場へと導いた感情こそ、この優れた思想家の炯眼を、まさしく証明するものです。この憐憫のあかしは、先の震災に個々人としても全体としても打ちひしがれた日本人みなの心の奥底にまで届くことでしょう。
わたしは、それ自身すでに黒々とした光景を、もっと不吉に色づけるつもりはありません。そのようなことをしたら、震災以降の情況を歪めてしまいます。というのも、震災は局地的だったと言ってよいのです。震災が襲ったのはわが国の首都圏や重要な港である横浜だけで、言い換えれば大阪九州の工業地域は何の被害も受けていません。ですから日本は、間もなく去年と同様の活気を取り戻すはずです。
ともかく、皆さん、どうか信じてください、この艱難にあって貴国がわが国にしてくださったことを、わたしは生涯けっして忘れないでしょう。わたしが最も感動したことを、ここで言わずにはおれません。新聞で知ったのですが、ルール地方のフランス兵たち〔ドイツが賠償金を支払わないため、この年の1月からフランスが占領していた〕が、日々の大変な任務にもかかわらず、日本の地震被災者たちの苦労に思いを寄せ、崇高なる連帯の意から、何日か前に祭典を催し、その収益を被災者支援に充ててくださるというのです。
わたしの話を始める前に、今一度、ここに集まってくださった大勢のフランス人の方々を目にして覚えた、わたしの個人的な感謝の念を、率直に申し上げます。
さて、まず言っておかねばならないのは、9月1日の地震は帝国の全土を襲ったわけではないということです。確かに、7府県が何らかの被害を受けました。この7府県には600万人が住んでおり、つまり本土の面積の7分の1、人口の9分の1を占めています。
日本の首都である東京は、あちこちを震災で徹底的に破壊されました。東京の人口は220万人でしたが、震災で143万人にまで減りました。このふたつの数字の差を被災者の総数と見積もってはいけません。減った分の中には、やむを得ぬ恐怖心に駆られて首都を脱出したけれども、落ち着いたら戻ろうと思っているひとが、それなりの数いるからです。
フランスが、亡くなった方々への弔意だけでなく、失われた物への追念も抱いてくださっていることを、わたしは知っています。ですから、まずは日本の藝術的遺産の一部について、痛惜の意を示したいと思います。
趣ある情景として、江ノ島、古都鎌倉、山のふもとに広がる箱根を、順にお見せいたします。
ブリユー氏の素晴らしい著作『日本』〔Eugène Brieux, Au Japon par Java, la Chine, la Corée〕から、江ノ島についての記述を引用します。

「それはモン・サン=ミシェルである、大建築はないが、しかしモン・サン=ミシェルそのものだ、というのは、絵に描いたような岩礁で、ひとが住んでおり、潮が満ちると島になるからだ」

鎌倉は、とりわけ旅行者の興味を惹きます。しかし歴史家にとっても重要です。実際、「」氏の最初の将軍(最高司令官)が12世紀の末に幕府を作ったのは、鎌倉なのです。以来この都市は政治の中心となり、2世紀ほど栄華が続きました。
箱根は日本の湯治場です。富士山の南東の山岳地域に位置し、明るい宿場町は疲れた人々に再起のための休息をもたらします。
このみっつの場所の近く、そして東京からも近いところに、横浜があります、日本の重要な港であり、間もなく復興するであろう横浜は、日本のマルセイユです。かつては漁村で、今ようやく60歳といったところ、それ以上の記憶は持っていません。もっとも、横浜は若いですが、日本は古老です。初代の天皇が即位したのは2583年前、すなわち紀元前660年であり、今上陛下は第122代天皇です〔長慶天皇登列(1926)前のため現在とは一代ずれている〕。ユリウス・カエサルのガリア征服より6世紀以上も前に、わが帝国は存在していたのです。横浜は絹の主要な輸出港です。リヨンとは幾多のかかわりがあります。
他方で、さいわいなことに、日本の伝統工藝で有名な美しい街、京都日光は、震災の被害を受けませんでした、震源から遠く離れていたからです。
その美しい景色、それから他にも幾つか興味深い日本の光景を写した映像を、ぜひ皆さんに見ていただきましょう。この映像が最新のものであることも言い添えておかねばなりません、在パリ日本大使館に届くや否や、すぐさまわれわれに貸し出されたのです。ガップ市が栄えある最初の観覧者というわけです。
その前に、皆さん、京都について少しお話しさせてください。56年前の王政復古まで、京都は11世紀に亘って日本の首都でした。この由緒ある古都には、荘厳な寺院やいにしえの神社が数多くあります。考古学者たちは、さまざまな面において、京都は歴史ある日本にとってのローマ都市に相当すると考えています。その評価は全く妥当ですが、リヨンに滞在したことのある日本人に聞くと、多くの旅行者が、リヨンこそフランスの京都だ、と言います。実際、京都には「西陣」という絹織物で有名な場所があります、日本のクロワ=ルースです。また、優雅な女性や、雄大で静謐な景色も似ており、京都とリヨンに共通する魅力となっています。
よろしければ、日光の話に移りましょう。美術と自然が見事に融合し、比類なき素晴らしさを作り出しています。深い森に覆われた高いけれどもゆるやかな山々の集まった中に平原があり、歴史ある将軍家の永代墓地となっています。数々の瀑布、白銀の急流、紺碧の湖が、世界で唯一の仙境を飾るべく結集したかのように、周りを囲んでいます。
皆さんのために、ピエール・ロティ『秋の日本』〔Pierre Loti, Japoneries d'automne〕の一節を持ってきました。日光はこのように描かれています。

「それは日本のメッカである。今なお侵されていない国民精神であり、この国は目下洋式の流行に呑みこまれようとしているが、素晴らしい過去を持っていた国なのだ。不思議な神学者と類稀なる藝術家がおり、300年か400年前、森の奥に死者のための荘厳な場所を造った……」

引用ついでに、有名な諺をひとつ挙げさせてください、この諺はペーメーの翼を持っており〔ペーメーは噂や名声の女神。広く知られているの意〕、かなり前からフランスでも知られています。

日光を見ずして
結構と言うなかれ」
〔Celui qui n’a pas encore vu Nikko
Ne peut pas dire « kékko ».〕
(ここでの「結構」という日本語は「上々」という意味です)

日本の話をするのに、万年雪を冠した孤峰、富士山の話をせずに済ますことはできません。悲観的なひとたちは、富士山が眠りから覚めて不意に起き上がり、かつての怒りや熱気を思い出した、と早合点したことでしょう。ありがたいことに、全くそうではありませんでした。偉大なる山の聖霊、極東のモンブランは、足元に広がる国の上で、夜も穏やかに聳えたままでいます。
富士山の話に続けて、わが国の他の山々の話もしたいと思います。長い山脈が、日本の端から端まで伸びています。山脈のほとんどは休火山や活火山です。いくつかの山々は「日本アルプス」と呼ばれるに相応しい壮観を誇っています。ぜひ写真をお見せしたいところです。しかしあいにく持ち合わせておりません。本当に申し訳なく思います、オート=アルプ県の皆さんならば、この地方の山々と、わが国の山々とを比べて、とりわけ興味を惹かれるに違いないのですが。
多くの名勝のうちでも、最も美しいとされてきた日本三景があります、どれも被災した地域の外にあります。まずは松島、「松の島々」です。湾に散らばる、切れた首飾りの真珠のような幾千もの小島を、まとめてそう呼んでいます。それらは「八百八島」と呼ばれています、これは「とてもたくさん」という言い回しで、ちょうどフランス語で言う「千とひとつ」と同じです。
かつて芭蕉という優れた日本の詩人が松島を訪れました。とても親しまれている17音の短い詩、「俳句」を詠む才能で有名な人物です。美しい風景を前にして、あまりに強い衝撃で、ただ間投詞を挟んで「松島」という言葉を繰り返すしかありませんでした。こう詠んだのです。

松島や
ああ松島や
松島や

フランス語で言うとこうなります。

松島
おお松島
松島や」

芭蕉には、そのときの深い感動を上手く表わす言葉が見つからなかったのです。
ブリユー氏が松島についても記しているので、引用しましょう。

「見ずにはおれないという崇高な景色を目にしたとき、わたしは感嘆の、いや正確には恍惚の声を漏らさずにはいられなかった」

また別のページでは

「しかし、わたしが最も強く最も長い「おお!」を発したのは、左手に、小さな寺を囲む木立の茂が岸のすぐ近くにあるのを見たときである。海岸から10mのところに、赤い漆塗の橋ふたつで渡れる岬がある」

日本の詩人とフランスの学者が、鮮烈な印象を言い表わそうにも間投詞しか出てこなかったこと、松島の魅力を伝えるのに、これほど明白な讃辞はありません。
松島のほかに、内海の中にあって最も美しい、じつに厳かな神道の聖地となっている島、宮島があります。昨年ジョフル元帥が日本に赴任されたとき、元帥は家族とともにその穏やかな島を訪れました。フランスの武将は、大戦に疲れた心を、多少なりとも休められたことと思います、この平和な島は銃弾の恐ろしい響きとは無縁なのです!
最後に、天橋立、「天の橋」もまた、この9月の災禍を免れた名勝です。見目うるわしい入江の真ん中にある、とても細長い陸地で、端々まで百年ものの松に覆われ、翡翠色の絹の帯のようです。
震災に打ちひしがれた名勝、逆に被害を受けなかった多くの景勝地についてお話ししたあとには、日本の習俗や気質について聞いていただくのがよいでしょう。
ある古代ローマの思想家は「まず生活があり、哲学はそれに従う」という格言を述べました〔諺のため明確な作者はいない。トマス・ホッブズが言ったとされることもあるが、「食べるのが先、哲学は後」「飲むのが先、哲学は後」「パンが先、哲学は後」など多くの類例があるので古くからの格言と思われる〕。ですから、まずは端的に食事の話から始めますが、どうか驚かないでください。
それぞれの粒が残る状態で炊かれた米、これが主食となります。炊くときは水だけで、他には何も加えません。われわれにとって米は非常に大事であり、あなたがたにとってのパンと同じくらい重要な役割を担っています。かつて肉食は宗教上の理由から禁じられていましたが、今日では食べるようになっています。とはいえ肉は日本では少ししか食べられていません、魚をたくさん食べるからです。
長々と食事の話をするつもりはありませんので、次に移りましょう。
あなたがたは、万聖節〔11月1日〕と、すぐ後に続く万霊節〔11月2日〕をお祝いになったばかりですね。これらの祭日は、まだこの世にいるひとたちが、この世を去ったひとたちと最も近づく日です。われわれにも、よく似た仏教の祝日、日本の「お盆」があります。7月の中旬、数日間に亘って祝われる、日本の万聖節なのです。その間、各々の仏教徒は、先祖の霊や亡くなった家族の霊を迎え入れます。帰ってきた霊は、長旅をしてきた客人のように称えられ、もてなされ、慰めのためのお供えを捧げられます。
日本の国民の祝日は、天皇陛下の誕生日です。ですから御代によって日が変わります。現在その祝日は10月31日ですが、本来は8月31日です。盛夏のため2ヶ月遅らせています。
女の子は3月3日に祝日があります、雛祭です。その日には、ここに映していますように、雛人形を飾ります。家族どうしで互いに娘を招き、集まった娘たちは雛人形を見せ合って楽しみます。
5月5日、今度は男の子の番です。男の子のために、家族はまた別の祭り、全く異なった祭り、武勇と鯉の祭りを催します、鯉は日本では覇気の見本とされている魚です、急流や滝さえも上るというので称えられているのです。たくましく育ってほしいと願い、鯉を模範として示します。
布や紙でできた大きな鯉が竿に掲げられ、軒先で、たゆたう黒灰色の甍の波より高く、力強く空に泳ぎます。武将の像も特別に飾るのですが、これは雛祭のときの雛人形の並びに比べると、数の面でやや見劣りします。
暖かい春が訪れると、皆それぞれ公園や川辺や田畑へ散歩に出かけて桜を愛でます、桜は東京のあちこちで見られます。庶民的なお祭り騒ぎが2週間ほど続きます。日本人はどんな花も好みますが、とりわけ桜が好きなのです。もちろん花の美しさにも惹かれますが、それだけでなく、紅〔ここでの「紅pourpre」は、権威や貴顕の象徴としての緋色であり、物理的な赤色のことではない〕の盛りのままに誇り高く散るさまが、惜しみなく戦地に斃れる英雄のことを思わせるのです。
日本では、よく「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と言われます。皆さんの前で、日本人として申し上げると、あなたがたの国もまた鮮やかな自然や雄大な地平線に恵まれ、まさにそれらによって、フランスで常々偉人が生み出されてきたということは、納得できると思います。
宮城では、春に桜が、秋に菊が咲くと、天皇皇后両陛下が毎年、東京にいる外交団を日本人も外国人も招いて、皇居の庭にお通しになられます。
1月には宮城で歌会が催されます。天皇陛下が31音の詩のお題を出されます。各々が何週間かの期限のうちに歌を詠みます。この行事は、ご賢察のとおり、ローマ皇帝がリヨンやローヌ渓谷で行なっていた詩会〔古代ローマや中世の南仏で行なわれていた花合戦Jeux Florauxという詩会のこと〕と同じくらい古いのです。
優れた歌は、皇族がたの詠まれた歌とともに、官報に掲載されます。
今上陛下の父であり、新生日本の繁栄の基礎を築かれた明治大帝は、歌の名手でもありました。重要かつ厖大な政治案件の合間を縫って、毎日10首あまりの短歌を詠まれました。そうして生涯に亘って詠まれた短歌は10万首を超えています。
これはそのひとつです。

「子等はみな
軍のにはに
いではてて
翁やひとり
山田もるらむ」
〔Les enfants
Sont allés tous
Au champ de bataille,
Le vieux gardera-t-il
Tout seul sa rizière ?〕

わたしの拙い翻訳が素晴らしい御製を台無しにしていないとよいのですが。
庶民の間にも、小さな歌会がたくさんあります。31音の詩を詠む集まりもあれば、17音の詩を詠む集まりもあります。こうした同人会は驚くべきものではないでしょう、なぜなら、あなたがたの国でも中世や16世紀には愛の法廷や愛の井戸〔どちらも恋愛詩を競い合う詩会〕があり、今日では比類なきフェリブリージュ〔19世紀に南仏方言文藝の復興を目指して作られた詩人たちの結社〕があり、また不朽の花合戦もあるのですから。日本では、月に一度か二度、祝日や日曜、あるいは平日の夕方に集まります。お題は何日か前に出されることも、その場で出されることもあります。会に出席した歌人たちは歌の講評を受け、審議の末、番付が決まります。こうして文藝競技を大いに楽しむのです。一座に喜びが満ちます。他にも、これもあなたがたの国と同様、新聞や評論誌が歌を競わせて賞金を出しています。ただ雑誌の場合、文学賞は小説が対象となっています。
フランスでは日本の「俳句」について目覚ましい研究書が刊行されていますが、17音の大衆詩にはもうひとつ「川柳」と呼ばれるものがあります。
川柳」は諷刺詩です。主題はしばしば面白おかしいものですが、ときに人間心理を詠むこともあります。いずれにせよ、短く皮肉めいています。優れた川柳は諺のように使われています。
ここで「川柳」の例をひとつ

「孝行の
したい時分に
親はなし」
〔Quand on pense
À la piété filiale,
Les parents ne sont plus.〕

有名な教育勅語を定めたのも明治天皇です、これは日本国民の道徳教育についての憲章として書かれたものです。さいわい、わが国の教育は進歩し続けていると言うことができます。実際、日本人は無知を恐れ、進んで子どもを小学校へ送り出すのです。最近の統計によれば、ほぼ99%の子どもが小学校に通っています。少なくとも東京では、読み書きのできない子どもはまず見かけません。もっと幼い子は幼稚園に通っています。
そもそも、わが国では小学校が教育の基礎となっています。どんなに貧しい村にも小学校はあります。義務教育は6年ですが、もう2年延ばすかが問題となっています。初等教育の次は中学校に進みます。中学校を終えると、高等工業学校や医学専門学校などの実業専門学校に進むことができます。大学に進学したい若者は、その準備として高等学校を卒業しないといけません。
大学についてお話しするならば、残念ながら先の9月の震災による痛ましい被害に触れざるを得ません。地震に続いて起こった火災によって、東京帝国大学をはじめ多くの教育研究機関の図書館が、取り戻しようもないほど破壊されたのです。わずか数時間のうちに、日本や諸外国の貴重な書物が数百万冊も無に帰しました。最も辛い損失のひとつです、日本にとってとりわけ大切だった知的文化の消滅を目の当たりにして深い悲しみに襲われたのです。
悲しみは横に置いておきましょう、というのは、つい先ほど申し上げたように、われわれは厳しい経験にも挫けず耐えており、帝国の一地域が重大な被害を受けたといっても、われわれの国の活力そのものは全く削がれておらず、間もなく商業的発展を遂げるだろうと、わたしは断言できるのです。商工業に関する統計をいくつか述べましょう。
日本は絹の国です。1922年、全世界の絹の生産量は3223万5千kgでした。日本はそのうち1950万kgを生産しており、つまり全世界の生産量の半分以上を占めています。絹は日本の重要な輸出品です、絹製品がフランスで一番の輸出品であるのと同じです。この産業は全国的なもので、また皇后陛下も熱心に携わり、宮城で自ら養蚕をされています。
日本では蚕は崇敬の対象になっています。確かに絹の虫とも言いますが、それはくだけた会話でのことで、むしろ「おこさん」と呼ぶのを好みます、「尊敬すべき蚕さま」という意味で、この小さな虫に対する敬意と愛情を表わしています。この小さくて可愛らしい生きものこそ、じつにやさしく、じつにしっかりと、日本とリヨンを結びつけてくれているのではないですか?
日本では毎年、生糸を紡いだあと、国に身を捧げた無数の蚕たちのために、寺へ行って祈りを上げます。実際、フランスへ輸出するため、今期は約2万包の生糸を生産したというのだから、大変な仕事ではありませんか。他方で、震災のため横浜で燃えた生糸は5万、つまり3万包、と見積もられています。いま日本の年間生糸輸出は総計30万包ほどですから、いかに重大な損害か、お分かりでしょう。
とはいえ、わが国は貴国と同じく農業国を自負しており、絹は生産物のひとつにすぎません。米もまた重要なのです。米のほかに小麦や大麦もありますが、かなり少ないです。麦は副次的な食糧でしかないのです。
毎年6000万以上もの米が消費されています、は約180Lに相当します。消費量が生産量を上回ることもしばしばで、輸入に頼らねばならなくなります。米の輸入先はさまざまですが、これは皆さんの興味を惹くでしょう、とりわけインドシナから輸入しています。震災後の2週間、被災地の周辺地域から80万石の米が東京や首都圏に補給されました。
われわれにとって、米は富の象徴でもあります。封建時代には、領主の力を決めるのに米が使われました。たとえば、百万大名といったら百万の米を生産できる領地を持った封臣ということになります。
米について有名な「俳句」を一句ご紹介させてください、詠み手は封建時代のある大名〔牧野貞喜〕です、その時代の記憶はまだ心地よい思い出として残っています。田植えの時期のことです。皆が忙しく働いています。しかし、ひとりの女が振り向き、大名は言います。

「ふりむくは
なく子の親か
田植笠」
〔Le chapeau d’une repiqueuse de riz
S’est tourné,
Est-ce la maman dont le bébé crie ?〕

この象徴的な句は笠間城址の石碑に刻まれています〔句碑の表記どおりに書くと「布里む久盤 啼く児能親可 田宇ゑ笠」〕。
もう一句、米についての有名な俳句があります。こちらは道徳について述べています。

「実るほど
首を垂れる
稲穂かな」
〔À mesure qu’il murit,
Incline sa tête
L’épi de riz !〕

日本の輸出品は生糸のほかにもあります、特筆すべきは、絹製品、綿布、磁器、砂糖、茶、紙、燐寸、等々……。
逆に、日本が外国から買っているのは、綿糸、鉄、機械製品、肥料、木材、米、小麦、羊毛や毛織物、等々……。とくにフランスから輸入しているのは、精油や植物性香料、機械製品、染料、ワイン、毛織物、香水や石鹸、等々……。
いま日本では若い娘たちや社交界の夫人たちがフランス製の化粧道具をたくさん使っています、これは裕福な男たちが貴国の高級品を進んで取り入れていたのが一般化したのです。
日本がフランスに生糸と「羽二重」、これはしばしば単に「ジャポン」と呼ばれています、を輸出していることは、言うまでもないでしょう。1922年の日本からフランスへの輸出額は4億966万7000フラン、フランスから日本への輸入額は1億1016万フランに上ります。
お時間を取りすぎるのはよくありません、皆さんが聞いてくださるのに甘えて長く喋ってしまいました、最後に、このたびの震災での日本赤十字の奮闘について述べて終わりたいと思います、この偉大な救援団体はフランス赤十字と同じ博愛を目指しているのです。日本赤十字はすぐさま被災者のために500万円を用意し、日本委員会、朝鮮委員会、満洲委員会から人手をかき集めました。早くも9月14日には、東京に30、横浜とその近隣町村に19、千葉にふたつの救護窓口が建ちました。多数の内科医、外科医、薬剤師、看護婦、といった人員を揃え、65の救援部門が動いています。9月の間に赤十字は17万6千人の傷病者を受け入れました。それ以外の場所でも倍程度の数の傷病者が手当を受けたことでしょう。
したがって、フランスと日本の苦しみは同じなのです。フランスは大戦で荒廃した北仏を、日本は地震で破壊された国の中心を、再建しているのです。同じ経験をした国どうし手を取り合って復興しましょう。
今一度、わたしのささやかな講演を快く熱心に聴いくださった皆さんに、お礼を申し上げます。あなたがたの街の発展を心よりお祈りして、終わりといたします。

(訳:加藤一輝)

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