若月馥次郎『桜と絹の国』リヨン講演

【原典:Fukujirō Wakatsuki, Le pays des cerisiers et de la soie】
【若月馥次郎は1920年から1927年まで在リヨン領事代理を務めており、『桜と絹の国』は1923年の関東大震災を受けてガップとリヨンで行なった復興支援講演の記録です。ここに訳したのはリヨン講演で、日本の伝統文化の紹介や近代化にあたってのフランスとのかかわりを述べつつ、絹産業の街リヨンの聴衆に向けて、絹の一大輸出国である日本とのつながり、そして震災で止まった絹輸出が間もなく再開されることを強調しています。若月はリヨン市民に親しまれていたようで、今でもリヨン8区には名を冠した「若月通り」があります。()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文ローマ字です。ガップ講演はこちら

講演会
1923年12月27日、於リヨン
日本の被災者たちのために
後援:リヨン新聞記者組合委員会

司会:ルネ・ガロー氏
リヨン新聞記者組合委員、リヨン大学法学部教授、元弁護士会会長

皆さま、

リヨン新聞記者組合は、日本領事閣下の呼びかけに喜んでお応えします。貴君に協力できるのは光栄の至りであると、領事閣下に申し上げます。
本来この集まりの座長は組合長であるサレス氏でした。しかし、座長を務める喜びは、つい最近起こったばかりで片時も忘れることのできない痛ましい喪失を埋め合わせるには程遠いと、サレス氏は考えました。
それゆえ、氏ならば立派に果たせたであろう大役を、一介の組合員が代わりに務めているのです。
しかし、わたしには重すぎる責務を引き継いでしまったので、少しばかり差益をいただきたいと思います。
講演者の紹介をすべきでしょうか?確かにそれがしきたりですが、せずに済ませます。わが街で若月氏は充分に高名であり、そんなしきたりは全く無意味です。
日本領事閣下はリヨンにおいて、偉大で友好的で公正で誠実な国民の優れた代表であり、それだけでもうわれわれに心からの温かい親近感を抱かせますが、のみならず、われわれにとってほとんど「同胞」なのです。
つい先日刊行された、氏が気品と魅力あふれるフランス語に訳された『日本の伝承』という集成〔Fukujirō Wakatsuki, Légendes Japonaises〕は、「親愛なるフランスの小さな子どもたちへ」捧げられていたのではありませんか?
遠く離れた地の伝承は、「小さな」子どもだけでなく「大きな」子どもにとっても、きっと楽しく読め、多くを得られるもので、これほど美しい物語を与えてくださった氏に感謝することでしょう。
確かに、この講堂で、何としても氏の話を聴こうと、そして貴国への篤い共感をあらためて示そうと詰めかけた聴衆を前にして、日本領事閣下は興味を惹くために新聞記者を頼る必要などないでしょう。
しかし、それでも新聞記者が最前列に陣取っているのは、その栄誉に値するからなのです。
実際、日本の被災者たちのために募金を開こうと真っ先に主導したのは、新聞記者です。新聞記者を褒めてもよいでしょう、それは華やかな都市の多くを焼き尽くした恐るべき火災に比べたら大海の一滴にしかならない数百万フランを集めたことについてではなく、むしろ新聞記者が貴国を称え、フランス人みなの篤い友情を示すべく開催している、この集まりについてなのです。
もしフランスじゅうの新聞記者で集まっていたとしても、こうした共感による友愛の動きの音頭を取るのはリヨンの新聞記者だったであろうと言えましょう。絹が結ぶリヨンと日本とのつながりは確固たるものです。しかし心のつながりはさらに堅いのです、今宵これほど多くの熱心な聴衆が講演を聴こうと押し寄せたことからも分かっていただけるでしょう。

弁護士会会長、そして皆さま、

在リヨン日本領事として、また在リヨン日本人会の会長として、まずは日本の被災者を支援するため講演会を開いてくださったリヨンの新聞記者の方々、そして前代未聞の痛ましい震災にあたって不幸なわが同胞たちへの共感を絶えず示してくださっている皆さんに、お礼を申し上げます。
ただいまリヨン新聞記者組合委員で元弁護士会会長のルネ・ガロー氏による紹介に与りましたが、そのじつに温かい方法がわたしの心にしかと響いたことは、隠しようもありません、身に余る称賛ですが、フランスの日本に対する感情を真に表わした言葉ですから、そのまま公電で本国に伝えようと思います。そのあかつきには、日本人みなが心打たれるはずです。
これほど多くの皆さんがおいでになり、強い共感を示してくださっていることは、けっして忘れません。また、リヨン楽隊の方々が、優雅で洗練された藝術的な合奏によって、この集まりに華を添えてくださったことにも、お礼を申し上げます。
もうひとつ、深い感謝の言葉を特別に述べねばなりません。現在わたしのところには、どれほど多くの日本人がフランス各地から日本への熱烈な共感を心強く受け取ったか知らせる手紙が、日本から何通も届いています。ここでわたしが代わりにお伝えするとともに、われわれが皆さんに恩義を感じていることを重ねて明言いたします。
皆さんは、わたしがお話しするよりもはるかに事細かく、わが国を深い悲しみで覆った恐るべき出来事の詳細を知っておられるでしょう。ですから、先の9月1日の地震、その被害については、繰り返しません。
ただ、それでも手短に申し上げるのは、他でもない、遠くでわが同胞たちを襲った災禍があまりに大きく、その音がわたしの耳にも響いてくるように感じるからなのです。
試練のときには人間の美徳が表われる、と言われます。ですから、ある点においては、不幸もよいことなのです。日本に降りかかった不幸は、現代の心もまた過ぎ去りし日々の心のもとにあることを、明らかにしてくれました。蘇った昔の気風の例を、ふたつ挙げましょう。
東京深川区に住む3万3千人が、迫りくる火の壁に囲まれて一瞬のうちに命を落としたとき、皆を助けようとそこへ誘導した警察署長は、部下15人あまりが目の前で殉職する恐るべき光景に、犠牲の責任を感じ、同僚の後を追って自裁したのです〔本所相生警察署の山之内秀一署長〕。また、東京のある小学校の校長は、自分が助かろうなどとは考えず、真っ先に天皇皇后両陛下の御真影と自身の預かっている重要書類をしっかりと結わえて持ち出しました。この人物は、たったひとりで燃える学校に引き返し、学校を心配しながら亡くなったのです〔こうした御真影奉遷による殉職は何例かあるが、ここでは二葉尋常小学校のことか〕。
天災は、じつのところ戦争すら上回るほど残酷ではないでしょうか、なぜなら戦争は人間の意志にのみ基づいているからです。祖国のために犠牲となる者は、どうして自分が死ぬのか知っています。しかし地震のような天災で亡くなる者は、自分が闇雲な力に弄ばれていると思うでしょう、日露戦争は20万人以上の死傷者を出し、その約4分の1が亡くなったと見積もられていますから、多くの人命を奪ったには違いないのですが、先の震災はさらに多くの犠牲者、それも2倍か3倍の死者を出し、より残酷だったのです。
しかし、そんな忌まわしい記憶は横において、さっそく講演の本題にとりかかりましょう。
まずは日本の景勝地について、とくに京都奈良日光についてお話しします、次いで日本の祭りと、日本に独特の教育と思われるものを紹介します。最後に、日本の絹産業について述べて終わりにいたします。
正直に言って、風景の美しさ、習俗と気質、絹産業、これで日本の全てというわけではありません。それらに限ってお話しするのは、暇さえあれば時間をかけて一国についてもっと皆さんにお伝えしたいのですが、どんなに切り詰めても一晩の講演でこれ以上は無理だろうからです。
王政復古まで11世紀の間、京都は日本の首都であり続けました。この都市は平地に広がっており、東側を丘陵の連なりに守られています。そこには比類なく荘厳な寺院やいにしえの神社が数多くあります。
京都は現在、人口で見れば日本で4番目の都市であり、約60万人が住んでいます。すっかり上代の香りに包まれた穏やかな都市には、美しく淑やかな川が静かに流れています。
この古都は、さらに「西陣」という絹織物で有名な地区があり、いわば日本のクロワ=ルースです。「西陣」地区は京都の北西部に位置します、日本語で「西陣」とは「西の陣所」を意味することも言っておかねばなりません。これは1467年から11年間、京都で有力な武将ふたりの間に戦乱があったことに由来します。
片方の軍〔細川勝元〕が京都の東側に陣所を構え、そこが「東の陣所」という名前になりました。もう片方〔山名宗全〕は西側に陣所を構え、そこが「西の陣所」という名前になりました。しかし、はなはだ対照的なことですが、恐ろしい戦地の名前が、それから5世紀を経た今日では、日本の美しい絹織物の名前になっているのです。
これも昔の話ですが、8世紀には、奈良がわが帝国の首都でした。何と魅力的な都市でしょう!奈良は全体としてひとつの大きな公園のようです。泰平の京都よりもさらに静寂が漲っています。この独特の安寧は絶えず深い印象を与えるもので、じっさい日本の作家たちは何度も「ひとたび奈良を訪ねた者は、自身のうちに詩人が生まれるのを感じる」という考えを述べてきました。
森や丘の緑の中に多くの宗教建築が屹立し、景観の美しさをいっそう高めています。建立は607年まで遡るという法隆寺は、世界で最も古い木造建築のひとつであり、日本で最も古いと考えられています。ここで、その土地にいる人馴れした千もの鹿のうちの何匹かを、映像でお見せします。この雅な動物は土地の神に仕えており、庶民に敬われ12世紀に亘って餌をもらっています。とてもおとなしいので、鹿は自由に小道や芝地を歩き回り、個々の気品を心地よい景色に加えています。
わが国では、主要な寺社にはたいてい多くの鳩が棲んでいます。わが国の鳩は、リヨンの方々にとって、テロー広場をしなやかに飛び回る鳩を思わせるでしょう。
つい最近、わが国の鳩は歴史的大役を果たしました、そう言ってよいでしょう。地震のあと、東京で炎が猛威を振るっていた何時間かの惨状の間、電信が破壊されたとき、通信の一部を担っていたのは、鳩なのです。約20羽から成る伝書鳩の隊がありました。地震の間、伝書鳩は鳩舎から逃げることなく、皆まとまって派遣命令が下されるのを待っていました。伝書鳩を管理していた機転の利く兵士は、地震についての報告を伝書鳩に託しました。すぐさま一羽また一羽と悲しい知らせを運ぶべく奮然と飛び立ち、赤い炎と黒い煙という二重の厚い雲を逞しく突っ切ってゆきました。この忠実な鳥のおかげで、急いで助けを呼ぶことができたのです。一羽の鳩でさえ雄々しい魂を持っているのです、勇敢な伝書鳩のうち6羽が命を落としたと言っても皆さんは驚かないでしょう。日本の兵士たちは、伝書鳩を友人のように思っていましたから、目に涙を浮かべ、愛するわが子のように探し回りましたが、見つけられませんでした。ところで、わが国の鳩はフランスの鳩の同胞でもあります、種が同じというだけでなく、育ちも同じなのです。数年前、フランスの伝書鳩飼育係の士官が日本に派遣され、わが国の士官たちに伝書鳩の馴育法を教えてくださり、今日でも日本軍の伝書鳩はフランス式に育てられています。話ついでに余談をお許しください。日仏両軍を結ぶ縁が数多くあることを、皆さんにお伝えしたいのです。わが国に飛行法の極意を初めて教えてくださったのは、貴国の卓越した飛行士たちではありませんか?かつては戦う鷲たちが、今日や将来においては平和の使者〔創世記8:11〕かつ平和を作る者〔ヤコブ3:18、マタイ5:9〕が、つまり大小ふたつの鳥が、天空から日仏友好を証明しているのです。
いずれにせよ、日仏の親交は今に始まったことではありません。日本が1867年に初めて軍事訓練のための派兵を要請したのはフランスです。日本が初めて近代的な海軍を創るにあたって教えを乞うたのもフランスです。日本人は世話になった人物を忘れることはできません、ルボン将軍〔Félix-Frédéric-Georges Lebon〕と、それから現在も平和を作る者としてパリの日仏協会会長を務めておられるベルタン氏〔Louis-Émile Bertin〕の名を、記憶に留めているのです。
皆さんは日光についての話を何度も聞いたことがあるでしょう。多くの神殿や寺院が、素晴らしき日光を構成しています。
日本の建築技術を示しているそうした建物だけでなく、日光は世界でも独特の風光を誇っています。数々の瀑布、白銀の急流、紺碧の湖が、至高の美しさを持つ景観を作り出しています。有名な大木の並木道を映像でお見せします、この道は日光街道を途切れることなく40kmも続いています。しかし、この道には逸話があります。それをお話しさせてください。
3世紀前のこと、多くの大名(武士の領主)たちが、将軍の亡骸に捧げようと、貴重な品々を記念に奉納していました。あまり財力のなかったある大名〔松平正綱〕は、街道に沿って杉の苗を植えるとだけ申し出ました。その領主や慎ましい寄進を嘲った者は数知れません。しかし!木々は今や大木となったのです。その価値は計り知れません、そして盛夏には街道をゆくひとたちに心地よい蔭を作ってくれるのです。この忠臣は裕福ではありませんでしたが、機知と先見の明を持っていたことが分かります。
皆さん、ここで休憩がてら映像を見ながら、ちょっとした日本周游としましょう。

日本には3つの公的な大祭があります。年初めの日である1月1日〔四方節〕、初代天皇の即位日である2月11日〔紀元節〕、そして今上陛下の誕生日を祝う10月31日〔天長節祝日〕です、最後のは日本の国民祭〔fête nationale、フランスでは革命記念日である7月14日を国民祭の日としている〕にあたります。
大衆的な祭りとして最も興味深いのは、桜祭りだろうと思います。
わが列島に暖かい春が訪れ、木々に静かな花が開くとき、生きた花のごとく空を舞う蝶に見蕩れ、心に喜びが炸裂し、日本人みなの顔が微笑みで輝きます。
そうなると、散歩するひとたちが列をなします。老若男女、ひとりでも家族でも団体でも、公園や川辺に足を向け、あるいは村里へ行って、桜の花を愛でます。
ときには(日本のリキュール)を持ってゆきます、国を挙げての歓喜の様子を想像していただくために述べますと、道々の角では純朴なひとたちが大切なを行きずりの友人になみなみと注ぐのが見られます。献杯をもらって礼を言えば、たちまち親しくなります。やさしいお婆さんたちが公園の芝の上で列になって踊り、若く美しかりし頃に戻って楽しんでいるのは、いっそう晴れやかな光景です。
桜祭りは、とりわけ大衆的な祭りなのです。約2世紀前に詠まれたというある17音の詩が、そのことを表わしています。温和な心の持ち主が武士の野暮な荒々しさを目にしたときの厳しい非難が見て取れます。

「何事ぞ
花見る人の
長刀」
〔Le long sabre
D’un homme qui regarde les fleurs.
Oh ! qu’est-ce que cela ?〕
〔向井去来〕

花を愛する心は全ての日本人が持ち合わせているものですが、あらゆる花のうちでもとくに桜が愛されているのは、もちろん美しいからでもありますが、紅の盛りのままに誇り高く散るさまが、惜しみなく戦地に斃れる英雄のことを思わせるためでもあります。
ここで日本人の心を詠んだ31音の詩をひとつ紹介させてください。

「敷島の
大和心を
人問はば
朝日ににほふ
山桜花」
〔Si l’on interroge
Sur l’âme japonaise,
C’est la fleur du cerisier sauvage,
Exhalant son parfum au soleil du matin.〕
〔本居宣長〕

秋には、もし台風が許せば、つまり普通であれば嵐のように吹く風が穏やかにそよいで金色の海のような田圃に稲穂を波立たせるだけであれば、収穫は上々でしょう。そうなると、どの村でも収穫祭が行なわれます。まず神主が豊作をもたらしてくださった神に感謝を捧げます。各家庭で喜びのしるしに祭りを準備し、若者たちが森の中の開けた場所や神社の境内で輪になって踊ります。
日本の祭りを全て話していては今晩あまりに時間を使いすぎてしまいますから、ここからは日本の教育について皆さんにお話しさせてください。
9月1日の地震、あるいはそれに続く火災によって破壊された小学校は、東京だけで107校に上ります。被災した小学校の生徒は計14万8306人です、その中には多くの死傷者がいます、東京には小学生が24万人いますから、かなりの割合になります。子どもたちが放ったらかしにされ、教育が中断されることのないよう、当局は直ちに仮校舎を建てて新たに87の小学校を開くことを決めました。
東京帝国大学をはじめ、この都市の多くの教育機関の図書館が、火災によって甚大な被害を受け、わずか数時間のうちに、日本や諸外国の貴重な書物が数百万冊も無に帰しました。闇雲な力によって人間の知性が被った恐るべき損失です、知的文化を記した第一級の書物がかくも理不尽に消滅するのを見て、日本人は深い悲しみに襲わました。
わたしが喜んで皆さんにお伝えしたいのは、この情況に心動かされたリヨン大学が、東京大学図書館の再建に協力すべく厖大な重要書籍の寄贈を申し出てくださったことです、そしてパリ大学、さまざまな大学人、大学組織、学術協会、出版者団体もまた後に続くことにしたと聞きました。
この日仏両国の文明のつながりを示す明らかな証に、心から敬意を表します。
日本国民の道徳教育の基礎は、明治大帝が特別な勅令を発せられた1890年に据えられました。この勅令は一般に教育勅語と呼ばれています。全文引用すると長くなってしまいますので、はじめのほうの一節を少しだけ挙げます。

「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホスヘシ」
〔本来は「博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ……」と続くが、ここまでを一文として紹介している〕

全ての学生が教育勅語を暗記するよう義務づけられており、校長は公式の学校行事のたびに必ず全校生徒の前で読み上げます。
教育勅語も重要ですが、もうひとつ大切なのが、陸海軍人のための軍人勅諭です。
これも同じく明治天皇が1882年に起草されたものです。こちらは義務、規律、忍耐、武勇、祖国愛についての素晴らしい規範から成っています。
女子について言うと、まず婦徳の涵養が入念に行なわれています。女学校の教育は4年ですが、場合によってもう1年延ばされることもあります。稽古事を学びたい女子は通常の教育課程と上手く組み合わせて習い事をすることもできます、それについてお話ししましょう。
重要な事実を指摘しておかねばなりません、いま日本の女性たちの間ではフランス語を学ぶのが大変な流行となっています。また、日本女性に西洋音楽がとても好まれているのも見て取れます。
何年か前から、日本では女子の体育が急速に進歩しています。この制度の成果はすぐに現われました、最もよい証拠は、日本の女性の平均身長が伸びる傾向にあることです、とくにテニスと水泳のおかげでしょうか。
ここで皆さんに一連の映像をお見せします、まずは桜祭りの様子、続いて、それよりは味気ないですが興味深いものではありましょう、学校教育のさまざまな場面を、わが国で実際に行なわれているとおりにお見せします、日本がどれほど近代化しているか分かっていただけるでしょう。

リヨンはフランスにあって傑出した絹の街ですが、日本は世界最大の絹大国です。これが、両者を結ぶ絹糸の繊細さとは対照的に、けっして切れないつながりを作っています。ご存じのとおり、日本は世界の絹の約60%を生産しています。統計では1919年時点で日本の農家は548万1187戸、うち194万2252戸が養蚕農家です。
わが国の最も古い史書によると、日本では古代から養蚕が行なわれていました。しかし実を言うと、わずか60年も遡れば、まだ絹産業が重要な段階に達していないことは否定できません。加えて申し上げたいのは、わが日本が機械製糸の使い方を教わったのは、貴国フランスだということです。それまで製糸は原始的な方法でのみ行なわれていました。しかし1872年、記念すべき年、フランス政府が日本に製糸技術者ポール・ブリューナ氏を派遣しました。氏は随行の同郷人たち数名とともに、さっそく群馬県に富岡製糸場を建て、全ての日本の工場の手本となりました。日本人はそのことをいつまでもはっきり覚えているだろうと明言いたします。
やむを得ぬ事情による目下の混乱について、手短に述べておく必要があるでしょう。しかしその前に、とくに注目すべき一冊の本、パルク高校の教授であるルイ・ゲノー氏による『リヨンと絹産業』〔Louis Gueneau, Lyon et le Commerce de la Soie〕を紹介させてください。ゲノー教授は、著書の終わりちかくで、極東からの絹輸出が一時的に止まっていることについて不安を述べています。とくに、世界市場の混乱が予想されると指摘したのち、このように記しているのです。
「リヨンにとって不都合は小さくない。遠く離れた外国に依存しているという事実は、危険性がないではないのだ。遠くから届く原材料は容易に止まりうる」
ゲノー教授の言い分はもっともです。現在さまざまな理由から輸出が止まっており、壊滅的と考えざるを得ません。実際、今年9月1日の地震によって、日本の絹輸出は一ヶ月ちかく完全に止まりました。リヨンでは9月3日から絹の相場が高騰し、約2週間に亘って値上がりし続けました。価格が35%増になったのです。異常事態であることは否定できませんが、それが些か長引いて見通しにくくなっているのには、他の理由があるように思います。よくよく考えてみるに、主な原因は、輸出が止まりうるという不安が表面化したせいでしょう。
われわれ日本人は弛まぬ勤勉のみを誇りとしており、遅延は徐々に解消され、それどころか、たとえば神戸港は9月に発送される予定だった絹の総量を輸出できるようになりました。つまりフランスやアメリカの顧客の期待に応えられたはずです。絹産業に危機感が広まっているのを察知し、急いで対処したのです。
リヨン人も日本人も、勤勉に働くということで世界的に評価されています。われわれはあなたがたに似ていることを誇りに思います、この共通性はヴィクトール・カンボン氏が豊富な資料に基づいた『働くフランス』〔Victor Cambon, La France au travail〕という著作で言及しています。氏はフランスと日本を比較し、こう述べています。「リヨン人は行動の人である、それに異を唱える者はいまい、今日のアメリカ人や日本人と同じく、決まったことは必ずやり遂げるのだ」
しかし、今この考察を読むと、あなたがたは多くの不幸な日本人の被災者について考えてしまうでしょう。どうか信じてください、最も過酷かつ突然の災害によって激しく打ちのめされた被災者たちは、あらゆる力を失ってしまったわけではありません。ですから、ここで皆さんにお願いいたします、どうか手を差し伸べてください、それは被災者が深刻かつ理不尽な逆境にあるからというだけでなく、復興のために働きたいと心の底から強く望んでいるからでもあります。あなたがたフランスの諺「天は自ら助くる者を助く」を、直観的に熟知しているのです。
ただ、東京や首都圏の被害を否定するつもりはありませんが、そこから安易に日本の産業そのものが活力を失ったと誤解してはなりません。他の地域は全て無傷であり、世界市場の需要に応えるべく励んでいます。
輸出産業の重要拠点は存続していることをご理解ください。たとえば大阪神戸の一帯、九州全土には、重要な産業拠点が数多く存在します。
半世紀という非常に短い期間で広く西洋文明に門戸を開いてきた若く元気な日本にとって、荒々しく立ちはだかった天災の困難を乗り越えるのは、難しいことではありません。
われわれ日本人は旺盛な勤労意欲を持っており、常に進歩を目指して一分たりとも怠けずに働くのです。
これこそ東京が間もなく廃墟から復興するであろう理由です。しかしわれわれはあなたがたの差し伸べてくださる友愛の手を永遠に覚えているでしょう、その揺るぎなく気高く美しい行ないに支えられて復興するであろうからです。
ここには絹業者も多く来られていますから、その方々が関心を持っているであろう特別な問題について、今一度お話しさせてください。わたしは何度か「日本の絹の品質が落ちた」と言われました。ここで率直にお答えします、その問題は間違いなく日本人に伝えられており、遺憾な状態を修正すべく熱心に取り組んでいるところです。
なるべく手短に、どうしてそう言えるのか理由を並べ、製品の品質向上のために採ろうとしている方法をお示しします。
1.少し前から上質な製品と普通の製品との価格差が縮まっており、そのため現在では絹を大量に発注するとき上質な絹製品を選ぶ利点がなくなってきている。
2.現在、製糸工や最新鋭の機械の使用には、漸進的な進歩が認められる。したがって、近いうちに日本の生糸の品質は安定し、欠陥は減ると期待できる。
3.日本の政府と産業界は、今後の商取引の基礎となる絹の分類法を学ぶ必要に迫られている。その正確性は信頼できるだろう。
4.横浜の生糸検査所は先の火災で焼けてしまった。すでに震災前には拡張が計画されていた。生糸検査所が再建され、予定していたとおりに編成されれば、生糸の品質管理は今よりはるかによく遂行されるだろう。
5.日本の製糸は徐々に大工場で行なわれるようになってきており、家内工業や小規模工場が減るにしたがって製品の品質の不統一はなくなるだろう。
理屈というのは往々にして面白味を欠き、実際の証拠に乏しいものです。ですから、日本で絹製品がどのように作られているか、映像をお見せいたします。

皆さん、いまやわたしにすべきことはひとつしか残っていません、決して欠かせないことです、それは皆さんに限りない感謝を申し上げることです。第一に、まさに皆さんがわたしの呼びかけに応じて、わが国の被災者を支援すべく今晩こうして駆けつけてくださったことに感謝いたします。また、わたしの拙い説明に耳を傾けてくださったことにも感謝いたします、そして最後に希望を述べてよければ、すでに緊密であった友好関係、両国を結びつけ両国の心をひとつの同じリズムで鼓動させるつながりを、この会がいっそう強めたことを願います。

(訳:加藤一輝)

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