山田菊『八景』第二部「東京」(前半)

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鳥の羽ばたき

大きな灰色のしみが、鬱蒼とした日本の中で、青く美しい裂け目に縁どられている、東京湾だ。

1世紀の間に大地の痙攣が2度もこの都市を揺らし〔安政の大地震と関東大震災〕、火山国の首都は赤々とした炎、「江戸の華」を上げた。

河川や大河や運河といった何本もの血流が流れ込み、多くの人口を呑み込む太鼓腹。

泥道と静かな舗道、レンガ、セメント、銑鉄、優雅な木が、混ざり合って肌理をなす雑多な町。

電線の網が都市を包んでいるようだ。その下には、列車、満員の市電、ふらふら走るバス、環状の堀に灯る電光。艀船や舢板、小舟が水路を行き交い、自動車、人力車、千もの自転車、牛や馬に牽かせた荷車が道を行く。裸足、ゴム靴、草鞋、木履、草履、下駄、革靴が、剥き出しの栗色の土を踏みしだいてゆく。

区部

本所浅草小石川牛込――住宅密集地で、灰色の屋根が碁盤状に詰まっており、火鉢にかぶさる木造家屋が、角灯のように電球の光を漏らしている。

日本橋京橋、ごった返す建物の連なる運河や大通りに風を入れる。世界中の商品が各々の文明を運んでくる。長い一本道、銀座通りが貫いている。それぞれの店先にまだ井戸があったのは30年前だ。今日ではモダンなお嬢さんがアスファルトを踏みしめ、夜には鉄の帷が降りる。

麻布赤坂四谷――丘、緑の森、区民は庭園に囲まれている。生垣や板塀の日本家屋が、イギリスやノルマンディー地方のような庭つき邸宅と隣り合っている。屋根には5月になると大きな紙製の鯉が竿に揚げられ、釣られた魚のようだ。鯉の滝昇りは雄々しさの象徴である。東京には、幟の数だけ未来ある男子がいるのだ。

中心には、美しく神秘的な目、皇居がある。生い茂る松の下、土塁に仕切られた濠端で、白菖蒲が花開き、揺れている。

渡り鳥が澄んだ水に舞い降り、土手の桜や柳や桐をかすめる。丸みを帯びた切石でできた巨大な石造りの防壁の下を泳ぐ、その石垣の稜線は、不可侵の屋根と同じ曲線をしている。

皇居の上空を飛ぶのはやめておこう、けれども、富士の円錐が地平線に沈むとき、最後に一度だけ上から見てみれば、夕映えの東京が城壁の周りを灰色の綺麗な猫のように取り巻いている。

コオロギや蝉の声、下駄や木の雨戸の音、それに被さる近代的な金属音、正午の大砲の鈍い響きのあとに続く銅鑼や鐘の轟音が聞こえてくるようだ。

九段には陰気な黒い鳥居が聳える、祖国に殉じた者たちのための厳めしい凱旋門、傾いて倒れそうな鋼鉄の針だ〔靖国神社〕。

最後に細かいことを。本願寺派の大伽藍〔築地本願寺〕、フランス風の鐘楼の尖塔がいくつか、7つの小教区、そのうちひとつはルルドの泉を擁している〔関口教会〕、そして沈む月のような金の丸屋根を持つ正教会の聖堂〔ニコライ堂〕。

帰国した日本人学生からフランスの伯母へ

東京、1926年12月15日

……帰国して以来ずっと日本の習慣に戸惑っています。客人はいつまでも畳に居座るし、市電は営業中なのに乗り込めないから移動できないし、おばさん(中年女性のことです)に挨拶したら終わりがないし、云々……

銀座には安普請の家が並んでいるだけです。あちこちにアメリカ式のビルが建っていますが、古き東京を残す小さな商店は姿を消しました。わたしは銀座を見て、これほど変わってしまったかと辛くなりました。要するに東京の顔たる銀座は堕落したのです。外国語学校〔現在の東京外国語大学〕の学生時代、煙草屋にヨーロッパ煙草は数箱しかありませんでした。ご覧ください!店先に山と積まれています。どれもが易々と売られています。客が豊かになったのでしょうか?いや!身なりはよくないし金払いも悪い。なのに売り物の趣味はよくなった。百貨店にもフランス語の広告があります。

ああ!日本人に日本を忘れるなと書き送ってください!日本の生活の要はどこへいったのでしょう?……

艶のある斜堤に港が寝起きする。東京湾は覚えている。この首都は漁港だったのだ。

わたしは見た、品川の海が埋め立てられ、やがて線路に列車が走るのを。

わたしは聞いた、夜の埠頭に波がさざめくのを。どんどん歩みを遡ることとなった。月の下、わたしは東京の最端にいた。左手には、美しく閉ざされた庭園がふたつあり、海沿いに、それぞれ離宮を取り巻いていた〔芝離宮、浜離宮〕。

隅田川の河口ちかくには港がある。打ち捨てられた帆掛船やがらんどうの艀船で一杯だ。かつては外国人居留地だった〔築地居留地〕。昔、侵略に対峙して攻撃を受けた小島〔築地鉄砲洲〕では、坊主が鐘を使って防衛に当たった。木製の砲架に鐘を載せたのだ。沖へ向かって鐘が口を開け、大砲のようだったので、夷狄は攻めてこなかった!

朝、水上で、淡紅や緑の大きな帆がしおれ、黒く素っ気なく佇む帆柱を包んでいる。舫綱に繋がれた船が天を引き寄せ、帆柱で天を繋ぎとめているようだ。ときに蓮のような帆船が通り過ぎる。静かに揺蕩う花だ。黒ずんだ船体に黄土色の線の入った、荒々しい快速の蒸気船が、横をかすめてゆく。鋭い汽笛を鳴らし、金属音が響く。黒々とした煙が青空を濁らせる。

水が動き、水面を揺らし、生気のない海屑が押し寄せる。

夕方には、電線の網と傾いた電柱に囚われた灰色の街が、しばしば海の上で入日に照らされる……斜陽の輝きが運河や大河を遡上する。川面が街を輝かせる番だ。

黄昏時こそ束の間の自分の時間だ、ひとびとが湯屋へ繰り出す。ゆるゆるとぶつかる下駄の連なりが路地に散らばる。側溝の上に木の縁台が出される。じきに湯船が空いて、湯気が人いきれの匂いで通りに漏れ出すだろう。

本願寺の軒下を塒とする鳩は慌ただしく羽を畳んでしまった。しかしユリカモメは悠々と飛ぶ。これこそ「都の鳥」なのだ、隅田川の河口に着いた旅するドン・ファン、業平が訊ねたという……

名にし負はば
いざ言問はむ
都鳥
わが思ふ人は
ありやなしやと

隅田川

川舟や
よい茶よい酒
よい月夜
蕪村〔正しくは松尾芭蕉の句〕

それは広く、速く、溢れんばかりで、役に立ち、華やかである。

米俵や樽を運ぶのはこの川だ。河岸に横たわる大きな櫛のように、力士の闘技場〔本所回向院の境内にあった初代国技館〕の向かいで、埠頭が歯を突き出している。

川に真っすぐせり出した料亭が入口を開けている。

夏の夜、そこを通り過ぎると……

水は急いで流れゆく、何の渇きに駆られてだろうか。水は、きっと窓を賑わせる儚いきらめきを受け取ったり持って行ったりできないのだろう。窓には藝者の上品な笑いや三味線の甲高く弾む音、たらふく食べた客のしゃっくりや騒がしく喋る男のキンキン声が聞こえる。

影法師が障子に映り、礼儀作法に則った堅苦しい姿勢だけでなく、着物のファランドール踊りや軽快な手ぶり、整った鬘がずれているさまも映し出される。

この7月の夜、築地の港では隅田川の川開き祭りだ、舢板が川を遡ってゆく……

どの職人衆も艀船や小舟を借りている。船頭が櫓を差し入れ、螺旋状に動かす。水をゆく無数の船団を、細長い影をした魚のひしめく群れのように進める。じきに押し合いとなる。暗がりで荒々しい演目が行なわれる。大太鼓の音とともに、見習い水夫が、おかしくなった操り人形のように艀船の舳先で踊るのだ。年老いた女座長は身を屈めて冷ややかな笑いを浮かべている。お歯黒が夜の闇に漆黒の洞を作る。

あちらには飾り立てられた小舟が進む。屋根の下で提灯と花が揺れている。磁器人形のように艶やかな着物姿の藝者たちが、三味線をかき鳴らす音とともに過ぎてゆく。

今度はエンジンつきの船が遠くでうなる。有名な実業家を乗せた黒い船体が目もくらむ速さで川を上り、スクリューで川面を流血沙汰かというほど裂いて叩く。警笛で木の船団を二手に割る。小舟がみな揺れる。

程なくの香りが水上に漂う。船たちは止まって動かなくなる。両国橋に着いたところで、花火や蛍放生が始まる。

両岸を人混みがゆっくりぞろぞろと進んでゆく。巡査が赤い提灯を振って人混みを流しているらしい。

青白い光が束になって飛び立ち、空中で散開し、星々の間に消えてゆく。蛍が籠から放たれたのだ。

続いて黄色の打ち上げ花火が金属の橋弧を越え、低い軌道を描く。花が炸裂し、花粉が飛んで消える。

岸辺や小舟から足音と歓声の鈍いざわめきが上がる。

電化された鉄橋が火花を振りまいている。江戸っ子たちは、この首都、誉れ高い気風、かつての楽しみに思いを馳せる。隅田川にかかる両国橋の祭り、北斎が版画に描いた花火〔「新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」〕……昔のことだ。今日では版画の新しい流派がこの影と光を描いている〔小林清親の光線画のことか〕。

火入れの炭が消える。疲れた煙草呑みが最後に竹筒を叩いて煙草を落とす。茶は死んだように冷めて味がしなくなる。川を下って戻る。

ひとびとが道を抜けて涼しくなると、少しずつ静寂が戻ってくる。船団は散り散りになって落ち着く。川には箸やごみが浮いている……黙ったまま黒い岸壁に行き当たると、船を留める輪が光っている。三々五々に別れを言うと、酔いは水面のように醒めている。

向島

世の中に
たえて桜の
なかりせば
春の心は
のどけからまし
業平

春、太陽。向島では二列の桜が彼方まで続いている。隅田川は澄んで、青く、すでに花びらが散らばっている。

さくら花
散りかひくもれ
老いらくの
来むといふなる
道まがふがに
業平

わたしは木々や旅籠や縁台の間を縫って歩く、緋毛氈にはおちょこが置かれている。今日は警官が酔客を守っている。花に向かって杯が掲げられる。花は淡紅で透き通っており、なかには萎れたり葉が出たりしているものもある。

風や雨に狙われる繊細な開花!曇り空に脅かされる色、木から生える儚い真珠色!枝の網にかかった幻想の雲よ、急いで祝われたまえ!果実は成らない。雀の見向きもしない固い種になる。けれども、お前の葉は餅を包んだりに漬けて熟成されたりする。八重の花は塩味の桜湯になる。

今日、喜びや酔いをまとった桜色の顔たちが、お前に向けられている。

花見客が集まって、着物を端折り、髷に花を差し、首に手拭をかけ、屈託なく楽しんでいる。

人はいさ
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香ににほひける
貫之〔この歌は桜ではなく梅の花を詠んだもの〕

運河

運河はこの都市のいくつもの区を横切り、遠くまで延びている。

手すりのない整然とした石組が橋々をくぐる、外国の建築技術で作られた石橋、木の橋、渡し板だ。

わたしは狭くて青緑色をした麻布の運河を知っている、崩れかけた家々の近くを通り、吐息で蔦の壁をくすませてゆく。異様な薄明かりが淀んでいるが、壊れた平屋の間で、大きな銀の器が打ち捨てられたかのように、月が運河を漂っている。

日本橋では、運河は晴れやかだ。鮮魚が河岸に着き、競りが開かれる。

魚売りは精悍なふくらはぎの運び屋だ、威勢よく声を上げている!今朝、振売たちは道いっぱいに広がり、駆足でバランスをとりながら、満杯の桶を天秤棒で肩に担いでいる。裸足で、帯を締め、ねじった手拭を頭に巻いて額に角を立たせている。ふんどしに白い半纏姿で、勝手口を叩き、積んでいた桶を下ろす。水しぶきが跳ねる。鯛はまだ踊っており、貝は寒そうに固く閉じている――素早い包丁捌きでクロマグロが薄く寝かせられてゆく。切れ込みの入った笹の葉や、つまに使う白髪大根もある。

女中に冷やかし言葉を投げ、桶をぶつけ合い、積み、出てゆく、その全てが駆足だ。

ああ!海から出てきた鮮魚のみずみずしさよ!朝の活気だ!

醤油と生魚

塩辛く茶色い発酵の匂い、褐色に磨き上げられた長廊下。きらきらと打ち水をする女性のハイハイ!という掛声。

日本料理店だ。

「ああ!春を祝おう
ご馳走を並べて
吉野塗の椀を
ひとつひとつ数えながら」
Ah ! fêter le printemps
Par des cuisines exquises,
Comptant l'un après l'autre
Les bols de laque de Yoshino !
〔原句不明〕

美食家は定番を、数寄者は名物を好む。

これが、末広の「鳥の煮込み」、鶏鍋である。もう料理を味わおうという口にさせてくれる、この均整のとれた響きの名前は、終わりが広がっているという意味である。お分かりにならないだろうか?末広の看板は扇である。扇、つまり端が開いている。畢竟あなたに幸せが開かれるというわけだ!

「牛の煮込み」、牛鍋がお好みなら、冬がよい。女給が熱々の焜炉を運んでくると、あなたは顔いっぱいに熱気を受ける。膝をついて火の上に屈み、赤い舌を自ら箸でつつくからだ、その生々しさは、思慮ぶかい法によって縁切りを認められたお喋りな女たちをことごとく打ちのめす非道な虐殺のようだ!

薄切り肉を、茶色い醤油とワインと砂糖で煮込む。千切りの青葱の香りがする。空豆のつみれと蒟蒻に割下を入れる。

同じ料理を共有し、各々がそこから一口ずつ取る、何という親密さの証だろう、喋ったり食べたり、何と滋味ゆたかな熱気だ!

異国の方よ、また後ほどお教えしよう、豆殻は袋に入れて、廊下の繊細で優美な艶出しに使うのだ。お腹の調子が悪い日には蒟蒻の湿布を用意しよう。どんな神通力が込められているのか?生地を足でこねる職人の力だ、ちょうどフランスでは良質の葡萄を足で挽くのと同じである。

たっぷりと時間のある日には、鰻を食べに行くのがよい。レストランの床板が互い違いに外されている。部屋にいながら池の上にいて、暗がりの中に明暗のうごめくのが微かに見てとれる。活きた鰻が重なり合ってうねっているのだ。

急な階段を昇り、しばし茶を啜って待つと、捌かれて焼かれた鰻が飯の上で香ばしい脂身を広げて出てくる。

そして大根の漬物も少し。

「黄金苑」の庶民的な賑わいのほうがお好きだろうか?肘をつつき合い、腰を押し合い、黄金色の揚物と瑞々しい大根おろしを嗅ぎながら、衣を纏った海老や魚や野菜を呑みこむ。目の前には赤い漆盆だけが残り、冷めた油はすっかり紙片に吸われている。

しかし、もっと上品な宮中の宴会のための、洗練された儀式の場もある。

高価な板張りの小さな部屋で、すまし汁をゆっくりと飲む。乾いた魚、天日で木のように固くなったマグロの節は、結婚式の引出物として山積みにされており、鉋をかけるごとに薄皮が出る。醤油、つまり発酵した大豆のソース、太ったネズミがその素晴らしさに惹かれて樽に落ち、一緒に醸されていなければよいが――ともかく茶色の醤油とともに、この干魚の出汁は、われわれの料理の基礎となっている。刀の鍔のように絵柄の入った椀の、ろくろ細工の蓋を上げると、うずらはもはや風味のある肉団子になっている。

青磁の皿で、生魚は水を得たようだ。白鯛や葉箒貝やクロマグロが薄切りで並んでいる、本の角押さえの滑らかな金具のようだ。

生魚、それはわれわれにとって大当たりの料理だ。それぞれの素材の味と空気を残すことで、生きとし生けるもの、鳥や野菜や魚介の詩的な輝きが保たれる、これが日本料理の基本なのだ。

清らかな肉、お刺身よ、お前は水から跳び出す鯉のように明るく、ほとばしる波のように力強く、手をすり抜ける魚のように足が早い!

宴会では、5皿か7皿の豪華な料理がずらずらと膝の前に並ぶ。

客たちは脇息に肘をつき、しばしば箸を休める。主人はひとりひとりを回り、杯を交わして挨拶する。無礼と儀礼に満ちたやりとりをしたところで食事は終わりとなる。すると、うら若い白塗りの着飾った舞妓が登場する。酒をつぎ、料理に華を添えるが、自分は料理に手をつけない。年増の藝者が客に交じることもある。政治屋や実業家、腹に一物ある招待客に災いあれ!お相手たちは、機転を利かせ、如才なく、手練手管で、当意即妙の受け答えをしながら、上手く客の気を惹く術を熟知している。

10時……宴会を始めたのは夕方6時のはずだ。燗をつけたを飲んでいた客は、しょっぱいつけあわせと一緒に徳利2本を空けた。

夫は妻に弁当を持って帰る。帰り際、客は白い綿布に包まれた白い木箱を渡される。中には、その席で出された全ての品目が少しずつ、あるいは残ったものが詰められている。

夜遅くに弁当を受け取った妻、礼儀としていつでも主人の帰宅を待ち風呂を沸かしておくことになっているわけだが、その妻に対して、もちろん優しい主人はさらに一連の愛情を示す……

「あなた、お帰りなさい!」妻は言うだろう。

料亭、茶屋、逢引屋、あなたに馴染みのところだ!良妻は仏壇の傍で辛抱強く縫いものをしている。

わたしは帝国ホテルで挙式された盛大な結婚式を思い出す。新郎は、新婦の母のお眼鏡にかなった、陽気で口達者な高級官吏だった。卓上には引出物として銀の箱が配られていた。よく知られた実業家たちが居並んでいた。突然、新橋藝者たちが都会の着物で闖入してきた。京都の最上級のものだ。女性の艶やかさが卓を囲み、客を見つけ、行き来する。カトリック系の寄宿女学校で貴族の娘たちとともに育った貞淑な新婦は目を伏せる。新郎は義母として最もお堅い東京の茶屋のおかみを選んだのだ。

(訳:加藤一輝/近藤 梓)

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