アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』第10章:嵐の岬
(凡例はマガジンのページをご覧ください)
季節はじめの月には、ぞっとする時期がふたつある、ふつう1日と15日だ。どちらが近づいてもロドルフは恐怖を抱かずにはおれず、嵐の岬と呼んでいた。その日に東方の扉を開けるのは、暁の女神ではなく、借金取りや大家や執達吏、ほかにもそうした略奪者……集金人たちだった。その日は見積書や領収書や請求書が降り注ぎ、ついには不渡証書の雨霰に見舞われる怒りの日〔Dies iræ〕なのだ!
さて、4月15日の朝のこと、ロドルフはぐっすり眠っていた……叔父のひとりが遺言でペルーの州ひとつを領民ごと遺してくれるという夢を見ていた。
パクトロス川の夢想にすっかり浸りきっていると、鍵の回る音がして、黄金の夢の最も輝くところで、舞い上がった相続人に水を差した。
ロドルフはベッドで身を起こし、目も心も夢心地のまま、あたりを見回した。
男が入ってきて部屋の真ん中に立っているのがぼんやりと分かった。何者だ?
早朝の珍客は三角帽子をかぶり、肩掛け鞄を背負い、手には大きな書類入れを持っていた。フランス人らしく淡青色の燕尾服を着て6階まで上がってきたからか、ひどく息切れした様子だった。物腰はとても柔らかく、両替機が動いているような足音だった。
ロドルフは一瞬たじろぎ、さらに三角帽子と制服を見て警官だと思った。
だが、肩掛け鞄がかなり膨らんでいるのを目にして、勘違いに気づいた。
「ははあ!なるほど、遺産の内金だな、この男は島から来たんだ……しかし、だったらどうして黒人じゃないんだ?」そして鞄を指しながら男に合図した。
「中身は知っている。そこに置いてくれ。どうも」
男は国立銀行の者だった。ロドルフに促されたので、小難しい署名や色つきの数字が書かれた紙切れを目の前に差し出した。
「受領証が欲しいのか、それもそうだな。テーブルのペンとインクを取ってくれ」ロドルフは言った。
「いや、わたしは150フランいただくために来たのです。今日は4月15日ですから」集金人が答えた。
ロドルフは請求書を確かめた……「ああ!……ビルマン宛、ぼくの仕立屋じゃないか……なんだ!」ベッドの上に打ち捨ててあるフロックコートと請求書を代わる代わる見やりながら、憂鬱そうに言った。「原因は去ったのに、結果だけ戻ってきた。何と!今日は4月15日だって?おかしい!ぼくはまだ春苺を食べてないぞ!」
ぐうたら具合に呆れた集金人は、去り際にロドルフに告げた。
「支払いは4時までですからね」
「まともな人間には時間なんかないよ。策略家め!」ロドルフは鞄を抱えて帰る三色帽子の取り立て屋を忌々しげに目で追いながら答えた。
ロドルフはベッドのカーテンを閉め、再び遺産相続の道を辿ろうとした。だが道を間違え、もっと思い上がった夢に入りこんだ。フランス座の支配人が帽子を脱いで、上演用の芝居を書いてくれと頼みに来たので、しきたりを知るロドルフは手付金を求めた。ところが、支配人が払いそうな素振を見せた瞬間、新たな人物が部屋に入ってきて、また寝ぼけまなこになった。4月15日の別の手下だ。
それはブノワ氏だった、ロドルフの住む貸家の管理人だが、それに相応しい人物ではなかった。ブノワ氏は大家で、靴屋で、下宿人に高利貸もしていた。この朝は安いブランデーと支払日の領収書でひどい臭いを発していた。手には空の袋を下げていた。
「こいつ!……フランス座の支配人なんかじゃない……白ネクタイをして……袋は一杯のはずだ!」
「おはようございます、ロドルフさん!」ブノワ氏はベッドに近づいて言った。
「ブノワさん……おはようございます!あなたにおいでいただくなんて、どういったご用件ですか?」
「いや、わたしは今日が4月15日だと言いに来たのです」
「いつの間に!時が経つのは早いですね!とんでもないことです。南京木綿のズボンを買っておくべきでしょうか。4月15日!ああ、何ということだ!あなたが来なければ考えもしませんでしたよ、ブノワさん。どれほどお礼を申さねばならないことか!」
「ついでに162フランも支払ってもらわないと。些細な額を清算すべきときです」ブノワ氏が答えた。
「ぼくは全く急ぎじゃありませんよ……遠慮しないでください、ブノワさん。時間を差し上げましょう……些細な額が大きくなるまで……」
「だがね、貴方はもう何度も先延ばししてるんですよ」大家は言った。
「なら清算しましょう、片づけましょう、ブノワさん。ぼくはいつでもいいんです、今日でも明日でも……みな限りある命ですから……清算しましょう」
大家の皺だらけの顔が朗らかな笑みで明るくなった。空の袋までもが期待で膨らまずにはいられなかった。
「借りは幾らですか?」ロドルフは訊ねた。
「まず25フランの家賃3ヶ月ぶんで75フラン」
「ごもっとも。それから?」
「一足20フランの長靴が3足」
「待ってください、ちょっと、ブノワさん、混ぜこぜは駄目ですよ。大家と話すんじゃなくて、靴屋と話すことになる……勘定は分けてください。数字は大事です、ぼかしちゃいけない」
請求書の下段に受領と書きこめると期待したブノワ氏は態度を和らげた。「でしたら、これが靴だけの勘定です。一足20フランの長靴が3足で60フラン」
ロドルフはくたびれた長靴の一足に哀れみの目を投げかけた。
「ああ!これほどひどくなかったならさまよえるユダヤ人に使ってもらえるんだが。でもマリーを追っかけていたらこんなふうにぼろぼろになるだろうな……〔マリーはウジェーヌ・シューの小説『さまよえるユダヤ人』の登場人物〕」ロドルフは思った。「続けてください……ブノワさん……」
「60フランだと言いましたよね。それから、お貸ししたのが27フランです」
「止まってください、ブノワさん。それぞれの聖人に収まるべき壁龕がある、そうでしょう。お金を貸してくださったのは友人としてですよね。だから、よろしければ靴屋の領分は終わりにして、信頼と友情の領分に入りましょう、勘定は分けないと。友情は幾らなんですか?」
「27フランです」
「27フランですか。安上がりな友人ですね、ブノワさん。さて、確認しましょう、75フラン、60フラン、27フラン……すべて足すと?」
「162フランです」ブノワ氏は3枚の請求書を見せて言った。
「162フラン……とてつもないですね。足し算ほど素晴らしいものはない!さて!ブノワさん、勘定が決まったなら、お互い安心できますね、どうすればよいか分かったんですから。来月になったら、ぼくのほうからあなたに入金をお願いしますよ、その間、ぼくに対するあなたの信頼と友情は増すばかり、必要ならもっと延ばしてもらっても構いません。もっとも、大家と靴屋が急いでいるようでしたら、友人が説得してください。ものすごいことですよ、ブノワさん。大家、靴屋、友人という三重人格を考えると、三位一体説を信じたくもなります」
ロドルフの言うことを聞きながら、家主の赤、緑、黄、白と次々に顔色を変えた。下宿人が新たな冗談を言うたびに虹色の怒りがますます深く顔を染めていった。
「あなた、からかわないでくださいよ。わたしは長いこと待ってるんです。出て行ってもらいますよ、今晩じゅうに家賃を払えないなら……わたしがすべきだったことをするまでです」
「金!金!ぼくがあなたに金を払えなんて言ったことがありますか?それに金があったってあなたには払いませんよ……金曜日は嫌なことが起こる日だ」
ブノワ氏は怒り狂いそうだった。部屋の家具が自分のものでなかったらソファの脚を何本か折っていただろう。
それでもどうにか部屋を出て行った、脅し文句を口にしながら。
「袋をお忘れですよ!」ロドルフが大声で呼びかけた。
ひとりになると、不幸な若者は呟いた。「何という役回りだ!猛獣使いのほうがまだましだ」
ロドルフは気を取り直し、ベッドから飛び出すと急いで服を着た。「でも、ここにはいられない。同盟軍の侵略が続くだろう。逃げなくては、それに昼食をとらなくては。そうだ、ショナールに会いに行こう。奢ってもらって、少し金も借りよう。100フランあれば充分……いざショナール宅へ」
ロドルフが階段を下っているとブノワ氏に遭遇した、工藝品のような空袋から察するに、また家賃を取りっぱぐれたらしい。
「ぼくを訪ねてくるひとがいたら、田舎にいると伝えてください……アルプスとか……もしくは、いない、ここにはもう住んでいない、と」ロドルフは言った。
「本当のことを言いますよ」ブノワ氏はいかにも思わせぶりな響きを込めて囁いた。
ショナールはモンマルトルに住んでいた。パリを突っ切らねばならない。ロドルフにとって最も危険な大遠征だ。
「今日はどの道にも取り立て屋がうようよいるからな」そう呟いた。
ところが、外周道路を通ろうと思ったのに、やめてしまった。逆に、変な期待感から、パリの真ん中の危険な道を行くことにしたのだ。ロドルフの考えはこうだ、集金人たちに背負われて何百万もの金が街中を動き回るような日には、聖ヴァンサン・ド・ポール〔慈善活動に尽くした17世紀の司祭。パリに祀られている〕に供されるべく、道端に千フラン札が落ちていたっておかしくはあるまい。だからロドルフは地面に目を凝らしてゆっくり歩いた。しかし見つかったのはピン2本だけだった。
ショナールの家まで2時間かかった。
「ああ!君か」ショナールは言った。
「やあ、昼飯をいただこうと思って」
「ああ、君、間が悪いな。彼女が来たところなんだ、2週間ぶりでね。もう10分でも早く来てくれていたら……」
「それなら100フランほど貸してくれないか?」ロドルフは言った。
「おい!君もか……金を請求しに来るとは!敵に回ったな!」ショナールはすっかり驚いて答えた。
「月曜日に返すよ」
「もしくは三位一体の日か〔「復活祭か、三位一体の日か」という定型句、永遠に返ってこないことをいう。スペイン継承戦争を歌った「マールボロは戦争に行った」という民謡から〕。今日が何の日だか忘れたのか?何もあげられないよ。でも絶望することはない、一日は終わっていない。まだ救いの女神に会える、午前中は起きないという話だからな」
「ああ!救いの女神は小鳥の世話で忙しいよ。マルセルのところへ行ってみる」
当時マルセルはブレダ通りに住んでいた。ロドルフが訪ねると、紅海渡渉を描くはずの大きな画布の前で、悄然と物思いに沈んでいた。
「どうした?ずいぶん苦しそうだな」ロドルフは部屋に入るなり訊ねた。
「ああ!聖週間〔イエスのイスラエル入城から復活までの受難を記念する一週間〕を2週間もやってるんだ」画家は寓意で答えた。
この答えはロドルフにとって渓流のように透きとおっていた。
「塩漬ニシンと黒大根か!分かるよ。ぼくも思い出す」
実際、ロドルフはこの魚しか食べずに引き籠っていた時期のことを覚えていた、いまだに塩辛い記憶だ。
「ひどいもんだ!やれやれ、大変だな!ぼくは100フラン借りようと思って来たんだが」
「100フラン!……君はいつも夢を描いてるんだな。赤貧の灼熱地帯にいるひとのところへ御伽話みたいな金額を求めに来るなんて!大麻でも吸ってるんじゃ……」
「何だって!ぼくは何も吸ってないよ」
ロドルフは友人を紅海のほとりに残して去った。
正午から4時まで、ロドルフはあちこち知り合いの家を回った。48区を全て巡り、8里ほど歩き回ったが、何の成果もなかった。4月15日なるものの影響は、どこでも等しく厳しいのだ。そうこうしているうちに夕食の時間が迫ってきた。といって、夕食が時間どおりに近づいてきているとも思えず、ロドルフはメデューズ号の筏〔1816年、軍艦メデューズ号が座礁し、乗組員は救出されるまで13日間筏で漂流した。ジェリコの絵で有名〕に乗っているような気がしてきた。
ポン・ヌフを渡っていると、突然ある考えが浮かんだ。
「おお!そうだ!4月15日、4月15日……今日の夕食の招待券がある」そう言って踵を返した。
ポケットを探って取り出した券には、こう書かれていた。
ラ・ヴィエット市門
大勝利者亭
300席の大広間
人類の救世主 生誕祝賀会
184…年4月15日
一名様のみ有効
注意:ワインは小瓶一本まで
「救世主の信徒たちと教義を分かち合う気はないが……食事は喜んで分かち合おう」ロドルフは小鳥のような速さで遠くの市門へと急いだ。
大勝利者亭のホールに着くと、大変な混みようだった……300席のホールに500人が詰めかけていた。ロドルフの目には、どこまでも子牛と人参が広がっているように見えた。
ようやくスープが出された。
一同がスプーンを口に運んだとき、警視を先頭に私服警官が5人か6人、そして大勢の警官が会場に入ってきた。
警視は言った。「皆さん、当局の命令により、この宴会は中止となりました。どうぞお帰りください」
ロドルフも皆と一緒に退出した。「ああ!何と!スープをひっくり返されるなんて、ついてないな!」
とぼとぼと家路に就き、夜11時ごろ帰宅した。
ブノワ氏が待ちかまえていた。
「ああ!あなたですか。わたしが今朝言ったことを考えてくれましたか?お金を持ってきましたね?」家主は言った。
「今晩受け取ることになってるんです。明日の朝お渡しします」ロドルフは答え、箱から鍵と燭台を取り出そうとした。だが何もなかった。
「ロドルフさん、わたしは怒り心頭なんですよ、でもね、もうあなたの部屋は貸してしまいました、ほかの空き部屋もありません。他所をあたってください」
ロドルフは鷹揚だった、一晩くらい星空の下で過ごすのに何の不安もなかった。それに天気が悪ければオデオン座の前桟敷で寝ることもできた、すでに何度かあったことだ。ただ私物を取りたいとブノワ氏に頼んだ、といって大半は紙切れの束なのだが。
「よろしい、それを止める権利まではありません、書棚に置いたままですよ。一緒に行きましょう。新しく借りたひとがまだ寝ていなければ入れてもらえるでしょう」
部屋は昼のうちにミミという若い女性に貸されていた、かつてロドルフと愛の語らいを始めたことがある相手だった。
ふたりはすぐさま互いに気づいた。ロドルフはミミの耳元で囁き、優しく手を握った。
そして突然の雷雨を指して言った。「なんて雨だ!」
ミミ嬢は部屋の隅で待っていたブノワ氏のところへ真っすぐ進み出て、ロドルフを指しながら言った。
「大家さん……この方は今夜わたしが待っていたひとです……これで戸締りも安心です」
「ほう!それは結構なことで!」ブノワ氏は顔をしかめて言った。
ミミ嬢が急いであり合わせの食事を用意していると、真夜中の鐘が鳴った。
「ああ!4月15日が終わった、嵐の岬を回りきったな」そして娘を腕に抱きよせ、うなじに口づけして言った。「ミミ、君ならぼくを玄関に放り出しておくなんてできなかっただろうね、もてなしの心を持っているから」
(訳:加藤一輝/近藤梓)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?