サント=ブーヴ「ロドルフ・テプフェール」

【原典:« Poètes et Romanciers modernes de la France : LXIII M. Rodolphe Töpffer » dans Revue des Deux Mondes, n. 25, 1841】
【サント=ブーヴによるロドルフ・テプフェールの評伝です。初出は『両世界評論』1841年5月15日号です。サント=ブーヴがテプフェールを知ったのはグザヴィエ・ド・メーストルの紹介によるもので、その経緯は同じくサント=ブーヴによるグザヴィエの評伝の末尾に書かれています。日本ではテプフェールはコマ割マンガの始祖として注目されていますが、フランス語圏ではアルプスの地域性を生かした短編小説や紀行文の作家としても評価されており、とくにサント=ブーヴの場合はフランス人でないフランス語作家であることにグザヴィエとの共通性を見出しているのが伺えます。()は原文にあるもの、〔〕は訳註、太字は原文にある強調です】

彼はジュネーヴ出身だが、フランス語で書く、由緒正しい正統なフランス語だ、フランスの小説家といわれるかもしれない。現在パリでは模造版が出まわっている(シャルパンティエから『ジュネーヴ短編集』という表題で刊行)、合意による少部数の模造だが、いわゆる著作権法とは関係なく、また正直にいってわたしも法律のことは全く分からない。グザヴィエ・ド・メーストル氏が2年前にパリへ立ち寄った折、テプフェール氏のことを匂わせ、仄めかした、といって当時まったく知られていなかったわけではない、スイスを訪ねたとき素描による機知に富んだ面白い画集を偶然めくってみたひともいたからだ。しかしメーストル氏は、文筆家や小説家として紹介してくれた。目利きの出版者に、また『アオスタ市の癩病者』や『コーカサスの捕虜たち』のようなものをと頼まれて、代わりにテプフェールを勧めたのだ〔詳しくは出版者への手紙を参照のこと〕。それで今日ここに見本刷がある。現代小説に飽き飽きした読者にも、2週間のシャモニー遊山のような息抜きとして、売れてほしいものだ。

このジュネーヴの作家の最も素晴らしい作品は、読み進めるごとに、息詰まる生活から逃れた、清涼な山の空気を感じさせてくれた。心地よく健康的な香りが、人工物や虚飾に侵されていない自然のよさを持つ果実とともに、味覚を取り戻させてくれた。凝りすぎて病的なフランスの本とは真逆の模範だと思った。しかし気をつけよう!駄弁はよくない。堕落した文学界に『ジュネーヴ短編集』を刊行し紹介するとき、タキトゥスが『ゲルマン人の習俗』〔『ゲルマニア』のこと。当時の頽廃したローマ人に対し、ゲルマン人を高貴な部族として称揚した〕に施したような装いをさせたら、何より作品を危険にさらすことになる。だから、よろしければ、とりとめのない雑記、少しばかりの味つけ程度に読んでもらいたい。

われわれのように自国のことしか考えないような者にとって、フランス人でないのにフランス語で書く作家というのは、考えもしない奇妙な境遇だ、われわれは生来の権利として、乳母や先祖から受け継いだものとしてフランス語で書いている。フランス語圏スイス全体が、そのような境遇にある。もとはロマンス語圏の国で、中世には中間言語を取り入れて自由になり、そして16世紀には、当時それなりに活発だった宗教論争において、われわれと同じくらい声が通るようになった。この小さな国は、わが国から分離したわけではなく、古来より言葉によって重要な地位を保っており、やや特異な、独自の、大切に育まれてきた、確固たる風俗慣習に見合うフランス語を持っていた。われわれから学んだものではなく、もしその響きが耳に入ったら、残念ながらあなたのフランス語は下手ですねと言わざるをえない。違う単語、違う語調を聞くたびに、こちらのほうが偉いと思っているわれわれは、尊大に肩をすくめて見せる。不当なことだ。権利の甚だしい濫用である。隣り合う者どうしの大きいほうが小さいほうを威圧する。フランスこそ唯一の中心だという振舞をする。本当のところ、最近そうなっただけなのに。

16世紀、豊かで力強い分散の時代には、そうでなかった。カルヴァン、アンリ・エティエンヌ、〔テオドール・ド・〕ベーズ、〔アグリッパ・〕ドービニェといった、ジュネーヴに集い、その地に深く馴染んだ偉大な雄弁家たちに比肩しうる者は、ほとんどいなかった。しかし17世紀は、ルイ14世とヴェルサイユのフランス語を作り上げ、それが片田舎のフランス語、よく言えば市場や学生街の俗語にもなってゆく過程で、宗教改革派であるスイスのフランス語を生きた輝かしいフランス語圏の外に追いやったため、スイスのフランス語はしだいに孤立し、レマン湖畔に閉じ込められ、その中でも分裂を続けて、すっかりばらばらになったのだ。だからジュネーヴ言葉はローザンヌ言葉やヌーシャルテル言葉とは違うし、小さな州それぞれの文学も同様に根本的な特徴が異なっており、ほとんど対照的である。とはいえ、いずれも基底や始祖を探ってみれば、ヴェルサイユ庭園の緑の絨毯という地ならし機がまだ通っていない、自由に広々と茂った草原のような16世紀、この言い回しは別のところでも使ったように思うが、そのはっきりとした痕跡を言葉づかいのうちに見いだせる。この豊かな痕跡は、その地で再発見できる興味深いものであり、その地を香しくする花のようでありながら、文学に使われたことはほとんどなく、地元の作家たちもほとんど使いこなせていない。テプフェール氏は花から花へと集め回った、量だけでなく質もよい、だから(かの地では珍しく)美しい文体となっているのだ、それを見てゆこう。

スイスに留まりながら、フランスで聞かれるような、フランスで要求されるようなフランス語で書く、というスイスのフランス語作家の困難を、よく想像してみてほしい。たとえばジュネーヴ生まれだったとしても、そうでないように、単なる一地方の出身者であるかのように振舞わないといけない、完全にパリ言葉でなければならない、身の回りからも思い出からも地域色のあるものを汲んではいけない。しかしジュネーヴは一地方ではない、れっきとした祖国であり、独特の根強い風習を持つ都市である。簡単には離れられないし、離れてはならないだろう。歴史の根は深いのだ。土地の景色は魅力的であり、進んで籠りたくなるようなところだ、そしてレマン湖がこだまを返してくれる。

ジュネーヴやヴォーのレマン湖のほとりで、どれほど多くの詩情ある若者が、外には声の漏れない平穏だが窮屈な場所で、甘美だが崇高な景色を前に、幸福と美徳の只中で、すべてを祝福しながら、たびたび息の詰まるような思いをしてきたことか!自分のために、神のために、身近なひとのために歌うが、大いなる祖国はなく、盛大で高慢で軽薄なアテネの耳には何も届かない。わたしは、いま述べたような気高い詩人によって、ある晩その湖畔の最も美しい場所で書かれ、しばらく前に出版された詩の中に、穏やかな諦観と優しさによって、こうした感情が表現されているのを見つけた、よく響く岩々の間をめぐったが、フランスでは読まれたことのない詩だ。

けれども、おおわが祖国よ、山の国よ、
細石の岸辺に青い湖の眠る国よ、
かつて野原を飛び回った妖精も、
暖炉の片隅に隠れていた天使も、
言葉を理解できた者も、
雲の覆いを見通せた者も、
わたしほどにはお前を愛さなかった、自由で自然な、
しかし月桂樹が育つこともない国を。

わたしは見た、栄光の樹の小枝が何本か
力いっぱい果敢に枝を伸ばして
記憶を持たない波、本当にそうなのだ、
モントルーを圧倒するヴォーのレマン湖の波に身を乗り出しているのを。
けれども何だか分からぬ風が嵐を呼び、
アーヴェル山やジャマン峠の頂に雷が落ち、
月桂樹は悲しくも梢を曲げ、
美しい湖が涙をこぼした。

(ジュスト・オリヴィエ、カロリーヌ・オリヴィエ『ふたつの声』〔Juste et Caroline Olivier, Les deux Voix〕)

実際、見事な自然に囲まれた涼しいレマン湖に栄光のようなものはない、だが詩というのはどこであれ、その土地で生まれた詩でさえも、栄光という些か人工的な太陽が必要なのだ、それがなくとも詩の果実は熟れるが、充分に輝くことはない。

もっとも、フランスでは三つの小さな州といってわざわざ一緒くたにしているが、その中では最も重要であるジュネーヴに注目するのは、全く難しいことではなかろう。間違いなくヨーロッパにおける出会いと往来の場所であり、おのずと名士たちの舞台である。それに、確かにジュネーヴは小さな州だが、偉大な都市であり、優れた〔ジャン・〕セネビエが『文学史』の中で誇りをもって書いたように、世界で最も輝かしい学派のひとつなのだ〔Jean Senebier, Histoire littéraire de Genève〕。その三巻本の歴史書は1786年で終わっており、18世紀末の濃密な期間については書かれていないが、どうかそれを読んで、有名かつ尊敬すべき人士たちを見つけてほしい!神学、公法、科学、哲学、文献学、倫理、あらゆる分野において、細そうな幹とは不釣合いに見えるほど見事な枝に実をつけている。一本だけでひとつの果樹園となっている梨の小木なのだ。実際、〔ガブリエル・〕クラメール、〔ジャン=ルイ・〕カランドリニ、〔ジャン=ジャック・〕ビュルラマキ、〔アブラハム・〕トランブレー、〔シャルル・〕ボネ、〔オラス=ベネディクト・ド・〕ソシュールの祖国は、最も強大な国々にも劣らない、そうした出身者たちに加えて、乳母や養母としても多くの者を育み、あるときは聖人としてカルヴァンを、あるときは賢人として〔ファーミン・〕アボジットを擁してきたのだから猶更だ。ジュネーヴでは、都会的かつ家庭的な気質ゆえ、ゴドフロワ家やルクレール家、ピクテ家といった、勤勉で尊敬すべき学者の家系や一族が生まれ、早くから交流が行なわれており、顕彰されるのではなく、慎ましく目立たぬよう匿われ守られることによって、不朽の名声を得てきた。ジュネーヴは、堅実で影響力のある優れた人物を世界に送り出し、いわば世界に与えてくれた国である。一世紀のうちに、イギリスに〔ジャン=ルイ・〕ドロルムを、ロシアに〔フランソワ・〕ルフォールを、フランスにネッケルを、そして世界にジャン=ジャック〔・ルソー〕を与え、さらには〔テオドール・〕トロンシャン、エティエンヌ・デュモン、ほかにも多くの人物を送り出すと同時に、いつの時代も様々な国から数々の傑出した人物を受け入れて住まわせてきた。ところが、これほど豊かでありながら、ジュネーヴの文学史を見てみると、そこだけがほぼ不作であり、セネビエによる一覧や、あとを補う記憶の中にも、ジャン=ジャックを除いて、有名な小説家や偉大な詩人はひとりも見あたらないのだ。

藝術、あるいは少なくとも実用美術のほうが、まだ栄えている。琺瑯絵師として名高いジャン・プティトは、17世紀を代表する作品のうちに立派な位置を占めている。もっとも、ジュネーヴ的な美術とは、一般的にいって、どちらかといえば物持ちのする実用的な製品といった性格だ。利便性と分かちがたく結びついた藝術であり、藝術家といってもほぼ職人である。

つまりジュネーヴの文化には、まさしく詩や文学にとって誇りとなるような、娯楽のための軽やかさが欠けている。それはセネビエ自身も認識しており、理由を知りたがっている。「多くのジュネーヴの作家は、自分の考えを思いつき詳述するには長けているが、生彩に乏しく、鈍重な文体である。こうした欠点は、自由であるという感覚から来る生真面目さや思慮深さ、政治的に重要なことを話したがる性向のためではないか?……」(ついでに言えば、これ自体が、そうした重々しさの一例になっている)ジュネーヴの作家たちが、文体を意識している者でさえ、自身の言語で書いていても、座り心地のよさを十全に感じていないからだと、わたしには思われる。この言語の本当の広がり、本当の水位は、いくら流動的といっても、レマン湖畔には達していない、セーヌ河岸までだ。それを充分に自覚して彼らが遠くからここまで来ようと努力し奮闘しているのは分かる。ジャン=ジャックでさえ、ヴォルテールと比べれば、不自然なのだ。何度も自作に手を入れている。けれども、作為が見えすぎてしまうのは、たとえばネッケル氏のような、優れてはいるが二流の作家に特有のことだ。文章を推敲しすぎ、一言一句にこだわりすぎ、よくできすぎている。喋っているのを聞くと、書き言葉のように話している。クインティリアヌスがテオプラストスについて言うには、彼はあまりに雄弁なので、ある言葉を使ったとき、すぐさまアテナイの老女に外国人だと言われたそうだ。「どうして分かったのか?」と訊かれると、老女はこう答えた。「あまりに上手く喋るからだ、あまりにアテナイ的に喋ったのだ〔quod nimium atticè loqueretur.〕」〔『弁論家の教育』第8巻第1章〕

テプフェール氏は、あとで見るとおり、そのような困難を自らに課してはいないようだ、だからこそ困難を上手く克服しているのだろう。彼はフランス人やアテナイ人になろうとせず、愛をもって、素直に、些か田舎っぽく、自らの技巧を秘めたまま、祖国に属していた、それが偶々フランス人にとっての塩気や風味となったのだ。

もっとも、知っておかなければならないことだが、すべてが変化している。ジュネーヴは不相応なほどに変わりつつあり、古い習慣や独自性を失いつつある。われわれもまた変化している、フランスが魅力の中心であるかは甚だ不鮮明となり、絶対的でなくなっているようだ。17世紀は鳴りを潜め、再び16世紀めいてくる。各々が自らの長所を見つけ、特性を持つ。分類は保たれなくなり、あちこちで例外が割って入ってくる。ジュネーヴの小説家に注目せねばならないというのは、驚くべきことなのか?最も官能的なフランスの彫刻家プラディエは、ジュネーヴ生まれではないか?最もイタリア的なフランスの画家レオポール・ロベールはヌーシャルテルの出身だ。

その土地について、全体的な特徴なり現代文学では考えられないほど多くの産物なりを、間近から多少なりとも注意深く眺めてみれば、あらゆる点で詩的かつ小説的な、まさしく文学的なジュネーヴが、50年前から、重要度も知名度もはるかに劣る、田舎っぽい、しかし文学的なことに関してはもっと趣のある隣のヴォー州よりも、どれほど下位に留まっているか、気づかされるに違いない。

テプフェール氏はわれわれに見事な反例を見せてくれる、単にジュネーヴ出身であるだけで他の国のことを書いている小説家ではなく、地元の小説家であり、本当に地域に根差しているからこそ素晴らしいのだ。だから、以前〔イザベル・ド・〕シャリエール女史について見たのと同じように、もう少し掘り下げてみよう。

ロドルフ・テプフェール氏はジュネーヴで1799年2月17日に生まれた、土地の言葉でいえばここのそとせあまりここのとせだ〔フランス語では99をquatre-vingt-dix-neuf(4×20+10+9)と表わすが、スイスのフランス語ではnonante-neuf(90+9)という〕。その何年か前から1828年にかけて、ジュネーヴやローザンヌではロマン派の世代が活躍しており、ジュネーヴにはふたりの詩人オリヴィエ〔先の引用にあるジュスト・オリヴィエとカロリーヌ・オリヴィエ夫妻のこと〕、そしてジュネーヴからパリへ来て亡くなった〔ジャック=〕アンベール・ガロワと、イタリアへのグランドツアーに出たシャルル・ディディエ氏がいる。テプフェール氏の両親は苗字のとおりドイツ系で、その痕跡を息子の素朴で情緒的な性格のうちに見出すこともできよう。しかしジュネーヴには、他国に併合されると素早く心から同化するという特性があるようだ。小さいが強力な集積地であり、併合されるや否や同化がはじまる。言語において、こうした混淆の効果は今でもはっきりと感じられ、あらゆる文体が絶えず広められ互いに弱めあっているため、表面的には些か均質な、正確に言えば悪い意味でごた混ぜの文体となっているように思われる。

しかし若きテプフェールは、元来まさしくジュネーヴ市の、由緒ある始祖の子どもだったようだ。山手に生まれ、サン=ピエール大聖堂の裏、司教館監獄〔世俗の司法とは別の、教権による監獄のこと〕の近くに住んでおり、このフランス証券取引所と呼ばれる家を舞台に書かれた『ジュールの物語』という魅力的な作品では、彼の最初の思い出、アカシアの枝葉ごしに大聖堂の尖塔や向かいの監獄や静かな通りを眺めたという窓辺の夢想が語られている。彼の父は今も存命で、機知に富んだ尊敬すべき画家であり、パリの古株の藝術家たちにも知られている。この優れた父親は、経験によって見識を積み、自ら獲得した教養を早くから息子に伝えようと考えたが、幼い息子がほとんど藝術にしか興味を示さないために手こずることとなった。実際、息子は画家を自任し、すぐにでも学びはじめようとした。それは父も分かっていたが、画業に専念する前に学業をひととおり終わらせるよう命じた。ゆえに若きロドルフは18歳まで勉強を続けたが、ジュールのように、それでも本に挟まれながらたくさん絵を描き、しばしば窓辺で物思いに耽った。『伯父の書棚』の冒頭を飾る散歩についての章は、楽しげに語られるとおり、青年時代の最も重要な出来事についての、きわめて忠実な物語である。「そう、散歩とは、少なくとも人生で一度はすべきもの、とりわけ18歳で学校を卒業するときにすべきものだ……学生時代のひと夏をまるごと費やしても長すぎるとは思わない。それどころか、立派な人物になるにはひと夏では足りないだろう。ソクラテスは何年も放浪していた。ルソーは40歳になるまで。ラ・フォンテーヌは一生だ」さまざまな証拠から、ジュールは感受性や心持ちにおいて、ただし色恋は別だが、まさしく若かりし頃のロドルフと言ってよかろう。

彼の初期の読書経験、まだ心が充分に柔らかいときに読んだものは、『牧師館』のジュール・ル・シャルルとともに、著作のうちにも見て取れる。誰にとってもそうであるように、最初は〔ジャン=ピエール・クラリス・ド・〕フロリアンだ、フロリアンは自身の仏訳が『ドン・キホーテ』の魅力を削いでいると思っていたが、それでも辛辣な諧謔を呼び覚まし楽しませるものだった。続いて『テレマック〔の冒険〕』とウェルギリウスが同じ時期に郷土愛や山紫水明の素朴な魅力を教えた。たまたま手にしたホガースの作品は「よい弟子と悪い弟子」〔ホガース「勤勉と怠惰」のこと〕の物語を展開してみせ、この人間研究家が奮迅と額に皺を寄せて描く罪と徳についての表現は、子どもが何より好きな混乱まじりの魅力というものを教えてくれたという。それからというもの、いつの日かそんなふうに版画による文学という豊かな表現によって大衆の感情や道徳に役立てるようになることが、ひそかな願い、野望となった。彼に人間観察の面白さを教えたのも、のちに彼の中でホガースと並び立つようになるシェイクスピアを愛読するよう導いたのも、そしてリチャードソンやフィールディングといったイギリスの偉大な人間研究家や小説家たちの虜にさせたのも、ホガースであった。当時は『アタラ』が流行だったが、『ポールとヴィルジニー』を知って以来、(スタール夫人など多くの同時代人とは逆に)シャトーブリアンを好きになることはなかった。ここにはすでに彼の性向が見いだせる。自然、道徳、素朴さ、繊細さ、率直さ、こうしたもののほうが、詩的で偉大な理想よりも大事なのだ。

とはいえジャン=ジャックからの感化も大きく、16歳から20歳という時期に、情念というものの性格すべてを彼の魂に植えつけた。ルソーの著作だけでなく人間そのものが、この若い同邦人に影響を与えたのだ。風景、習俗、生き生きと迫ってくる描写が、夢想を誘った。テプフェール氏が「2年か3年の間は、他の誰とも生きなかった」と書くのも尤もである。正確に言うと、それはジュリーのルソーであり〔『新エロイーズ』のこと〕、山歩きやサクランボ摘みといった『告白』のはじめを彩る数々の心地よいページのルソーであり、シャルメットのルソーである。

そのほかにも、意図していないだけにいっそう幸福な影響を挙げるとすれば、ブラントーム〔ブラントーム修道院長ピエール・ド・ブルデイユのこと〕、〔ピエール・〕ベール(ジュールが(『ジュールの物語』第一部で)エロイーズの物語を見つけたのは他ならぬベールの辞書である)、モンテーニュ、ラブレーといった、父の部屋のあちこちから拾い読みした本、行き当たりばったりに眺め、充分に理解できなかったものの、文彩や、フェヌロンすら羨む平明さにすっかり魅せられた本、そうした読書経験を鑑みれば、テプフェール氏の来歴がいかに正真正銘フランス的であるか、どれほどフランスの作家といってよいか、お分かりになるだろう。

父の望んだ学校教育を終え、憧れの職に就くときが来た。絵画が門戸を開き、進むべき地平を眼前に広げると、若者は写生や素描や模写に励んだ。彼は近々イタリアへ行くつもりでいたが、目の病気で中止となり、はじめは一時的な疾患と思われたが治らないため更なる延期となった。むなしい希望と苦しい試みが2年つづいた。とても楽しみにしていた者にとって、残酷な2年間だった。絵画は決定的に彼のもとを去った。この頃、藝術家の教えを乞いに行くという口実で、しかし実際には勉強で不安を紛らわすため、パリへ赴き、そこでは誰に助言を求めるでもなく、ひっそりと涙ながらに画業を諦め、再び文学に戻って、教養ある教育者を目指した。パリ滞在は1819年から1820年にかけてである。昼は公開講座を聴き、夜は〔フランソワ=ジョゼフ・〕タルマを聴きに行った。それからは古典と近代文学を学ぶこととなった。すでにシェイクスピアのとなっていた彼は、新たに現われつつあった文学概念に心の中で賛同していた。ルーヴル美術館で、ひそかにジェリコの「メデューズ号の筏」を支持し、〔アンヌ=ルイ・〕ジロデの「ピグマリオンとガラテア」には反対だった。いささか熱っぽい危機の時期は、すぐに終わった。ジュネーヴに戻ると、まずは寄宿学校の助教員となり、次いで自ら寄宿学校を開いて校長となり、一家の父となり、ついには文学アカデミーに招かれて会員となり、幸せで満ち足りた、レマン湖の静けさと一致したかのような人生の只中にあった、そこから少しずつ衒いのないさまざまな著作が匿名で生まれてきて、ひとつならずわれわれを楽しませたのだ。

ジュネーヴでは、寄宿学校生は家族のように人生や道徳を共有する。多くの子どもたちのいる教室で毎日何時間も過ごすという職業柄、テプフェール氏は絵筆でできなかったことをペンで埋め合わせるようになっていった。そもそも作家になるつもりではなかったのだ。生徒たちに愛される親しみやすい先生になるべく、はじめに描いたのは生徒の気晴らしになるささやかな喜劇だ。毎年、夏になると、少年団の先頭に立ち、夏休みを利用して、リュックサックを背負い、長く険しい徒歩旅行で、いくつもの州を踏破し、高い山々を越えてアルプスのイタリア側まで生徒を連れて行った。旅から戻ると、冬の夕べ、生徒たちに挿絵つきの詳細な旅行記を書いてやった。すでに公刊されているいくつかの小説、『アンテルヌ峠』や『トリエン渓谷』は、ウォルター・スコットのモートン一家〔『古老Old Mortality』の主人公ヘンリー・モートンとその家族のこと〕のように、大人向け『サンドフォードとマートンの物語』〔トーマス・デイによる児童向け冒険小説〕としての効果、謙虚な自信と生来の繊細さを持つ健全で気品ある若々しさを与えてくれるように思う。

もっとも、完全に画業を諦められたわけではなかった。絵具で描こうと思っていたことのうち、ある程度は線でも描けた。上機嫌のとき、テプフェール氏は生徒たちの前で、わずかに真面目なところも混ざった突飛な物語を考え、絵に描いた(『ヴィユ=ボワ氏』『ジャボ氏』『フェステュス博士』『ペンシル氏』『クレパン氏』)。この滑稽な画集は手から手へと渡り、ヴァイマールまで届くと、誰かは分からないがある友人がゲーテに見せた。人間の作るものは何であれ軽んじない、この偉大なる藝術家は、画集に興味を示し、他の作品も見たがった。全ての画集が列をなしてヴァイマールへ向かった。ゲーテは『藝術と古代』誌のある号で画集に触れている。そこで、この大家からのお墨つきがあれば皆が納得するだろうとテプフェール氏は考え、暇を見ては作品を増刷した。彼の出版した5作(オベール氏がパリで3作を複製しているが、そこから判断してはならない)は素人にも玄人にもよく売れたが、見ていないひとに説明することはできない。この種の諧謔は言葉ではほとんど伝わらないのだ。称える方法はただひとつ、楽しみ笑うことである。

誰が最初に言ったか知らないが、一般則として、ある国の笑いはその国で好まれる食べものや飲みものに似ている。だからスウィフトの笑いはプディングであり、テオフィロ・フォレンゴの笑いはマカロニ、ヴォルテールの笑いはシャンパンである。ヴォルテールはモカにも似ているだろう。ドイツ人はヨハン=パウル〔・フリードリヒ・リヒター〕の料理に名前をつけられるだろう。〔ガブリエル・〕ノーデの『マスキュラ』を何度も読むと、上質の脂身で和えられた古代ガリア料理に溺れているような、あるいはあまりに上等なニシンの燻製にときどきうんざりしたような気分になる。それでわたしは、テプフェール氏の転写石板にちりばめられた、また文学作品を見てもいくつもの章に上手く配分されている諧謔に相当する郷土料理を探した。まずは高地の渓谷の濃厚で混じりけのないチーズをいくつか思い出して味見したが、違うようだった。さらに探した。確かなことは、彼の面白さは彼のもの、まさしく彼自身のもの、学者ふうに言えば独自性〔sui generis〕であるということだ。

以下の銘句は、諷刺画による数々の短い正劇すべての序文として用いることができる。「行け、小さな本よ、自分の世界を選び取れ。おかしなことを見て、笑わない者は欠伸する、身を任せない者は抵抗する、考える者は間違える、真面目でいたい者は押さえつけるからだ」〔『フェステュス博士』序文からの引用〕ただわたしは、理屈ではなく、ここでは自らの感覚のみを頼りにして、いま目の前にあるテプフェール氏によるふたつの旅行記(ジュネーヴ、フルティガーによる印刷)のほうがが好きだと言おう、迷うことなく勧めたい、それは彼が愉快な一団の先頭に立って行なった直近ふたつの旅行であり、ひとつは1839年のミラノやコモ湖への旅、もうひとつは1840年のゲンミ峠やオーバーラント地方への旅だ。各ページが機知に富む生き生きとした挿絵で飾られ、滑稽と真実の混ざり合った文章である。これこそ旅の正直な印象だ。ここでは、先ほど述べた空想的な物語のように諷刺画が間断なく続くのではなく、自然や生活の情景ごとに挿まれ、それに応じて描かれている。子どもたちが訪れ愛したスイスを、これほど見事に描いたものは他に知らない。ふたつの画集でテプフェール氏は、いくらか〔デイヴィッド・〕ウィルキーの技法を持ったロビンソンのようである。

しかし、文字どおりの意味での本について話そう。一番のきっかけであり、主題でもあるのは、やはり絵画だった。1826年、ジュネーヴのサロンについて、絵画展の講評を述べようと思うまで、何も公刊していなかったのだ。彼は展覧会評を、ガリア語めいた古臭い文体で書かれたと称する小冊子にした。実際、テプフェール氏が若いころ読んでいた本は彼に16世紀の言葉を教えたのであり、すでに説明したとおり、いわばフランスよりもジュネーヴにおいて身近な言葉なのだ。アミヨふうの文章に対する子どもっぽい好みは、もっと筆達者なルソーでさえ持っており、時代を下ったテプフェール氏は、再発見されたポール=ルイ・クーリエの文体の崇拝者、いささかまがい物めいてはいるが上手く書かれた彼の理論のいくつかの信奉者となった。わたしは彼の小冊子のある章(『中国の水墨画についての概論』第4巻第19章)に、まさしくロンサールが登場し、高く評価され、その章の中心に置かれているのを見つけた。ともかくテプフェール氏は、われわれと同じように始めた。よりよく跳ぶために後ろへ下がったのだ。彼のフランス語は、そもそも些か後天的であろうが、よく学ばれた、理想的なほど学ばれすぎたものである。

彼の最初の著作となった、1826年の展覧会についての小冊子は、よく売れた。何年か続けているうち、古風で衒学的すぎる専門用語は少しずつ減っていった。また、個別具体的な批評を問題にすることも減り、藝術についてもっと一般的な論点を扱うようになった。これが『あるジュネーヴの画家による考察と雑談』と題する小冊子シリーズの出発点であり、一部は『ジュネーヴ万有文庫』に掲載されている。シリーズの中でも特筆すべきは『中国の水墨画についての概論』という最初の4冊だ。専門的な題名に怖気づかないでほしい、中国の水墨画というのは藝術や詩の原理について自由に探究するためのきっかけ、口実にすぎない。自身も絵画を愛し、絵画を描き、絵画の技法や化学まで研究していたグザヴィエ・ド・メーストル氏は、かつてナポリでこの概論の第一巻を読み、著者に最上級の敬意を表して美しい硯を贈った。それでテプフェール氏にとってゲーテに次いでふたり目の、同じく絵画についての庇護者となったのだ。のちに、『アオスタ市の癩病者』の愛すべき著者は、彼の著作の妹分とでもいうべき心動かす短編、『伯父の書棚』や『牧師館』の第一章を読み、評論をきっかけに惹かれた人物について知ったとき、ある種の性質において大きな親和力が間違いなく働くこと、ふたつの魂の間に遠くからでも分かる類似性があることを、喜びとともに知った。

水墨画についての4冊の本は、確かに〔ローレンス・〕スターンを読むように心地よい読書であり、人柄のよさに溢れ、絶えず余談に中断されるが、余談こそ真の主題であり、理論というより景象なのだ。たとえば、人間と同じかそれ以上に長生きする仲間となり親友となるよい墨選びについて、優雅で感傷的なだけにパリ版には収録されないであろうページを、ここにいくつか引用したい。あとでテプフェール氏について存分に語るためには、まず彼を直接知ってもらうのが、わたしの買いかぶりでないことを示す最もよい方法である。だから引用するというわけだ。

「……実際、時とともに、数年のうちに、あなたの墨条は、はじめは単なる知人だったのが、仲間となり、仕事の道具となり、そして全ての思い出と結びついた、あなたにとって大切なものとなり、いつしか甘美な習慣の魅力が墨とあなたの存在とをつないでいるだろう。だから、あとになってこの友人の短所や欠点が見つかり、もう始まった関係を壊して新たに別の関係を結ぼうとしても、最初のときのような魅力も瑞々しさもないのは、何と悲しいことか!」

「フランクリンがどこかで、生きていないものに対して抱く愛着、友情とも恋心とも違うが確かに心の中にある感覚について語っていた。それは自己本位の愛情のひとつであり、替えの利かない召使に対して抱くものだ、というひともいる。わたしは、それはわれわれの資質の誇らしい特徴のひとつであり、いくらか心を失いでもしなければ完全には消えないだろうと思う」

「それは優しさのようなものであり、一種の敬意でもある。道具を愛するのは、ただ楽しく簡単に操れるからではなく、むしろ他のものと比べて何かよいところがあると思うから、とりわけ長く使ってきたということに附加価値を見ているからだ。単純な道具も、それを使っている職人にとっては、青年期や壮年期や老年期があり、異なる時期に応じてさまざまな感情をかきたてる。青年期には、力強さや素早さといった、青年期を特徴づける性質を好きになる。壮年期には、年を重ねることで出てきた長所や、直ったり和らいだりした欠点を楽しむ。老年期には、老いてなお捨てられなかった特徴を好きになり、新しい道具と比べて劣るようになっても愛着をもって使い続ける(そういうのを見たことのない者がいるだろうか?)」

「もし徒歩旅行をしたことがあれば、日々の仕事のかたわら、綱を入れたリュックサック、ごく単純だが歩く助けとなり足取りの支えとなる杖、そうしたものを焦がれる気持ちが生まれ、次第に膨らんでゆくのを、感じたことはないだろうか?その杖は、ひょっとすると見知らぬひとたちの只中にあって友人のようであり、孤独の只中にあって仲間のようだったのではないか?死の切迫を予感させる困難に次々と遭遇して、その杖が与えてくれる力や効果の証を感じなかったか、杖を手放すときが来たら、大通りに投げ捨てるよりはどこかの山の目立たぬ木蔭に置きたいと思わなかったか!いや、思わなかった、とおっしゃるならば……まことに残念ながら、読者よ、わたしを読者へと向かわせるこの小さな共感の種は消えてしまうだろう」(イングランドの慎ましく優しい女性詩人、同名の偉大な詩人〔ロバート・サウジー〕の妻、愛すべき詩人〔チャールズ・〕ボウルズの娘、キャロライン・サウジー夫人の作品の中に、わたしはテプフェール氏の考えを補うであろう小さな一編を見つけたので、道端のツルニチソウを摘むごとく、ついでに載せておきたい。

ソネ

わたしは花を捨てたことはない
ひとたび友だちになった花を
――小さな花、枯れた花でさえ――
どうしても心ならず捨てるのでなければ。
年季の入った家具や
使い古された道具を
もっとよいものに換えたことはない
何の苦しみもなしには。
わたしが「さよなら」と漏らすときは
いつも弱々しい息で
痛みのこもった声だ。
地上の不幸に苛まれながら
ひそかに願う
どうかこの言葉が神に召されて消えるときが来ますように)

「観察してみれば容易に気づくことだが、こうした特徴は、貧しい者、忙しい者、悠々自適の者、裕福な者、と階級を上がるにつれて薄れてゆき、無為の者にあっては贅沢と怠惰に囲まれて完全に消えてしまう。ならば、その特徴は善良さと何かしら関係があると考えるのは、誤りだろうか?人間の性質の誇るべき一側面、魂にとって大事な特徴だと言ったら、間違いだろうか?仕事や活動、経済、ささやかなゆとりの中で感じられ、贅沢な浪費、怠惰、無為徒食といった中では消えてしまう感情は、良識あるひとにとってどうでもよいものだろうか?否!だから卓越した良識人であるフランクリンは、それを重視したのだ」

「また、そうした性向が、暇を持て余している階級の者よりも勤勉な階級の者によく見られるのは、時間の使い方、活動、仕事といったものと不可分だからで、したがって、文明の成熟しつくした社会よりも若い社会において、いっそう一般的である。ホメロスはいつも馬銜や盾や戦馬車や杯や甲冑について仔細に描いた。生きていないものであっても持ち主には分かる美徳が備わっており、それによって兵士たちから尊敬され愛されているのだと、いつも考えていた。騎士の時代には、騎士の精神があるのだ。ウォルター・スコットもまた、真に迫った、描写するに相応しい特徴を、ないがしろにはしなかった。クーパーが、小説『大草原』で、みずから森の生活に戻った都会人を描くとき、毛皮猟師がカービン銃に友情を抱いていると書いたのも、事実に即している。その神聖な武器には、表情や性格があるのだ。カービン銃はひとりの登場人物となり、われわれが大草原の年老いた猟師に興味を持つとき、カービン銃もまた然るべき位置を占める」

そして話は墨へと戻る。「これはわたしたちの私生活にかかわることだ。だから皆に話すのは少し抵抗がある。けれども、わたしと墨とを結びつける純真な関係を知ってほしいという気持ちには逆らえない。それに、秘密は話さないつもりだ」

「この関係は長い、20年前からだ。それに、父から貰い、使い方や謂われを教わった墨だから、いっそう尊い。この墨は、円柱形で、金色で、中国語が刻まれており、贔屓目かもしれないが比類なき完璧さである。ある朝、墨条がふたつに折れているのに気づいた。わたしは驚いた、わたしが使うとき以外に過ちが起きることなどなかったのだから……だから、それは墨が悪いのではなかった。わたしが結婚したのだ」

「もっとも、わたしにとって墨をいっそう愛おしくさせたその事件の他にも、どれほど多くの甘美なひとときを一緒に過ごしたことか!平和で穏やかな時間に耽ったことか!悲しく不安な忙殺の日々を打ち消す静かで朗らかな日々があったことか!かつて幸せを味わった場所が好きだとか、木々や畑や森、幸せな歳月の証となるごくささやかなものを見て温かい気持ちにならないはずがないとかいうことがあるならば、喜びの証というだけでなく喜びの道具でもあった墨に対する感謝を、わたしが認めないことなどあろうか?」

「そして、何という喜びだろう!わたしのはじめての喜び、最も茫漠とした実感と同じくらい古い喜びだ。というのも、それは最初から最後まで生き生きとした、大きくもならないが決して衰えもしない、特別な喜びだからだ。今でも、その喜びを味わいたいときは、墨を手に、絵を思い描きながら丹念に磨る、とても心地よい幻想や魅力的な映像、うっとりするような美しい考えというわけではないが、少なくとも変わらぬ喜びではある、瑞々しく鮮やかで満ち足りた喜びが、20年を経ても見つけられるのだ!20年のうちに色褪せて壊れる喜びがどれほどあることか!友情だけが、もし本当のものならば、豊饒なワインのように、年を重ねることで熟成され洗練される」

「20年も日常的に使っていながら、墨条は3リーニュ〔約7㎜〕しか短くならなかった。素材のよさ、長持ちするよう作られた証である。わたしは長いことその墨を同世代のように思ってきた。しかし流れる年月によって、墨よりもわたしのほうが多くを失ったと知ったときから、墨はわたしよりも先に生まれ、わたしよりも長生きすると思っている。だから少しばかり悲しいことを考える、というのは、恵まれた性質を羨むからではなく、その可哀そうな墨が人間に若い姿や年老いた姿を心置きなく見せることはないからだ……」(『中国の水墨画についての概論』第2巻)

それに続く絵筆についての章は、じつに刺激的である。テプフェール氏によれば、絵筆は気まぐれだという。忠実な友である墨とは逆だ。素晴らしいひとときもあれば、ひどいひとときもある。持ち主を引きずりまわし、いたずらを仕掛ける。絵筆に用心せよ。

方法技巧の限界、各々が藝術を再開できる状態であるのが望ましいということ、古代絵画と近代絵画の根本的な違い、明暗法とレンブラント、自然と向き合うときは最も模倣的な者こそ最も偉大であったということ、ゆえに最もへりくだったものが最も成長するということ、とはいえ絵画は模倣ではなく表現の方法だということ、こうした教育的かつ味わい深い章が続き、思考と技術が均衡しながら互いに上手く支え合い、写実性やフランドル派への好みが理想への意識を損なうこともなく、カレル・デュジャルダンが虚勢なしにラファエロに対抗している。気を配りつつもさりげなく、全編に亘って何度もロバを登場させ、理論の分かりやすい実演に使い、ついにテプフェールの友たる実直な動物は、また別の友であるラ・フォンテーヌに中傷された自身の恨みを晴らす。この名誉回復の章は勝利を収め、人類史に残るだろう(『中国の水墨画についての概論』第3巻第8章)。とはいえ、さしあたり全てを引用することはできない。

挿絵つきの精彩なページを読み、その上に光がゆらめき、作者じしんは経験することのなかったその国の藝術の未来が結末で語られ、こう叫ばれるのを聴いたら、作者と同じ希望を持たざるをえまい。「しかしスイスよ、わが美しく愛しい祖国よ、時は来た!あなたを愛し、感嘆のあまり尊敬するだけでは足りないひとたち、あなたの美しさを学び、偉大さを理解し、知られざる魅力を見出す心を持ったひとたちのおかげで、わたしには分かるのだ」谷間の霧は遅くに晴れる、今日では晴れているように見える。あまりに愛しすぎ、あまりに近くで愛しすぎたのだ。気持ちが強すぎて語れなかったのだろう。今度こそ彼らが語る番だ。

ドイツ語圏スイスでは少し事情が異なると思われる。少なくとも詩によって、また文学によって、すでに〔アルブレヒト・フォン・〕ハラーや〔ザロモン・〕ゲスナーの頃から、ドイツ語圏スイスは充分に表現されてきた、フランス語圏スイスが未だそうでないにもかかわらず。フランス語圏スイスにもルソーがいる、どうして忘れよう?しかしルソーは、スイスを描くときはいつも、できるかぎり見放して描いた。ヘルヴェティア〔古代ガリア東部、現在のスイス西部〕の偉大な歴史家、近代で最も偉大な歴史家のひとり、真の画家にして古代の叙事詩人のようなジャン・ド・ミュラーは、ドイツ語圏フランスの人物であり、信仰や純潔主義において、ドイツとドイツ語圏スイスとの障壁は、フランスとフランス語圏スイスとの障壁と同じではない。わたしがテプフェール氏を非難するとしたら、この点においてである。

藝術に関する記事や水墨画についての興味深い章とは別に、多くの分野に亘る、〔ピエール・〕ベールに次いで立派な編集者ジャン・ルクレールを生んだ都市に相応しい、優れた選集『ジュネーヴ万有文庫』から、いくつもの記事が収録されている。しかし、『ジュネーヴ万有文庫』の文学記事の大半がそうなのだが、テプフェール氏の記事(いくつかは既に『近況と雑録』という本に収録されている)でも、しばしばフランスが異と看做され、フランスの流行作家が攻撃され、対立させられ、海峡の向こう側かのように扱われているのは、残念に思う。こうした反目は無意味だし、何より野暮である。フランスでフランス人の偏見を減らすには、これほど不適切なことはない。フランス人はジュネーヴに純潔主義を感じている。純潔主義には厳格主義で応じ、フランスの純潔主義はジュネーヴへの軽蔑を増すようになる。こうした攻撃性は、趣旨としては道義にかなっていても、甚だ不正確な些事にこだわるようになり、硬直した党派的な状態や防御的な制度を長引かせがちで、それこそわたしがテプフェール氏に求める自由で詩的なスイス自らの表現とは全く相容れないように思われる。

批評はもうたくさんだ。テプフェール氏が小説家としての姿を現わしはじめたのは1832年、『伯父の書棚』という素敵な小品によってである、この作品は今日では『ジュールの物語』の中ほどに挿入されている。翌年には『牧師館』の冒頭部分を発表した(今日では5巻本のうちの第1巻になっている)。彼によれば、それで大いに楽しんだあと、2作品の続きを書くのではなく、2作品を部分に持つ絵画を構想したという。『エリザとウィドマー』は、『牧師館』の結末に相応しい感動的な文体を見つけるための習作にすぎなかった。1834年には『遺産』を書いた、その琴線に触れる文体は、奇妙な着想と対照をなして、いっそう際立っている。1833年から1840年までの作品も挙げておきたい、『ジュネーヴ万有文庫』誌上あるいは他のところで書かれた『渡航』『恐怖』、それから『トリエン渓谷』『グラン・サン・ベルナール』『ジェ湖』『アンテルヌ峠』といったいくつかの小旅行記だ(すべて前出の『近況と雑録』に収録)。小旅行記の短い物語についていえば、わたしはその単純な真実、素朴で自然な上品さ、美しい雰囲気、皮肉なしの冗談が好きだ。たいてい、滑稽な旅行者、取り澄ましたイギリス人、大胆なフランス人、しばしお供するも早々に別れることとなる可愛らしい娘が登場する。わたしはそこに、頭でっかちな旅行の感想、フランスの大作家たちの闊歩に対する、地方に住む者からの、あれこれ言われるがままにされたあとで自分も口を開こうと決意した、ささやかな抗議の繰り返しを見る。実際、毎年ある月になると、スイスは見渡す限り旅行者に埋め尽くされ、ムクドリの大群に襲われたようになる。古代の野蛮人の侵略が、文明化された形に変わったのだ。さらに、才能の多寡によって、ただの泥棒だったり侵略者だったりする。旅行者の軽薄さに心中苦しみ、その地の信仰を守ろうとして旅行者に悩まされ、のちには見下してくる者をからかってみせる、しがない庶民や(ジョルジュ・サンドの言うように)土着の者は、泥棒や侵略者を正確に鋭く見抜く。そうした地元感情に、テプフェール氏は率直で見栄や誇張のないグワッシュ画で応える。

とても奇妙な事態と少しばかりの教訓が、われわれに道を作ってくれる!われわれフランス人は、自国であるフランスで、ガスコーニュ人を完全に区別し、地域に固定したつもりでいるが、ひとたび外国に行けば、ほとんど存在感がなくなる。

『恐怖』は、子ども時代の印象について丹念に書かれた心揺さぶる物語である。およそ7歳の小さな子が、街の墓地からさほど遠くない寂れた道を歩き、立派な祖父が、好々爺ラーエルテース〔オデュッセウスの父、テーレマコスの祖父〕からゲランじいさん(有名な老弁護士ロワゼルは、最期にヴィルジュイフ近くのシュヴィイに隠棲し、孫のみを友として、美しい二行詩を遺した。もしあなたが、シュヴィイが人里離れて匿っているのは誰か、と訊ねるならば、それは老ラーエルテースと幼テーレマコスだ)まで偉大な祖父はそうするものだとでもいうように、仲間のごとく仕えている。しかし、ふざけて遊んでいる最中、海水浴で小さな入江を跳ね回るのをやめようとしたとき、ひとつの死骸、正確に言えば砂浜に伸びる馬の骸骨が、不意に目に入って、はじめて死の概念を覚えた。その日一日、震えが止まらなかった。翌年、祖父が亡くなり、よく分からないまま葬列に並んだ少年は、同じ場所へ来たところですっかり動揺していることに気づく。さらに何年か経ち、12歳のころ、突然の強烈な悲しみ、早熟な恋の恨みを感じ、行くあてもなく街を出ると、また同じ不思議な場所に立っていた。時を忘れていると、街の門が閉まり、一晩じゅう恐怖に捉われて過ごさねばならなかった。物語の山場の描写は、展開のすべてを、まさしく実寸大に、一瞬一瞬ごとに作者がなぞっている。綺麗だが意地悪な光景は、チャールズ・ラムの筆で点描されたようでもあり、フランドル派の大家の絵筆で描かれたようでもある。

『渡航』は『ウーリカ』〔クレール・ドデュラス〕や『アオスタ市の癩病者』と同じ素材の、つまり障碍による小説である。若い傴僂男が、騎士道精神を持っているが、口達者に喋りたくとも叶わず、とくに優しさを欲しており、愛されないことに苦しんでいる。物語の前半は悲痛だが洗練されており、また真実でもある。わたしはあえて結末について批判したい。小さな傴僂男は、アメリカ合衆国へ渡航しているとき、ある病気の旅人と、もうすぐ寡婦となる若い妻の世話をして、注目を浴びる。上陸してからも傴僂男は夫妻を支え続ける。妻は身寄りを失う。傴僂男は彼女と結婚し、父となり、幸せになる。スイスの友人に、かつての苦しみを手紙で打ち明ける。「だから傴僂の者たちを送ってください、妻を見つけて差し上げます……」これはわたしには衝撃的だった。この若い男は、いくら無念が晴れ、幸せになったからといって、その種の冗談を言うべきではなかった。誇り高き心、騎士道精神を持つ男なのだ。よく言われるとおり、誇り高き心を持つ者が恋人やその幸せを望むのは、何を得られるかよりも何を与えられるかによってなのだ。それに、アメリカまで持ってくることとなった、長いこと苦しめられてきた逃れようのない障碍を思い出したり口にしたりするのは、つらいだろう――もっとも、完全にアメリカ人になるなら話は別で、それは大いにありうるものの、愉快なことではあるまい。

パリ以外の方には信じられないだろうが、ごく些細で表面的な上品さの欠如にさえ、われわれがどれほど格別に敏感か、それこそわたしが『遺産』を代表作と看做すのを躊躇う唯一の理由(もし理があるとしたら)である、着想はとてもよい、表現もほぼ素晴らしく、常に明快だ。20歳の孤児の若者が、名づけ親から莫大な財産を受け継ぐことになっており、退屈で日々に倦んでいる。自分は偏執狂だと思い、やむを得ず上品に繕っている。くだらないことに若さを費やし、心が干乾びそうになって、ある晩カジノへ行くと、はじめ絵のように眺めていた火事が、危険なほど身に迫ってくる。彼は白手袋のままバケツリレーをせねばならず、最初は苛立ったが、しだいに新たな感情に襲われた。勇敢な民衆の献身と友愛に心奪われたのだ。人間の血を取り戻し、まがいものの自己愛は消えた。バケツリレーに驚いている若い娘を見かけ、慎み深く送り届けると、娘は落ち着きを取り戻す。そして彼は気品ある貧しい見知らぬ娘に恋した。それを知らされた名づけ親は、別の婚約者を考えていたため、若気の至りだろうとからかったが、真剣だと分かると腹を立て、しまいには勘当してしまう。身軽になった彼は若い娘と結婚し、幸福を見出す。魅力的で深みのある着想だということは分かる。ただ、初っ端から、スイスでは上品だという若者が、フランスではそのように感じられないのだ。そうしたことは礼儀作法や服飾の問題だろう、しかしわれわれの最高級の上品さにとっては最も重要な問題なのだ。その若者は、髭剃りの道具(まだ自分で髭を剃っているのか?)や仕上げの石鹸、それに爪楊枝、食事には骨つき肉、といった話をしすぎる。それらは何にもならない、われわれからすれば目障りなのだ、作者が間違いだらけというわけではないが、ただ街の気取った若者を描くだけなのに、何もフランスの中二階に住む当代の伊達男を思い描く必要はない。

『遺産』について、時代遅れの上品さを並べ立ててきたところで、テプフェール氏の文章に頻出する、文法的に独特の、古めかしいフランス語に属する言い回しの数々についても、指摘してよいだろうか?彼らの面前で大あくびした、というところを、彼らに対して大あくびをした、と書く。折悪く話しかけてきた召使に、名づけ親が「愚か者!もっと上にできただろう」と言う。モリエール『強制結婚』第2幕で、ジェロニモが帽子をとってうやうやしく挨拶すると、スガナレルは「どうか上に置いてください」と言う。これは帽子をかぶってくださいという意味だ。ヴォーに特有の方言では、わたしは考えたというところをわたしは自ら考えたと言う、それでボナヴァンチュール・デ・ペリエ『笑話集』第2巻第65話には「この摂政は自らよく考えた、そのようなご夫人のところへ赴くには、不如意であってはならない……」と書かれているのだ。こうした正当な例があるからといって、ジュネーヴやヴォーに特有の言い回しが全て正当化されるわけではあるまい。そのことはテプフェール氏も充分承知の上で、全面的に選択したのだ。ポール=ルイ・クーリエの真の弟子として、流暢な筆運びに見えるが、いつもそうではない。いささか行き当たりばったりに出てくる地元言葉、その土地の言い回しは、彼の筆によって、シャンパンという『牧師館』の登場人物による手紙の中で、確かに藝術の域にまで高められている。「われわれの土着の言い回しが、純フランス的に話されているものと分かるだろう、そして、現代フランス語では用いられないものの生粋のフランス語であるには違いない言葉や、表現力に富んだ姿の下に奇妙な語源を隠している言葉、いずれにせよわれわれの耳には自然に聞こえ、馴化の魅力を感じさせる方言の数々を、正書法のために捨てるのは難しいとも分かってもらえるだろう」と、見事に述べている。そのような馴化と関係ないフランス人にとっても、いくらか魅力的なところはある。味に飽きた末の気まぐれにすぎないのか?わたしが言えるのは、思慮と推敲によって素朴な文体の中に配置された地域的特徴は、わたしにとってクルミの薫る黒パンのように感じられる、ということだ。

方言は消えてしまう、取り戻せたら僥倖だ。とりたてて努力しなくとも身の回りにあり、ただ取り出すだけでよいなら、いっそう嬉しい。これこそテプフェール氏の境遇である。それで、もし選べたとして、どういうときに方言による文彩や詩の試みをするのがよいか?かつてわたしは、何よりも作者が自制し、まともな内輪の同好会でのみ行なうという配慮と必要性があると考えていた。しかし今日ではどうか?選りすぐりの読者や同好会が、どこにあるのか?ばらばらの読者個々人、あちこちで沸き立って砕け散るときにこそ輝く言葉と称される泡、文学と称しながら競って簒奪する者しか、目に入ってこない。この混乱から逃げられる者は逃げよ、奪うというならやってみよ!これが、歩みが速かれ遅かれ、自らの勇敢な道を行く者の事情である。16世紀末のモンテーニュの情況である。小さなモンテーニュたちを好きにさせよ。

『ジュールの物語』は、『部屋をめぐる旅』と同じく、分析するような作品ではない。3部から成り、その度に仕切り直しのようになるのが唯一の欠点だが、ごく質素だから、自ずと許容できよう。そもそも時期が違うのだ。「ふたりの囚われ人」と題する第一部はジュールが学童の頃で、まだ青年ではない。すでに彼はルーシーに惚れている。「伯父の書棚」と題する第二部では、知的で美しいユダヤ人の娘に何故だか惹かれるものの、彼女は死んでしまう。「アンリエット」と題する第三部では、結婚したルーシーが楽しげに再登場し、若者は成長して、藝術家であり一人前の男になっている。華美ではないが真摯な愛情が、ふたりを永遠に結びつける。

まるでノディエの書く潤色された若かりし頃の思い出のようだが、潤色は少なく、技巧も控え目である。慎ましい品のよさへと溶け込む一種ゆったりとした調子、無垢な心の実直さ、機転の利く陽気ないたずら、程よい自然が、心地よい文章の中に息づいている。ページに表われている倫理観は、われわれの最も大きな敵、すなわち虚栄心を消し去ることを目指している。冒頭から、小学生のジュールは、鼻先に特徴的ないぼのあるラタン先生をいたずらでからかう。不格好な鬚を生やすのにこだわり続ける先生との絶え間ない諍いと同じくらい、いぼと産毛が細々と語られる。小学生は笑いこけ、ラタン先生は生徒の哄笑と無礼に憤慨する。「このいぼができて以来考えてきたことだが、感じやすいひとならば誰もが、身体的あるいは精神的な弱さ、隠れたいぼや目に見えるいぼを持っており、それを近くのひとたちから馬鹿にされているように感じるのだろう」と、歴史の先生は言う。様々ないぼの中には、自分が馬鹿にされていると思わず、尊敬されていると己惚れ、気取っているいぼもある。テプフェール氏が二重の意味で吹き出物と呼ぶのは、この病、各々の虚栄心という弱さなのだ。じつに上手い言い方である。多くの欠点、多くの悪の萌芽を、正しく見抜いたのだ。あるがまま装い、受けを狙いたいという欲求を潰して取り去ることこそ、倫理にとって最も大事だと彼は考えている。「おかしなことだ!ある限度を越えると、努力が自らに牙をむく。吹き出物を潰そうとして、隣に新たな吹き出物を作る。わたしは己惚れていないと胸を張って言うのは、それこそ己惚れなのだ。それに、完全でないとはいえ、最も急を要することには配慮してきた。いくら言われようと止めてきたが、それでもわたしの机や本はいたずらされるがままになっている。だが、攻撃から守らねばならない、もっと重要なものがある。第一に、それは友情であり……」また、ぶどう棚の下で食べる日曜の夕食、ひとびとのふれあい、鋭い観察の尽きせぬ源は、素直な藝術家にとっての楽しみ、健康的な喜びであった。「わたしは葉叢の下で、光と陰の心地よい戯れ、にぎやかな集まり、絵になる美しさ、そして歓喜や陶酔、くつろぎ、絶えざる気づかい、子どもの元気、慎ましい遠慮といった人間の見せる様々な姿を再発見する」ジャン=ジャックも同じことを感じていた、多くの吹き出物に苦しめられた可哀そうな偉人よ!『ジュールの物語』の作者は、ジャン=ジャックのように、しかし難なく自然や群衆とつき合う。道すがら画題となる小さな光景をいくつも摘んでゆく、テニールスやオスターデの絵のように明快な光景だ。一例を挙げよう。「右手には泉があり、青い水を囲んで、女中、パン屋の丁稚、召使、おしゃべりな女たちが話し込んでいる。満杯の手桶のさざめきとともに、優しい言葉を交わし合っている……」この何気なく書かれた平易かつ達意の一節だけで、すでに調和と色彩があるのではないか?

しかし、ここまで言わずにおいたが、テプフェール氏の真の傑作は『牧師館』の第一巻だろう。第一巻に限るのは、最初に公刊された部分であり、それだけで既に完全であり、最良の題材をわれわれに与えてくれ、この精華こそジュネーヴ文学において問題や論争となってきたからだ。続く巻も大いに価値ある重要なもので、言及すべきではあるのだが、土地に深く根差しており、いつもせっかちで軽薄なフランスの読者には向いていない。

ジュネーヴやスイスは現代の田園詩の故郷だ。雄大な山々のふもと、少しめかしこんだ小さな庭で、日々田園詩が作られている、これは傑出した田園詩が書かれない理由でもあるだろう。実践や生活の中にあるものは、理想化されないのだ。描くためには、多少なりとも対象と距離をとる必要がある。愛しすぎるあまり上手く言い表せないというのは、よくある話だ。いずれにせよ、これこそ本当の、サレーヴ山の娘としてその地で生まれた田園詩であり、すべての始まりにして最も神聖な『ナウシカア』〔ゲーテの悲劇。ナウシカアは『オデュッセイア』に登場するスケリア島の王女〕から『ヘルマンとドロテーア』まで花開いた田園詩を慎ましく引き継ぐに値する。

シャルルが小さな池のほとりで真昼に寝そべり、3匹の温和な登場人物、幸せに眠るアヒルたちを眺めている。意地悪な欲望に駆られ、池に小石を投げて幸せな3匹を叩き起こす。彼もまた人生で似たような経験をすることになる。シャルルは夢想にふけっている、少し前からかなり夢見がちになっている。彼は聖歌隊員の娘であるルイーズに恋しており、あるとき山を下りながらルイーズがそっと手を差し出して繋いでくれた、彼はそれを貴重な証拠だと信じている。しかし聖歌隊員は厳格で真面目で容赦ない人物である。怒ったときに発せられた一言から、シャルルは残酷にも自分が孤児であると知った。可哀そうな少年は、そのときまでそんなことなど考えもしなかった、立派な牧師であるプレヴェール氏は彼にとってよき父だったのだから。孤児がルイーズと結ばれうるだろうか?その日はまさしくシャルルが池のほとりで夢見ていた日、石でアヒルを驚かせた日であり、嵐が轟こうとしていた。プレヴェール氏が牧師館の窓辺で考え込んでいる。シャルルを何年か遠ざけ、友人の住む街に送って勉学を続けさせ、もし神の思し召しに適うならば、聖職に就く準備をさせようと決めたのだ。呼びつけられて出立を命じられる前に、何か言われるらしいと察したシャルルは、ちょうどやってきた愛犬ドゥラクに導かれてプレヴェール氏の前から姿をくらました。池から数歩の、牧師館のテラスを支える壁に近づくと、茂みの隙間から、横になって昼寝をしている聖歌隊員が見えた。半開きの手紙がポケットから覗いていた。シャルルはその手紙に気づいた!……誰からの?シャルルもまたポケットに手紙を詰め込んでいた、6ヶ月のあいだ常に書き続け、ひとりで読み返し、出そうとはしなかった手紙だ。ルイーズの書いた手紙で、それを聖歌隊員がプレヴェール氏に話し、そのせいでプレヴェール氏が物思わしげなのだとしたら?……シャルルは好奇心に駆られた。寝ている聖歌隊員に近づいたが、眠りは終わりかけていた。聖歌隊員の傍に這いつくばって読み取ると、確かにルイーズの手紙だった。しかし何の?突然、予期せぬ動き、眠っている聖歌隊員の震動〔tressaut〕(身震い〔soubresaut〕、突発〔sursaut〕、といった意味の見事な言葉で、語源は古く、動揺〔tressaillement〕では替えが利かない)に遭い、捕まって逃げられなくなった。ドゥラクが間に入ってきた。聖歌隊員は完全に目が覚め、大いに立腹した。ともかく、プレヴェール氏と逍遥しながら話したのち、シャルルがその晩にはジュネーヴへ発つこと、しばらく牧師館を去ること、ルイーズとは永遠に別れ望みを絶たれることが決まった。しかしその夜、途中で道を引き返した。かの場所を訪ね、住まいの最後の物音を聴き、ルイーズが明かりを消すのを見たかった。疑り深く見回っていた聖歌隊員にほとんど不意を突かれ、かろうじて教会に逃げ込んだ。そこに閉じこもり、一晩を過ごし、疲労と昂奮に押しつぶされて深く眠り込んだ。翌日、起きたら日曜だった。大勢のひとたちが入ってきて、こっそり逃げ出す暇がなかった。さいわい(シャルルは折よく思い出した)パイプオルガンが修理中で、その日は弾かれないはずだ。そこに身を隠した。祈祷が始まった。プレヴェール氏は聖書を開き、これから説教する一節として読み上げた。だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれる〔マタイ18:5、マルコ9:37〕。実際、聖歌隊員が追い出してシャルルが去ったという噂は、教区に広まっていた。ひとびとはシャルルに同情し、プレヴェール氏に賛同した。プレヴェール氏は心を痛め、皆の面前でキリスト教的な愁訴へと向かっていった。雄弁で寛大な説教を聴いたルイーズは、終わるのを待たずに抜け出し、聴衆みなを涙に暮れさせ、厳しい性格の聖歌隊員もほだされた!3日後、隠れ場所を出てジュネーヴへ来ていたシャルルのもとに手紙が届いた、それは母国の言葉で書かれており、婚約の証に家族の腕時計が附されていた。

この単純な筋書きから、興味深い真実へと開かれた構成を見て取れる。自然な描写の基底に、作者の幼いころの記憶があることを、その証拠として述べる必要があるだろうか?この教区とはサティニーの街だ。幼少期の淡い記憶で描かれるプレヴェール氏のモデルは実在の人物である。今日でも存命であり、確かな話によればセルリエ氏といって、年齢と職務のため今では腰が曲がっており、現在の大学長の父で、その説教は何度も印刷されたためプロテスタントにはよく知られている〔Jean-Isaac-Samuel Cellerierのことか〕。もっとも、プレヴェール氏の見事な説教は、むしろ率直で力強い弁舌の、よきフランスの学派を思い出させるレギュイを参考にしているようだ(レギュイは、フランス革命の少し前の時代に、オーセール教区の主任司祭、次いでガップ教区の主任司祭を務めた。彼の名はフランスの人物伝にはいっさい登場しない、プロテスタントにしか知られていないのだ。力強さと柔らかさという点において、キリスト教の偉大な説教師としての性質を持っている。説教は『牧師の声』〔François-Léon Réguis, la Voix du Pasteur〕という2巻本(ジュネーヴ、1829年)で出版されているが、宗教改革派の信徒たちを導くのに相応しいよう、文章には手が入れられている)。全体的な文体は、わたしが田園詩と呼んでいるものに含まれ、自然でもあり清新でもある。丈夫な文体だ。風景を感じさせる。ふいに出くわす言葉づかいの乱れは、池を囲む緑の葉叢の上の土埃のごとく、容易に拭い去れるだろう。

『牧師館』の続巻は、独特かつ長大なため、これを読んでいる方々の多くには向いていないし、われわれ批評家にとっても、ずっと興味を保ち続けることは難しく、それ以降テプフェール氏が才能の頂点にまで至ることはない。ジュネーヴに来たシャルルは、ダーヴェイ牧師の家に住んで勉強を続け、ルイーズやプレヴェール氏や聖歌隊員のレイバズに手紙を書く。返信の中でもとりわけルイーズの手紙は素晴らしく、際立って洗練されている。シャルルの住まいの門番であるシャンパンという者が、かつて親しくしていたレイバズと旧交を温め、間もなく厄介な小説の才能を発揮し始める。このシャンパンは土地柄をよく表わしており、かつてのジュネーヴのジャコバン派のような人物だ。作者はシャンパンの手紙によって、市街で一般的な古い言い回しをありのままに描こうとし、他方レイバズの手紙では、都会よりも古くて生き生きとしたフランス語が残っている人里離れた村落の老人たちの言葉を描こうとした。村の言葉こそ「自分の言葉を選ぶとしたら、わたしにとってはこれが最も自然な言葉です」と作者は言う。したがって、婚約者ふたりの展開する物語の裏には文体についての高度な研究があるのだ、作者も一度ならず頭に浮かべたであろうマンゾーニ『婚約者』のようだといえよう。ただ、田舎っぽくもあり都会らしくもあるジュネーヴ言葉を細かな意味合いまで再現しようというこだわりゆえ、評価は限定的なものにとどまっている。しかし、一見いささか突飛な提案と思われるだろうが、アカデミー・フランセーズが古語辞典を作ろうとしている今、『牧師館』に集められている昔の田舎の話し言葉は、参照先のひとつとなりうるだろう。いくつかの言葉のたどった数奇な運命について、間違いなく有用な考察を引き出せるはずだ。――感情のほとばしるままにシャルルがルイーズに書き送った多少なりとも真面目な観察記の中には、その土地の歴史的な名士について述べたものもある。エティエンヌ・デュモン氏邸での夕食(第59の手紙)について書いておこう。国にとって重要な人物に今なお注がれる、世代を越えた紐帯となる尊敬の念が、奥行のある澄んだ色で描かれている。真実を描いた文章を読み、内容を頭に入れていると、フランスと比べたくなる。そんなことは、すべてを呑みこむような浮ついた速さ、流行とか名声とか呼ばれている凡庸さが、美徳を枯れさせ失わせるようなことのなかった社会においてしか、起こらないし保たれないだろうと思うのだ。フランスでは、ある程度の地位に達するや否や、たちまち人間を一通り見てしまう。醜い側面までことごとく知りすぎる。どうしても捨てられない幻想を抱いているか、あえて楽観して大胆になるのでもないかぎり、もはや人間を信じられなくなる。悪く言えば、フランスの有名人のほとんどが、まさしく横領するときのような心持で亡くなる。あちらでは、まだ物事の調和が保たれている。よい側面があまり損なわれていない。謙虚さ、自身と他者に対する尊敬、ある種ゆるやかな生き方が残っており、守られている。ときに窮屈に感じ、劇場が足りないと思う。しかし、そうした欠乏感は同時に活力でもあり、劇場にいてさえ満足できず、風に吹かれたら自分が消えそうに感じるような魂の倦怠にとっては、どれほどありがたいことか!

最後に、『牧師館』から、わたしが美しいと感じ入った二通の手紙(第8、第9の手紙)を特別に引用しようと考えた、一通はシャルルの、もう一通はルイーズの手紙だ。ふたりは嵐のときにそれぞれが感じたことを語り合っている。いまルイーズは、牧師館で、湧き立つ雹雲の下で、何をしているだろう?ある昼下がり、窓辺に肘をついて、シャルルはそう自問する。想像で書いて楽しむ。ルイーズは返信で、嵐がふたりを驚かせていたとき、本当は何をしていたか語る。素敵な一致と不一致!シャルルの推測は間違っていたが、些細なことだ。出来事については間違っていたが、気持ちについては間違っていなかった。微笑ましい雰囲気は、続いて届いた聖歌隊員からの手紙で、恋人たちの空想を育んでいただけの嵐が、穀物を台無しにし、ある鐘楼に雷を落として、おそらく鐘つき男は亡くなったのだと知らされると、すぐさま重苦しく変わる。生活の卑俗な側面に引き戻されるのだ。もっとも、確かに心惹かれる部分ではあるけれども、わたしがこの一節を挙げるのは、冗長に堕する過ちを避けるためだ。それに、あまりに悲しい、とはいえあるところまで読み進めたら充分に予見できる、この物語の結末は、本で読んでほしい。

およそ文学は民俗の気風と生活の場から生まれるという土地の作者を読み終えるにあたって、これは当初考えていたような純粋に批評的な結論だろうか?テプフェール氏に対して、一度は藝術の域に到達したのだから留まる努力をすべきだったとか、さらに言えば、あらゆる藝術家の悪い傾向として、とりわけ表舞台に乗らず目利きの熱心な読者を欠く場合、どんどん自制が利かなくなりがちである、と指摘するつもりだったのではないか?ああ!違う、何でも言ってやろうとか、あれこれ提案してやろうとかいうお節介は、彼が言うところの吹き出物にくれてやろう。それよりも、わたし自身が心の中で、彼の描いた穏やかな土地の、さまざまな場所や美しい片隅を思い返す。ひとたびその場所を知った者には、けっしてそこに住めないという無念が残る。慎ましい友情の輪の中、たゆまぬ勉学の只中、多様かつ変わらぬ自然の面前にいたら、実のところ何が欠けているだろうかと問うてみる。最も洗練された見識豊かな場所と掛け値なしに信じられている、場末の小空間がないことは確かだ。それが何だというのか?そうした生活で機知や感性が少しでも錆びつくだろうか?キケロがキリキアで都市だ、都市に留まれ、わが友ルフスよ、その輝きのもとで生きよ〔Urbem, urbem, mi Rufe, cole, et in ista luce vive.〕と言ったとおりの情況だろうか?つまるところ、結局、わずかな語調が台詞を明らかにする。――最大限に強調しても誰も気づかない、わずかな語調だ。基礎があり、幸福かつ賢明で、心の乱脈が治まるならば、どうでもよいことではないか?レマン湖の女神が名詩人ミツキェヴィチに授けた、実感のこもった詩句が思い出される、先頃フランスがその詩人を慎ましい州と争ったとき、その州は詩人を守ることを諦めなかった。

われらの果樹園ではすべてが夢となる、
跪いて守られるささやかな幸福となる、
さわやかな思い出となる、田園詩の種となる、
生垣に囲まれた畑も、草原も、
心だけが楽しめるさまざまな喜びとなる、……
立ち直れ!

そこではまさしく田園詩が問題となっていた。これより上手い終わり方はあるまい。

サント=ブーヴ

(訳:加藤一輝)

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コミケットや文学フリマなどで、主にフランス文学の翻訳同人誌を頒布しています。既刊:シャンフルーリ『猫』『諷刺画秘宝館』/グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅』『全集(上下巻)』/若月馥次郎『桜と絹の国』