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人間を極端に機能で評価してしまう人たち

私は以前から人間の特定の能力や容姿、社会的地位や年収などのことを『人間としての機能』というふうに呼んでいるのですが、世の中には自らを含め人間を極端にこのような『機能』で評価するという方がいるのではないかと思うのですね。

私が思うにこのようなタイプの方の多くは自らよりも『機能』という意味で優れている方に対しては媚びるような態度をとり、逆に自らよりも『機能』という意味で劣っている相手に対しては見下したような態度をとったり傲慢な態度をとるという傾向があるのではないかと思うのですが、皆さんとしてもこのように人間を極端に機能で評価するというタイプの方に関しては心当たりのあるという方が多いのではないでしょうか?

私が思うにはどのような組織でもこのようなタイプの方は少なからずいるのではないかと思うのですが、それではこのようなタイプの方たちは一体なぜこのように人間を極端に機能で評価すことになってしまうのでしょうか?

今回の記事ではそんな人間を極端に機能で評価するという方たちについて見ていきたいと思います^^

人間を極端に機能で評価する人たち

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皆さんの周囲にももしかするとこのようなタイプの方がいるかもしれないのですが、私が思うにこのようなタイプの方は人間を極端に『機能』で評価し、自分よりも機能という意味で優れていると思った相手に対しては媚びたり低姿勢で接し、逆に自らよりも劣っていると思った相手に対しては傲慢で見下したような態度をとることになるのではないかと思うのです。

まぁこのように人間を極端に『機能』で評価するというタイプの方はどの組織にも一定数いるのではないかと思うのですが、それでは一体なぜこのようなタイプの方たちは自らを含め人間を極端に機能で評価してしまうことになるのでしょうか?

私が思うにその最大の理由は、このようなタイプの方たちは『機能が優れている人間であればあるほど価値がある』という価値観を持っているからなのではないかと思うのですね。

要はこのようなタイプの方たちは『人間としての機能』が優れている人間であればあるほど価値がある存在であるというふうに考えていることから、人間を極端に機能で評価し相手が自分よりも劣った機能の持ち主だと思えば傲慢で理不尽な態度をとったりすることになるのではないかと思うのです。

そのような経緯からこのようなタイプの方たちは我々人間の価値は『人間としての機能』によって決まってくるというふうに考えており、『機能が優れている人間=価値がある人間』『機能が優れていない人間=価値がない人間』というふうに考えているからこそ人間を極端に機能で評価することになってしまうのではないかと思うのですね。

例えば「サッカーが上手な人間はサッカーが下手な人間よりも価値がある」「容姿が整っており多くの異性からモテる人間は容姿が整っていない人間よりも価値がある」「社会的地位が高く年収が高い人間は社会的地位が低い人間よりも価値がある」などというふうに『機能が優れている人間』は『機能が劣っている人間』よりも価値があるというふうに考えることになってしまうのではないかと思うのです。

その結果このようなタイプの方たちは目の前にいる人が自らよりも『人間としての機能』という意味で劣っていると判断すると「こいつは自分よりも下だ」「こいつよりも自分のほうが価値のある人間なんだ」というふうに思うことから見下したり傲慢な態度をとることになるのではないかと思うのですね。

ここまでの話をまとめるとこのようなタイプの方たちは『機能が優れている人間であればあるほど価値がある』という価値観を持っていることから『機能が優れている人間=価値がある人間』『機能が優れていない人間=価値がない人間』というふうに考えることになり、その結果自らを含め人間を極端に機能で評価することになるということなのです。

例えば「身体能力が高くアスリートとして活躍している人間は運動音痴な人間よりも価値がある」などというふうに『人間としての違い』を『人間としての価値の差』として考えることになってしまうということなのですね。

そしてこのようなタイプの方たちが自らを含め人間を極端に機能で評価してしまうことになるということなのですが、もしかすると皆さんのなかにも現時点でこのように人間を極端に機能で評価してしまうというタイプの方がいるかもしれません。

ここまで読んでくれた皆さんのなかにはもしかするとこの『人間を極端に機能で評価する人』に関して「周囲の人間を見下す嫌なやつ」「相手によって態度を変える最低なやつ」などというふうに思われている方もいるかもしれないのですが、実際にはそのような周囲を見下すようなタイプの方ばかりではなくこのようなタイプの方のなかには強い劣等感に苛まれており、周囲からの視線に怯えているという方も少なくないのですね。

なぜならこのようなタイプの方は『人間としての機能』によって『人間としての価値』が決まってくるというふうに考えている傾向があることから、自らの機能に自信を持つことができないと「自分は価値のない人間なんだ」「自分は誰からも見下される存在なんだ」などというふうに強い劣等感に苛まれてしまうことになるからなのです。

そのような経緯から考えるにこのような『人間としての機能』によって『人間としての価値』が決まってくるという考え方は劣等感や自己嫌悪感なども生み出してしまうことになるということなのですね。

そのためこのような人間を極端に機能で評価するという考え方は変えていかなければならないことだと思うのですが、それでは現時点でこのような考え方をしているという方はどのようにその考え方を変えていけばいいのでしょうか?

その内容に関しては次章でじっくりと見ていきたいと思います^^

「すべての人は違うけれども対等な存在である」という考え方

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ここまで自らを含め人間を極端に機能で評価してしまう方たちについて見ていったのですが、ここで皆さんに分かってほしいのはこのような考え方は他者を見下したり、逆に自らが劣等感を感じることになる原因になってしまうということなのですね。

もちろんこのようなタイプの方も一方的に他者を見下すことばかりできる状態であれば劣等感を感じることはないのかもしれないのですが、それでも実際には『人間としての機能』という意味では大抵の場合は自分よりも上の存在がいることから、常に人を見下せるような状態ばかりではないのではないかと思うのです。

そのような経緯から考えるにこのように人間を極端に機能で評価してしまうという方たちは大抵の場合どこかのタイミングで強い劣等感や他者に対する嫉妬心に苛まれることになるのではないかと思うのですが、それでは現時点でこのように人間を極端に機能で評価してしまっているという方はその考え方を一体どのようなものへと変えればいいのでしょうか?

私が思うにこのようなタイプの方が新たに手に入れなければならない考え方は『すべての人は違うけれども対等な存在である』というものなのではないかと思うのですね。

何度も繰り返すようですがこのような人間を極端に機能で評価してしまうというタイプの方は『機能が優れている人間であればあるほど価値がある』という価値観を持っているのではないかと思うのです。

そしてそのような経緯から『機能が優れている人間=価値がある人間』『機能が優れていない人間=価値がない人間』というふうに考えてしまっているからこそ、人間を機能によってランク付けし、自分よりも機能が優れていると思った相手に対しては「この人は自分よりも上」というふうに思い、逆に自分よりも機能が劣っていると思った相手に対しては「こいつは自分よりも下」というふうに考えることになるのではないかと思うのですね。

またこのようなタイプの方の特徴としては自らの機能に自信を持つことができず、自分は平均よりも劣っている存在であるというふうに考えていると、強い劣等感に苛まれてしまうケースも多いということなのです。

これは非常に当たり前の話なのですが、やはり人間を極端に評価してしまうという方は自らに関しても機能で評価してしまうことから自らの機能が劣っているものであるというふうに感じていると強い劣等感や他者に対する嫉妬心に苛まれてしまうことになるのですね。

まぁこのように人間を極端に機能で評価するという傾向は決して良いものではないことだと思うのですが、それでは現時点でこのように人間を極端に機能で評価してしまっているという方はどのように考え方を変えればいいのでしょうか?

それが先ほども説明したように『すべての人は違うけれども対等な存在である』という価値観を手に入れることなのではないかと思うのですが、現時点で人間を極端に機能で評価してしまっているという方は『機能が優れている人間=価値がある人間』『機能が優れていない人間=価値がない人間』というふうに考えてしまっているということでした。

そのような経緯からこのようなタイプの方は「人間と人間の間には価値の差がある」というふうに考えてしまうことになるのではないかと思うのですが、これを「確かにすべての人は違うけれども、誰もが対等な存在であり誰もが愛されるべき大切な存在である」という考え方に変えてほしいのですね。

確かに我々人間は誰もが違い誰一人として同じ人間は存在しないのですが、大事なのはそのような『人間としての違い』を『人間としての価値の差』として考えないことなのではないかと思うのです。

もちろん『人間としての機能』という意味ではそこには当然優劣があり、機能が優れている人間もいれば機能が劣っている人間もいることだと思うのですが、大事なのはそのような『機能の優劣』を『人間としての優劣』として考えないということなのではないかと思うのですね。

人間を極端に機能で評価してしまうという方は『人間としての価値』を『人間としての機能』によって定めようとする傾向があることから、『機能が優れている人間』のほうが『機能が優れていない人間』よりも価値があるというふうに考えてしまうのではないかと思うのです。

しかし大事なのはこのような人間としての違いを人間としての価値の差として考えるのではなく、「誰もが違うけれども対等であり、誰もが愛されるべき大切な存在である」というふうに考えることなのではないかと思うのです。

人間を極端に機能で評価してしまっているという方は『機能が優れている人間』のほうが『機能が優れていない人間』よりも価値があるというふうに考えてしまうことから、例えば「身体能力が高くアスリートとして活躍している人間は運動音痴な人間よりも価値がある」「社会的地位が高く多くの人からちやほやされる人間は社会的地位が低い人間よりも価値がある」などというふうに『人間としての違い』を『人間としての価値の差』として考えてしまうのではないかと思うのですが、このような考え方を払拭し「誰もが違うけれども対等な存在である」というふうに考えることが重要なのではないかと思うのですね。

確かに我々人間は誰もが違うのですが、それでもそこに『人間としての価値の差』はなく誰もが違うけれども誰もが人間としての価値は同じでありすべての人が愛されるべき大切な存在であるというふうに考えることが重要なのではないかと思うのです。

そして我々人間は誰もがただ人間であるというだけで価値があり、その価値には上も下もない、すなわち誰もが対等な存在であるというふうに本当に心の底から思えるようになれば決して『人間としての価値』を『人間としての機能』によって定めようとはしなくなることから人間を極端に機能で評価してしまうという状態から脱却することができるのではないかと思うのですね。

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