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集合、離散、或いは情報量の増加が招く変化について

 ども、白露です。最近冥王になった。何のことか分からない人はツイッター(@pizzahakuro)をみると分かるかも。
今回書くのは人が集まり、また離れる話についての雑感で、色々あるよねって話をつらつらと。

 自分は色々SNSで知り合った人からお声を戴いて飲みに行ったりしていて、昨年の夏ぐらいから結構大きめのグループに参加させていただいて。そんなこんなで毎月1回は誰かと飲みに行ったり話したりするような付き合いをしている。で、大きなグループなのでそこで仲良くなった関係を基に幾つかの小グループが生成されたりもしていた。自分も幾つかに参加させてたいただいた。自分が把握していないだけで結構な数があったんじゃないかな。
 基本的に楽しく飲むんだけど、やはり付き合いが長くなるにつれて関係は変わっていく。気の使い方が変化したり、親密な関係になったり、立場が変わったりする。細かいことだけど、少しずつ色々なところが変化していく。

例えば定例会で面白いことがあり、翌月の定例会でその事を話題に出す。なんのこともない些細な話だとしても、今回から参加したひとには伝わらない。そういうのが積み重なっていって、身内ノリみたいのができていく。一概に悪いことでもない。そういったものはレンジが狭いほど深くなると良くいわれる。学校の先生のモノマネは校内では鉄板ネタなわけですよ。

そうやって仲良くなった人達の中にはだんだん距離を置いたりする人もちらほら出てきて。幾つか観測して理由がわからない人もいれば、理由を聞いてそらまぁそうか……みたいな人も出てきてて。
いずれも一旦触れた後にそういったことになるので、それは関係を作ってからなったということである。関係が深くなって情報量が増えると、判断材料が増えるわけで。
その上で離れるなら、そういうことな訳です。こういうのを総じて縁がなかったと言うことなんだろなと。そんなことを思うわけです。

それが嫌なら自分を変えるか他者を変えるかしかなく、どちらも善し悪し両側面をもつなーなどと。
例えば他者を変える良い干渉としてアドバイスがありますが、それは裏返すと支配になっちゃうわけで。忠告も呪詛に早変わりです。
それならまだ自身を変える方がリスクは少ないですが、その維持したい関係性が本当に必要なものか、また正しいことなのかを自分に都度問いかける必要があります。もしそうでなければ依存になっているかもしれません。

第三の方法としてある程度距離を置きながら関係を続ける、というものです。大人の関係に近いかもです。これもやりすぎると結局当人の欲求が充たされなかったり居場所がなかったりするので良し悪しかなーと。

とまあこうやってコミュニティが大小生まれて、集合して、離散してを繰り返すのが人付きあいだよなーとか、ぼんやりと感じた次第でした。

集合した人も、離散した人も、各々心地よい場所と距離を見つけながら生活していくのがいいんじゃないかなーなどと、そんなことを思った次第です。まあなんかあったら俺で良けりゃ話は聞くよ。聞くだけだけど。

そんな感じの駄文でした。書いた後に思ったけどこれは自らの意思でその集合へのアプローチを変えられる人への話で、田舎でそういうのが無理だったりする場合には違う話になりますね。まぁそれはおいおい。 そんじゃーね。

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