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『歴史は繰り返さないが、韻を踏む』日本銀行の利上げのリズム

歴史が刻むリズム

“ I think, history doesn't repeat itself. It rhymes.”
2024年7月のFOMC後、記者会見におけるパウエル議長の発言だ。

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む(History doesn't repeat itself, but it does rhyme.)」は、米国の作家マーク・トウェインの言葉とされるが定かではない。

日本銀行の利上げの記憶

果たして、日本銀行の政策金利の引き上げは正確なリズムを刻んできた。

新日銀法が施行されたのは1998年である。その後最初に日銀が実施した利上げは速水総裁時代だ。2000年8月に前年から続けてきたゼロ金利政策が解除され、政策金利は0.25%に引き上げられた。この利上げに当時審議委員だった現在の植田総裁が反対票を投じたことは有名だ。案の定と言うべきかは分からないが、ほどなく米国のITバブル崩壊で景気は急減速した。利上げからわずか半年後に利下げに転じることとなり、更にはより強力な金融緩和を求められる形で、量的金融緩和が導入された。

そして次の利上げは2006年、福井総裁時代だ。3月に量的緩和を終了し、7月に政策金利を0.25%引き上げ、そして2007年2月には0.50%に追加利上げを行った。2000年のように、最初の利上げ直後に不運に見舞われることは無かったが、2008年9月に米国でリーマン・ブラザーズが破綻、大規模な景気後退局面が世界的に訪れた。日銀は2008年10月から利下げを開始し、その後は2023年まで金融緩和の追加措置を導入し続ける道を辿った。

日銀の利上げは実施からまもなく「失敗だった」と評され、その判断に対する責任を追求され、利上げ前よりも強力な金融緩和を要求される。これが日銀の利上げの「韻」である。

3度目の利上げ局面と過る悪夢

3回目の利上げ局面が、今回、2024年だ。3月19日にマイナス金利を解除し、7月31日に追加の利上げを決定した。そして7月の追加利上げの翌々日、米国雇用統計が大きく下振れした。米国の景況感に不安が広がり、FEDの大幅な利下げ実施が市場で急速に織り込まれた。為替レートはドル安円高に進み、7月29日のドル円終値154.02円から、8月5日には一時141円台を付けている。株価は世界的に急落し、中でも日経平均は8月2日に▲2216.63円、8月5日に▲4451.28円という歴史的な下げ幅を記録した。

日銀としては悪夢の再来が頭を過る状況だ。実際のところ、日銀の利上げと、市場の想定よりタカ派的な情報発信が相場変動のきっかけの一つとなったことは否定できない。

内田副総裁の火消し

こうした中、8月7日に講演を行った内田副総裁は、明確な火消しを行った。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2024/data/ko240807a1.pdf

  • 先行きにつきましては、結論から申し上げますと、内外の金融資本市場の急激な変動がみられるもとで、当面、現在の水準で金融緩和をしっかりと続けていく必要があると考えています。

  • この点、展望レポートの中で、「金融政策運営については、先行きの経済・物価・金融情勢次第であるが、以上のような経済・物価の見通しが実現していくとすれば、それに応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく」という考え方を示しました。この考え方は、その前提として、「経済・物価の見通しが実現していくとすれば」という条件が付いています。そして、この点で、ここ1週間弱の株価・為替相場の大幅な変動が影響します。

  • こうした市場の変動の結果として、見通しやその上下のリスク、見通しの確度が変われば、当然金利のパスは変わってきます。もともと、欧米の利上げプロセスとは異なり、わが国の場合、一定のペースで利上げをしないとビハインド・ザ・カーブに陥ってしまうような状況ではありません。したがって、金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはありません。

「金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはない」と明言したことで、とりあえず市場は冷静さを取り戻しつつあるように見える。

日銀としては、「利上げの韻を踏むこと」だけは絶対に回避しなければならない。過去そうだったように、利上げが失敗だったと評され、金融緩和への逆戻りを迫られれば最悪の事態である。ITバブルの崩壊も、リーマン・ブラザーズの破綻も、どちらも日銀の責任ではない。10年かけた異次元の金融緩和が実証したように、金融緩和に無限の効果がある訳ではない。それでも、株価が下がり、景気が低迷すれば「全部日銀のせいだ」という世論が形成される可能性はある。本当に日銀に非があるのかは重要ではない。まともな理屈が通じなかったからこそ、異次元の金融緩和などという不合理な政策が実行されたのである。

内田副総裁の講演は周到であり、ハト派的なニュアンスを強調しつつも、経済、物価見通しのメインシナリオには変化がない点も示唆している。

  • 私自身は、米国経済はソフトランディングする可能性が高いと考えていますし、わが国の株価が上昇してきた背景には企業の収益力の強化があると思っています。両国の経済のファンダメンタルズが大きく変わったとは思えませんので、米国の単月の指標に対する反応としては、大きすぎると思っています。

同日に実施された記者会見でも、内田副総裁はバランスに配慮した発言を徹底し、相場の安定と政策の自由度確保を両立させたように見える。

それで日銀はどうするのか

とはいえ、「金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはない」との宣言は、日銀の次のステップを難しくするのではないかという懸念はある。最後に、この問題について2点指摘したいと思う。

①副総裁という立場の利点
もしこの発言が植田総裁のものであったら、今後の利上げは非常にやりにくくなったかもしれない。総裁は政策決定上もっとも権限が強い(と一般に解釈される)ため、発言の方向性が日替わりのように大きく転換すれば強い批判を受ける。実際、植田総裁の発言が市場の解釈と噛み合わない局面はこれまで少なからず見られた。植田総裁が「当面利上げはない」と言っておきながら、例えばもし日銀が10月に利上げを決定すれば、総裁の記者会見での説明はかなり複雑になる可能性がある。また、総裁は国際会議や国会で発言を求められる頻度が非常に多いのに対し、副総裁はそうした機会が少ない。今回の内田副総裁の発言について、植田総裁は「副総裁の発言については私からはコメントできない」と逃げることができる。副総裁だからこそ、ある意味無責任なことが言えるのである。

②市場はいつまで覚えているか
「金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはない」を裏返せば、「落ち着いていれば利上げ出来る」とも解釈できる。論理的には、

  1. 落ち着いてれば利上げだろう

  2. 利上げがあればその後相場は荒れる筈だ

  3. 利上げ後に荒れるなら今動かないと損だ

  4. 今動いたら今相場が荒れてしまった

  5. 荒れているならやっぱり利上げできない

  6. 利上げできないなら落ち着いたままなのだから今動く理由がない

  7. 動かないから相場は落ち着く

  8. やっぱり利上げできそう

  9. 落ち着いてれば利上げだからその後相場は荒れる筈だ

と無限に循環する。

この前提は最初の「1. 落ち着いてれば利上げだろう」を市場関係者が忘れず常に認識していることだ。しかし、実際には市場関係者の誰もが日銀の金融政策に強い関心を持っている訳ではない。日本語に通じていない海外の市場関係者は特にそうだろう。日銀の金融政策決定会合の日程は2024年は9月20日、10月31日、12月19日、2025年は1月24日、3月19日…だ。2024年7月に利上げを決定した直後、次回利上げは最短10月と見る向きが多く、次が12月、遅ければ来年1月というような織り込み方だった。3か月後、半年後の市場関係者がどのような認識に至っているかはかなり怪しい。

重要なのは実体経済

いずれにしろ、重要なのは実体経済である。これまでのデータを見る限り、日本の雇用情勢は堅調であり、設備投資もしっかりしている。個人消費は冴えないが、実質賃金が改善傾向を示すなら底割れするようなことはないだろう。一方、今後のリスクはある。賃金の改善を支える筈の企業業績が下振れするようであれば目算が狂う。何より、最も重要なことは米国が本格的にリセッション入りしないことだ。

今回の急激な株安、円高、それ自体は問題ではない。これが実体経済にどのような影響を与えるか、世界的なリセッション入りを示唆しているのか否かが重要であり、それは今後のデータやアネクドータルな情報を見ていくしかない。

この8月の市場の混乱の背景は、市場の見方があまりに偏っていたことと米国経済への懸念材料の投下が重なったことだ。これは半分以上は希望的観測であるが、次の機会には今回ほどの不運は避けられること、そうした機会が訪れる程度に実体経済の回復が継続することを、願わくば期待したい。

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