【自】先生という肩書きと夢

こんばんは。おきです。

今、言語化力トレーニングにハマっています。
ハマっているという表現は誤りで、「勉強」しています。
どうにかハマっていただきたいものですね。

そのトレーニングでは
自分と対峙して物事の思考、理由をどんどん書いているのですが
自己分析の分野で、幼少期のことを書いている時に
あぁ、昔の私はこんなふうに思っていたんだな と
俯瞰に見えるものが面白かったので綴ります。


「当時の夢は?」

4月生まれ、平均身長より大きめ
次女として生まれ育った私は
困った人がいると手助けしちゃうおせっかいな性格でした
スポーツも勉強もそこそこできて困ることはありませんでした
そんな中で、ぼんやり思っていた将来の夢は
「先生」

幼稚園生の時は幼稚園の先生
小学生の時は小学校の先生
中学生の時は中学校の先生

そんなふうに、“ごく当たり前“に思っていました。

“ごく当たり前“に持っていた将来の夢

本当は夢じゃなかったんだとハッキリ気付かされたのは
大学の教育実習の時でした

生徒に指導することになんの面白さも感じられない
学習指導要領、生徒指導要領、道徳の教科化・・・
並べられたレールの上を走ってもらうための授業

私、この子たちに教えたいことって教科(こんなこと)なのかな

私の中で、見事な乖離が生じてしまい、やっと気づくことができました
私が「先生」になりたかったんじゃなくて
ーーー親が「先生」になって欲しかったんだ


先生から褒められることも多かったのでしょう
そりゃ嬉しいですよね
自分の子どもが何不自由なく学校生活を送り、
ましてやスポーツも勉強も申し分なく
親からすれば、私はよくできた子だったんでしょう。

「先生!いいんじゃない、先生のことも好きだしね」
「また勉強教えてたの?いいね、教えるの向いてるよ」
「先生なら将来も安定しているし、いいんじゃない」
「せっかく先生の免許があるのに、もったいないね」

」先生が好きだし、先生っていいのかも「
」これなら友達と居ても怒られない、褒めてももらえる「
」将来が安定しているから、先生がいいのかな「
」もったいない、って何「


大学を卒業して、免許を取得した私は
教員採用試験を受けることなく、今を過ごしています


結論、として。
話すと長くなるので今回は話しませんが
高校生〜大学生ぐらいの時
私の中で譲れないものができて
簡単にいうと、「立場を捨てた個人との対話」で

年齢性別役職関係なく接したい私は
「先生」と「児童・生徒」という立場に拒否反応が出てしまって
中途半端な指導を行ってしまい、先生にはなれないと気付かされました。

今でも、その時の生徒たちには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
貴重な学生時代の数日間を、たった一人の大学生が
夢が夢でないと気付かされるためだけに使われてしまったのですから。

もう少し、器用にできたら
「先生」と「児童・生徒」なんて立場を考えずに
授業の立案をして指導を行えたかもしれません。
しかし、私の性格上、それはちょっと困難なことなのだと思います。
(現役教師の皆様、現役教育学生の皆様、どうか愚かな私をお許しください)

そもそも、年齢性別役職関係なく接したいという私のスタイルは
社会不適合にも程があるのですが
実際そうだなぁと感じながら今の会社に勤めています。
みんな我慢しながら生きているのに、私ってわがままなんだな
でもそんな自分を愛してやろうと、今日も思います。


では、また。

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