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20代の5年間と読書

今日はここ最近でも特段寒く、風も強い日でした。年末の帰省のためにスタッドレスタイヤを買い、その換装の合間に文章を書いています。

ここ数年は本を読む習慣が続いています。大学前半まではあまり読書をしませんでした。ハリー・ポッターや海底二万マイルなどは好きでしたが、学術書は読みませんでした。読んでも教科書と補助資料程度で、記憶を辿っても、習慣的に読むようになったのはここ5年です。最近は與那覇潤さん「平成史」、千葉雅也さん・國分功一郎さん「言語が消滅する前に」、磯野真穂さん・宮野真生子さん「急に具合が悪くなる」あたりを読んでいます。

演技についての話が、「言語が消滅する前に」で少し言及されていました。これが仕事をする上ですごく参考になっています。というか、むしろショックでした。それくらい驚いた。演技をするということは、脱力するということで、これは社交についても同じことだ。10割の力ではなく7、8割で仕事をする、相手と付き合う、ということ。自分の実存をすべてかけることはせず、ある種の演技が社交には必要だ。そういう風にレスネスに振る舞うことは、相手からどう見えるか、というところを意識できる余剰になる、という風に読みました。

実際この通りなのです。仕事での言語使用は、本当にこの通りだと思うのです。私の今の仕事は官僚主義、調整や交渉、金銭面からの組織管理、などの性格をもっていて、上司の仕事はまさに組織内の交渉、交通整理という感じです。どれくらい説明するか、何を話しそして話さないか、どこを切り詰めるか、といった、シビアで情を薄めた言語使用が主です。周囲の人を観察していると、仕事の基本的な責務は、困っている人に応答するというものでなく、自らへの帰責性、それも法からの帰責性を強めに意識して、困っている内部の人への応対は二の次三の次、という風に考えているように見てとれます。

仕事をするとき、このような言語使用にあえてノる、という意識があります。千葉雅也さん「勉強の哲学」の言葉でいうと、言語の玩具的使用ですね。正直なところ、私は上司たちよりも、困っている人に対応してしまうのですが、そうすると上司含むチームの仕事が滞るわけで、迷惑をかけるわけです。もちろん帰るのが遅くなり、自分にもダメージが残る。後任へのマニュアル作りでも、この傾向は顕著です。属人化しがちな業務を、エクリチュールにし、読めば誰でも肝心なところはできるようにする。業務の民主化と思いながら取り組むのですが、この引き継ぎの程度は、まさに個人に任せられていて、そうすると、組織の業務の民主化は、ほぼ個人に任せられていると言えるわけです。A4の1枚で済ます人もいるし、1日で口伝できる量しか引き継がない人もいる。やってみないと習得できない業務上の技術もあるでしょうし、属人化もその全てが非合理ではないと思います。どこに程よいバランスがあるのか。いつも迷います。

文章を書くようになったのは、読書の習慣がついてから2、3年後です。ただ、なかなかどうして、簡単には文章を書けません。書き始めても止まってしまう。ぎこちなさが残ります。おそらく、自意識がまだ強く、勢いを殺すような書き方が染み付いているからだと思います。アカデミアに所属していたときに身についた書き方でしょう。

書く量は、この5年で増えました。仕事ではノートアプリを使い始めて、1年と少しが経ちました。日ごとにセクションを作って、テキストボックスに内容を殴り書きする。忙しくない時は、経緯、簡単な方針、保留なのか終わったのか待ちなのか等々、思いついたところをざっと書いて放置する。ワーキングメモリがいっぱいになるような業務に変わったのを機に使い始めましたが、思いの外続いていて嬉しいです。

最近旅をしていません。外に出たい。知らない街を旅したい‥と思いながら2年近くが経ちました。個人史を振り返ったとき、平成の後半から令和初期にかけての私の20代は、停滞の時期だったと思います。自分が硬直して、戸惑いながら過ごした時期でした。

旅をするときに楽しいのは、「他人との交換可能性を考えられること」というのが、ひとつ、お気に入りの考えです。景色を見て感傷に浸る人がいて、夕暮れに家で魚の煮付けを作る人がいて、仕事から帰る途中でタバコで一服する人がいる。みんなそれぞれに暮らしている。「急に具合が悪くなる」で、宮野真生子さんが似たようなことを書かれています。

そういう、流れるような、自分が薄まるような流動的経験が、この2年で失われたなと思います。勢いがついた、の方が正確でしょうか。失われる勢いが増した。

スタッドレスタイヤへの換装終わり。お昼を買って帰ります。北関東の冬の風は強くて冷たいです。風を遮る地形も少ない。今日は寒い日です。

本を読むようになって良かったことの一つに、うまく力を抜けるようになったことがあります。力を抜いて書けるようになった。先ほど書いたこととぶつかりますが、これでもだいぶ、ささっと書けるようになったんです。「書くことは未来の自分に賭けること」。人類学者の磯野真穂さんがたしかブログでおっしゃっていたことで、好きな言葉です。書くのを諦めそうになったとき、背中を押してくれる言葉です。

「言語が消滅する前に」にも書かれていますが、私たちの使用している能動態・受動態という文法は、今は当たり前になってしまった、尋問する言語というあり方と関係しています。責任の所在を明確にしたいという欲求と、各人の意志を前提とした能動態・受動態の成立は関係している。

私の中の言語使用にも、この尋問するという性格があって、それは厳しく恐ろしい校閲者として、頭の中にいます。ここ数年で、それを相対化できた。私の今までの言語使用に、そういう面があり、それは私が生きる中で獲得してきたものだということを、相対できるようになった。これが、文章を書く上での変化でした。國分功一郎さんのいくつかの著作、「暇と退屈の倫理学」での消費と浪費の話、退屈の形式の話、「中動態の世界」での中動態の文法的な考古学、そして熊谷晋一郎さんとの共著「責任の生成ー中動態と当事者研究」などを読みながら、責任について、相対化していった。

ただ、この5年間、中核にはいつも千葉雅也さんの「勉強の哲学」の存在がありました。言語偏重になること。環境のコードとしての言語。最近は色々な言語に触れたい欲がでてきました。自然言語である英語やラテン語、人工言語であるR、Python、Java。あるいは情報整理学と呼ばれる、平成に入ってブームのおきたジャンル。自己啓発本も、昔は忌避していましたが、これはひとつの服なのだ、ドレスなのだと思うと、不思議と読めるのです。そして昔よりも、それにノることかできる。歴史の本に触れるようになったのも最近です。與那覇さんの「平成史」やハンナ・アレント「責任と判断」あたりがそうでしょうか。歴史は読んでいて本当に重々しくて、苦手意識があります。けれど、触れるようになった。

これらは大きな変化で、20代の中でも自分が変わった部分だろうと思います。読書の習慣がつき、読書は生活の息継ぎなのだ、と思うくらいには読書をするようになりました。読書は、苦しい言語使用に取り囲まれて動けなくなってしまった自分の潤滑油であり、そういう言語使用に反旗をひるがえすための胎動でもあります。

あとは、自分の中のエビデンス主義、リスク管理志向、そして欲望を、どうできるか。これからの課題です。

スタッドレスタイヤの営業を聞きながら思いましたが、「これみんなつけてますよ!」という欲望の押し付けと、「これくらいの人が買ってます!増えてますよ!」という、毎度毎度繰り返されるエビデンス形式の提示が、構造としてある。あるいはもう一つ、「これをつけないのはリスクがありますよ。危ないですよ!」という、リスクマネージメントを煽る方法ですね。営業の方は決して悪い方ではなくて、お互いに条件を付き合わせて、お互いにある程度譲歩して、ほどほどのところに落ち着いたわけですが、そういう言語使用が、今は至るところにあるわけで、それには違和感があるんですね。相手に検討させる、という体裁であるけれども、その実は「自分の責任でちゃんとリスクを勘案しなよ」「他人に迷惑を絶対にかけるなよ」という規範意識が伏流している。コロナ禍にある中で、その流れに抗するのは容易ではないと、改めて思います。

「言語が消滅する前に」では、権威主義のない権威であったり、礼の発生といった話をしていて、この話も、ここ最近の自分の背中を押してくれました。他者によりかかる自分を意識しながら、これは他者の歴史性を尊重することでもありますが、そうしながら、主体化をすること。現在、言語を取り巻く環境は厳しいものだと読みながら思いましたが、一方でこの本は、弱音を吐きそうになる心を勇気づけてくれました。言葉というものは厳しくて、それは仕事をしていると肌で実感します。それでも言語を楽しもうと思えるのは、この5年で読んだ本たちの影響です。

お昼を食べて、暖かいカーペットの上に戻りました。ある程度自己目的的に書き進めて、最後に少し修正をするという書き方は、確かに機能しそうです。操作しようという気持ちが生まれて、それが通り過ぎるのを待つ。そうしたら、あとは勢いで書く。最後に少しだけ直す。いい書き方だと思います

(ねこやなぎ)

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