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書評:「君は君の人生の主役になれ」

「君は君の人生の主役になれ」ちくまプリマー新書。著者は福岡で塾を営む鳥羽和久さんで、専門は日本文学、精神分析。教師である鳥羽さんから学生へのメッセージが詰まった本です。年齢を問わず、学びながら生きようとする全ての人に推薦できます。

作家・哲学者の千葉雅也さんが本書に書評を寄せています(こちら)。本書のスタンスを理解する上でポスト構造主義の知識が有用と思い、千葉さんの著書を側に置き読み進めました。「現代思想入門」(講談社現代新書→こちら)や「勉強の哲学」(文春文庫→こちら)、「ツイッター哲学」(河出文庫→こちら)。

5つの章で構成されたこの本には、私たちが学びながら生きることを通して主役になるためのヒントがあります。主役として人生の具体にどのように向き合えばよいか。本書で扱う人生の具体は、勉強、恋愛、善悪、お金、そして将来の夢で、想定される読者は10代です。

この本の書評を、20代後半で社会人数年目の私が書くにあたり、私は過去の具体を思い出し、見つめ直しました。その作業はそのまま、私が私の人生の主役になるための過程になるはずです。他人の書いた文章を読み、自分の過去の具体的な出来事を思い出すことは、鳥羽さんの言葉で言えば具体と抽象の間を往還することでしょう(p226)。

幼稚園の頃から大学院生に至るまでの20年余りの学生生活で感じた違和感や寂しさ、欲望を思い出そうとした時間は、苦しいものになりました。就職して、人間関係や経済活動が安定してきた今だから、不安定になることを承知でこの作業ができたと言えます。

今思い出すと、学生の頃は、意味付けが難しい出来事がたくさんありました。親の言いつけで塾に通いだした小学生の頃。お互いの学力が分かり何となく進路が見え始め、友達と徐々に疎遠になってしまった中学生の頃。ひたすら自分の存在が恥ずかしくて他人と雑談ができなかった高校の頃。そして大学への進学と東日本大震災。意味付けができないままに過去になった出来事があります。断片としての出来事。説明ができません。言葉に詰まり、沈黙に向かってしまう。

大学は理系学部に進み、理系のディシプリンを学ぶ中で、普段から客観的であろうと意識するようになりました。そうなってしまった。その裏には、主観を排除したいという欲望がありました。自分の言動を常に客観視していれば、いつでも誰にでも、自分のことを説明できる。説明できなくてはいけない。そんな風に思っていました。今思うと、とても過剰な振る舞いです。主観を忌避していた。

整理し理解できなければ他人に伝えることができず、伝えることができなれば話すことができない。雑談のタネにもできない。話すことができないというより、話すことで今自分がいる環境のノリから逸脱してしまうかもしれないという怖さがあり、口ごもり、文章にしようとする手も止まってしまう。

過去を思い出すという作業をしながら、こんなことをしても無駄なのではないか?と思いたい自分がいました。過去の具体に向き合うのは苦しい。簡単には体系的に理解できないからです。あの時こうだったからこうなった、と簡単に整理整頓できるものではない。印象的なシーンは思い出せても、因果関係が分からない。

そう思いながらも、この作業を続けました。意味付け出来なかった過去の中には、私が捨ててきた私自身の違和感が、欲望が、おそらく混ざっている。絶句に至らずに、時間をかけて作業する必要があります。違和感を見つけ直すことよりもむしろ、そういった過去の断片を見つめる作業に時間をかけられるようになることを目的にしました。そしてこの作業は、ずっと一人でやるようなものではなく、他者に協力を求めることができる。他者と話しながら作業を進められる。それを忘れない。

ここで思い出した学生の頃の記憶は、私が何らかの構造から疎外された記憶と言えます。注意したいのは、今、20代後半として生きる自分が疎外感を感じる生活の場面場面は、10代のころにあったであろう疎外の構造に強く影響されているだろうということです。その疎外の構造を明らかにし、それを反復しないように変わろうと試みる。

これは、言語という他者を使用し、別の環境のノリへの移動を試みるという話に繋げることができるでしょう。この話は、先ほど触れた「勉強の哲学」の第1章「勉強と言語ー言語偏重の人になる」で述べられています。

疎外をあえて見つめようと思うのは、前向きな理由からです。私が意味付けできず過去にした疎外に目を向けて、そこにあったであろう私の欲望に気づきたい。同時に、自己に保存されている疎外の構造を変えたいと思うからです。自分で自分を疎外し、世界はつまらいものだと思い込み、退屈している暇はないんです。疎外された自分を憐れむ暇もないです。生活の喜びを見つける可能性をそんなものに譲っていい理由など、どこにもありません。

本書では、大人と子どもという二項対立が扱われます。第3章「親からの逃走線を確保する」では親と子どもが、第5章「親からの逃走線を確保する」では先生と子どもが二項になります。親や先生がいかに子どもをコントロールしたいと欲するか。子どもはどうしたら大人のコントロールから自由になれるのか。鳥羽さんはパターナリズムを批判し、一方で繰り返される生のパターン=歴史や文学へ読者を導きます(p83)。

鳥羽さんが手放しで自由を肯定しているかと言えば、そうではありません。自由は必ずしも楽しいだけのものではない。そして、辛いことも私たちには必要だとも述べられます(p201)。注意が必要なのは、鳥羽さんが辛いことの必要性を強調するのは、他者をほんとうの意味で尊重する上でだからだ、という部分です。例えば労働者として社会で上手くやっていくために、無意味にも感じる宿題を適当にやり過ごす。こういう辛さには埋没してはいけない。抵抗しなくてはいけないと鳥羽さんは述べます(p199)。

自由とは別の仕方を考えられることであり、自由の手触りは、歴史や知識を積み重ねる手続きを全く踏まずに、あるいは私たちをとりまく権力を無視して、得られるものではない。鳥羽さんの書きぶりには二項対立と脱構築の手つきがあるように思います。そして、権力について自覚され、権力を行為する自らの手を見つめ直しながら、本書は書かれています。

第2章の「あなたはもう恋をしている」(p66)を読み、哲学者の宮野真生子さん「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」(ナカニシヤ出版→こちら)を改めて読みました。恋に注目し九鬼周造の思想を読み解くこの本では、「欲望」と「寂しさ」を対とします(第三章「「自己」と「欲望」」p71)。寂しさの裏には他者への欲望がある。思うままにならない他者をコントロールしたいという欲望がある。

他者が思うままにならないという欠如があり、寂しさを感じる。寂しさを感じたくないとき、おそらく、私たちは欲望を忘れようとするのでしょう。欲望を無かったことにすれば欠如もなく、寂しさもない。これが欲しいと言うこともなく沈黙していれば、この人は何でこんなものが欲しいのだ、と他人から指摘され恥をかくこともない。

それにしても、寂しさを見つめるとのはあらためて、奇妙な作業です。違和感を見つめると言い換えてもいいでしょう。空気を読み周囲にうまくノッて話すという形式のコミュニケーションの必要さが強調された今の社会で、自分固有の寂しさや違和感を見つめるのは、一見自己の殻にこもるかのように見えます。けれどもそうではない。先ほども軽く触れましたが、ここは千葉雅也さん「勉強の哲学」に助けてもらいます。

環境依存的にノリ良く言語を使用する段階から、一旦環境に距離を取ってノリが悪くなる。言語偏重の人になろうという第1章「勉強と言語ー言語偏重の人になる」。千葉さんの言語論の原理編である第2章「アイロニー、ユーモア、ナンセンス」。なぜそうなるのか?と世界にツッコミを入れるふるまいとしての「アイロニー」。一見して大きく異なるジャンルに属する二つの言葉をあえて繋いでみてしまう「ユーモア」。

アイロニーとユーモアは、道具的な言語使用ではなく、玩具的な言語使用である。そこでは日常の言語使用は一旦脇に置かれる。日常から離れていく。どこまで離れてしまうのか。コミュニケーションが苦手というより、コミュニケーション不能とも言うべき状態。

これらを先鋭化しすぎないようにするのが「享楽」です。その人自身にある、無意味と言えるようなこだわり。千葉さんの言葉で言うと、非意味的切断。

日常的・道具的言語使用と玩具的言語使用をスイッチする。玩具的言語使用の原理としてアイロニー/ユーモア/享楽の三角形があり(p145 図3 勉強の三角形)、関心を有限にして、とりあえず勉強を進める。

そこから「来るべきバカ」へ至ることを「勉強の哲学」では目指します(p163)。来るべきバカになる過程は、自分固有のものである。君たちの数だけある。言い換えれば、人生の主役になる方法は複数である。享楽の数が君たちの数だけあるからです。出来事を受け、どのように意味付けするか。何を諦め、余った認知資源を何に振り向けるか。

自分の欲望を知るというのは難しいことです。分からない状態は苦しい。他人が志望校を真っ当そうな理由で決めているのを恨めしく思う。私はどうしたらいいのか。家族は、先生はどうして欲しいと思っているのか。

他人の欲望を引き受けることは簡単で、それゆえ抗うのが難しい。引き受ければ安心が手に入るからです。現に、わたし自身はそんな風に義務教育期間を生きました。

他人の欲望を引き受けることが悪いわけではなく、自分と他人の欲望がシームレスになってしまうことが良くない。というのは、ここでいう自分の欲望は、ある日気づいたら家の机の上にポンと置いてあるようなものではないからです。欲望は複数である。そのことをまず認める。このメッセージはもちろん、私たち大人に対しても向けられています。

宮野真生子さんの九鬼周造の話を改めて思い出します。寂しさを感じたとき、寂しさ自体を無かったことにしない。それは欠如で、苦しいものです。けれどその裏には欲望がある。欲望の裏面としての寂しさに目を凝らす必要があります。

工夫すべきは、寂しさを感じた後でどうやり過ごすか、です。私の例でいうと、寂しさを感じたときにする行動をというのを決めておくことが一つ、工夫すべきところです。身体の凝りをとる、家事をする、タスクリストの棚卸しをする、ストレッチをするなど、具体的な行動をしてみる。考えたいのであれば、どんな些細なことでも、メモやメモアプリに書く。

さて。この本は読者が生の主役となることを目指しますが、同時に重要とされるのは「他者」でしょう。この本には他者論の側面が強くある。「君」と他者の関係論。ここでいう他者には言語が含まれます。鳥羽さんは第2章「「自分の言葉で話す」って難しい」で、言語学者ソシュールを引き合いに出し、言語の他者性について述べています(p107)。

人類学者である磯野真穂さん「他者と生きる」(集英社新書→こちら)の終章で、人類学者の木村大治さんの「共在」と「投射」の話が紹介されています。私たちは普段、ルールの中で社会の一員として生きている。電車の中ではじっとし、車に乗るならば舗装された道路を走り、等々。初めて乗った電車であっても、そこに新しいルールがあるわけではなく、私たちはためらいなく初めての路線に乗ることができる。これは「共在」しているということで、共在の場合、そこにはある程度、強固なルールがある。

けれどもそのルールが破れるときもある。友達関係が恋愛関係になる場合、友達としてのあるべき振る舞いから逸脱し、恋愛関係に踏み込むような行為が起きる。今ある規範を逸脱して、新しい規範へと向かう。これを「投射」と整理しています。投射の場合、共在の段階で発生していた規範を逸脱します。新しい規範に落ち着くこともあれば、共在で固まったルールが破れ、そのまま関係が消えてしまうこともあります。

社会におけるルールの一つに「礼儀」があります。礼儀とは、弱い規範です。法律という強い規範に比べ、礼儀は弱い。中島隆博さん「中国哲学史」(中公新書)(こちら)は、礼儀とは世代を経て反復されてきた規範であると述べます(第五章「礼とは何か」p87)。礼儀は反復されることで身体性を獲得する。礼儀には世代から世代へ繋がれるものもあり、そういう礼儀はある社会に染みつく。礼儀とは私たちが共在するためにある規範の一つである。

千葉雅也さん・國分功一郎さんは「言語が消滅する前に」(幻冬舎新書→こちら)で礼の再発明について述べています。権威主義なき権威をどのように立ち上げ直すのか。権威が不必要という話ではありません。

「君は君の人生の主役になれ」には、権力を持つ1人の大人としての鳥羽さんの目線があります。その上で、大人に対し、何が大切なのかを教えることなく、大人のもつ極端な相対主義をそのまま子どもに植え付けてしまうことを警戒しなさいと述べます(p140)。

相対主義に関連して、千葉雅也さん「現代思想入門」から。現代思想の重要な概念に「脱構築」があります(p25)。脱構築は、二項対立の間隙を見つめる概念です。脱構築の前提となる二項対立についてもに説明があります(p39)。玩具的言語使用によって、脱構築が可能になります。

そして玩具的言語使用は、真面目に問題に取り組む視点から見ると、ふざけているように見えるのです(p21)。真剣に問題を解こうとしているのに、話を混ぜ返すな。ちゃぶ台を返すようなことを言うな。ただ千葉さんは、現代思想は何でもかんでもよしとするというものではなく、他者性を尊重するという倫理があると言います(p22)。

鳥羽さんにも、その目つきがあるように見えます。例えば、文学や歴史に触れ、人間の変わらない部分を見てみようと述べています。そこに私は他者論を見ます。他者とは思うようにならないもので、思うようにならない同士が一緒にいるためにルールがある。法律のように強い規範もあれば、一人で喋りすぎず相手に質問をして話してもらう、というような弱い規範としての礼儀がある。

目の前の具体的な他者に対してどのような礼が立ち上がりうるか。具体に目を向け、その場でルールを立ち上げることは、面倒な作業です。例えば今、帰省する新幹線の中ですが、車内ですれ違う人ひとりひとりに「どうやってこの新幹線で過ごすべきですか?」と聞いたりはしませんよね。逐一ルールを確認することはない。そんなことをしていたら、電車に乗る前に、並んでいる乗客たちと相談しなければいけません。「誰から先に電車に乗りましょうか。僕は電車の乗降口が来る箇所に近い位置に並んだ人から、電車に乗るべきだと思うんだけれど。」

会話のルールで思い出すのは、臨床心理学者の東畑開人さん「聞く技術・聞いてもらう技術」(ちくま新書→こちら)。社会は「聞く」の不全に陥っているとの問題意識から、話を聞くあるいは聞いてもらう上での小手先の技術を紹介し、私たちがどうして聞くことができないのかを探っています。私たちが困っている原因は、「聴く」ではなく「聞く」の不全ではないか、と述べるまえがきからすでに面白い本です。

ここで紹介される聞く・聞いてもらうための技術は、前述した人類学者の木村大治さんの言葉を借りると、「共在」を目指すための法です。徹底的に共在を見つめる。あんなに簡単だと思っていた共在が、なぜかとても難しいと思う瞬間が日常にはあります。見かけ上は話ができているのに、何をどうしたってかみ合わない。ある程度は話せるのに、相手との間に気まずい沈黙が流れ、言葉を続けられない。関係の修復が容易ではないこともしばしばです。私たちは日常会話の中で、微細な傷つきを積み重ね、それでも何とか会話をしている(p98)。この本は、聞く・聞いてもらうの現場である日常会話での規範を再発明しようとする試みでもあると思います。

私たちは生きる中で、弱い規範である礼儀を介して他者と共在する。時折ルールから逸脱し、あるいは気づかないうちにルール自体が変容していて、線を踏み越えた先で傷つき、傷つけられる。これが投射のひとつの側面でしょう。その一方で投射は、他者と出会い直す機会でもある。それは現在ある規範を破壊して行われ、規範の壊し方は一様ではない。他者と共在するための礼儀を、私たちは生の具体に合わせ、見直しながら生きています。そのことに自覚的になり、見直すための技術・工夫を勉強するというのが、重要なことだと思います。

具体に目を向ける作業は時間がかかりますし、率直に言うと面倒くさい。けれど、時間をかけることが、他者と向き合う上で非常に重要だと思います。それは東畑さんの本でも述べられています。時間を信じることが、メンタルヘルスケアの最終奥義である(p107)。これは他者と向き合うときも同様でしょう。

この話を、磯野真穂さん「他者と生きる」の終章にある「時間」の話につなげると、より他者と時間の関係がクリアになると思います。そこで磯野さんが展開する関係論的人間観・統計学的人間観と時間の話は、最節約的に他者と関わろうとする姿勢ーこれは資本主義の欲望を内面化したものと思いますがーを解毒し、時間をかけて他者や言語と向き合うことを励ますものではないかと私は思います。

まとめとして書いていきます。私たちが人生の主役になろうと思うとき、寂しさを見つめる必要があると思います。それは勉強によって可能になる。目の前の現実から距離を取り、現実を言語により解釈することで、別の仕方で現実を見ることができる。他者である言語を使用することで自己変容が起きる。

現実から距離を取るとは寂しいことで、目の前のことを環境依存的なノリでない方法で見ることになる。他者の欲望をいったんカッコにいれ、自分の欲望との違いに目を凝らす。

それは今までのノリを破壊するということで、言い換えるとノリが悪くなる。生きる勢いが減少する時期になる。けれどその時期も、あくまで人生の主役として、寂しさと欲望を見つめる。

私たちは他者によって構成される。非意味的切断としての享楽=こだわりも、他者との関係の中で生まれている。他者は思うようにならず、傷つき傷つけられる。けれど同時に他者は私を制限するものであり、その制限に身を任せてみることで、私たちは行為することができる。

絶対的な根拠を求めて勉強をし、けれどそんなものは無いのだと思い、というよりむしろそんなものは無いと信じたくなるとき、私は文章を書けなくなります。自分と世界が途方もなく遠いように感じる。日常の微細なすれ違いが、ひどく大きい傷になることがある。そんなとき、正しさに寄りかかりたくなる。近くの他者ではなく、どこか遠くにある正しさ、あるいは本質を知りたくなる。けれど、これが正しさだ、これが本質だと思っても、そう簡単には信じ切れない。今までかけた時間は無駄だったのか。ここには、「できるだけ時間やお金を節約し、最節約的に知識を得たい」という欲望があります。その欲望は、私が学校教育の中で身につけてしまったものです。

アイロニーの過剰により言語を捨ててしまいたいと思ってしまうとき、言語の他者性=有限化により、また言語に戻れるかもしれないのです。そして私たちは、生の中で繰り返し、言語に戻るべきだと思います。他者と何とかやっていく必要がある。共在するためには何でもありでは立ち行かない。規範が必要で、例えば弱い規範として礼儀がある。礼儀は固定的なものではなく、見直すことができ、そして見直す必要がある。そのことを自覚し、時間をかけて、見直し方を意識的に勉強する。それは、時間をかけて他者の方を向き続けるような作業だと思います。

他者の方を向きながら、来るべき人生の主役を待つ。

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2023年になってしまいましたが、旧年中はお読みいただきありがとうございます。今年がみなさんにとっていい年になりますように。

(20代最後の大晦日に、東北の実家で。ねこやなぎ。)

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