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擬似家族とお誕生日、『湯を沸かすほどの熱い愛』 日刊ねこ vol.10映画

甘えんぼうすぎる5歳の元保護猫と、うつで引きこもりがちの乳母(わたし)のやさしい共依存ライフ。陽気な彼氏もいます。

先日、家で映画『湯を沸かすほどの熱い愛』をみた。公開当時から見たかったもののなんとなく機会を逃し続けていたから、ほんとうにようやく、といったところ。

血の繋がりとか家族だとか映画とか

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(あらすじ)
銭湯「幸 さちの湯」を営む幸野家。しかし、父が1年前にふらっと出奔 し銭湯は休業状態。母・双葉は、持ち前の明るさと強さで、パートをしながら、娘を育てていた。そんなある日、突然、「余命わずか」という宣告を受ける。その日から彼女は、「絶対にやっておくべきこと」を決め、実行していく。

家出した夫を連れ帰り家業の銭湯を再開させる。
気が優しすぎる娘を独り立ちさせる。
娘をある人に会わせる。

その母の行動は、家族からすべての秘密を取り払うことになり、彼らはぶつかり合いながらもより強い絆で結びついていく。そして家族は、究極の愛を込めて母を葬(おく)ることを決意する。

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』オフィシャルサイト/ストーリーより

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ストーリーはこれにて割愛するが、私は”気が優しすぎる娘”こと杉咲花さんの演技に圧倒され開始10分足らずで泣きじゃくってしまった。気が優しい、なんてとんでもない。あんなに激しくて、強情で、思春期特有の情けなさを身に纏った役、どうやったら演じられるのだろう。ありきたりだが、人生何回めなんだ、と思う。6回くらい経験していなきゃ、あそこまで自然に、達観して演じられないんじゃないか?

まあとにかく彼女のお芝居が素敵だった。
同時に、この映画に出てくる女性たちはなんてしんどい思いをしているんだ、とも思って何度か泣いてしまった。

決して感動の涙ではなくて、しんどさが堪えきれなくて嗚咽してしまう、そんな感じ。それくらいストーリーに散りばめられたエピソードがエグい。しかし、そのひとつひとつが通り過ぎるまで、登場人物たちが気丈に振る舞うのだ。

最後にはなぜか晴れやかな気持ちになっている、とてもいい映画だった。(このシーンは必要か?と思うような未成年の下着にまつわる話も何度か出てきたけど…)

徹底して語られていたのは家族の素晴らしさ。加えて、血縁は愛の絶対要素ではなく(もちろん戸籍も)、多くの人にとって心のよりどころになる共同体=家族を根拠づけるための仮想の装置の一つでしかないということ。

別の映画と並べて論じるのはどうかと思うけれど、そういえば日本アカデミー賞を総なめにした『万引き家族』も、血の繋がっていない家族がテーマだった。これだけ短期間に話題の映画の主題になるということは、今が価値観の変わり目であり、裏返していうとまだまだ「血の繋がった家族」という固定概念が多くの人の中でスタンダードとなっているのだろう。

水を差すようだが、この2作品で描かれている「家族」は相当窮屈な共同体だ。狭い世界で、血の繋がらない家族たちが必死に助け合って生きている姿が今の感動トレンドなのであれば、それは社会の方にも少し歪んだところがあるのではないか。

もっと周囲や福祉などセーフティネットに頼るべきだし、それが当然のように欠落した社会が称賛の下地になっているのは非常に悲しい。映画は実際の社会を写す鏡だからこそ、感動や共感の影で浮き彫りになっている社会問題にも目を向けて改善を目指すべきだと感じた。(もちろん両方とも素晴らしい作品であることに間違いはない)

連れ子を育てる楽しさ

ところで、我が家の猫は彼氏の「連れ子」だ。
彼が前のパートナーと住んでいたときに家族として迎え入れられ、そこには先住猫もいたけれど、いろいろあって今は私と彼氏と猫の3人でひとつの家族をやっている。

家族を「やっている」というのは変な言い方かもしれないけれど、少なくとも私にとっては初めて自分で選んだ生活共同体だし、病気のこともあって試行錯誤しながらだから(あんまりしてない方だと思うけど、一応私なりにはしている)、まあやっている=演っているに近いところはある。きっとみんなある。

そして、私が臆面もなくこの共同体を「家族」と言えるのには猫の存在が大きい。一般的な猫のイメージを大きく裏切り、構って欲しがりで甘えん坊な我が家の猫は人間の子供さながらに手がかかる。そこが愛おしくて、人間2人の会話も増える。

くしくも『湯を沸かすほどの熱い愛』を見ていた日と前後して、我が家の猫は5歳になった。生後間もない乳児の状態で拾われたようなので、正確な誕生日が何日かまではわからないけれど、あの大きな赤ちゃんも人間でいうと立派な中年に差し掛かったらしい。

頑張って猫を産んでくれた母猫、保護してくれたひと、引き取って大変な赤ちゃん期を育ててきた彼氏と前のパートナー、そして今は私と彼氏。みんながリレーのように一生懸命に彼を育て、愛し、彼に癒されてきた。

いつも控えめに自分のことを「猫の乳母」と呼んでいるのだけど、まあ呼称はどうでもいいのかもしれない、と思い始めた。血が繋がっていなくても、何人めの育て手であっても、家族であることに変わりはないし。

いかにも弱々しい状態で保護された子猫が5年間も立派に生きていてすごい!たくさんの人に応援されて愛されて育ってきたこの命と、今家族でいられることが私はなんだか無性に嬉しい。

血の繋がらない家族、ステップファミリー、これからもどんと来い。私はそういう生き方にするって、前から決めているのです。そう思わせてくれたのも、まぎれもない愛しの猫がきっかけ。これからも楽しみだな。



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