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『灰の劇場』 恩田陸

表紙から、見返しをめくった先、また裏表紙の見返しまで、グレー調の町の写真が続く(ぱっと見て江東区辺りかと思ったが、よく見たら大田区だった)。
本書を読んだら、もう一度この写真を眺めてみてほしい。二人の気配が漂うのをきっとあなたも感じるだろう。

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大学時代からの友人同士であり、一緒に暮らしていた二人の中年女性が、橋から飛び降りて死亡した。
作者を思わせる小説家「私」は、この事件の小さな記事を新聞で目にして以来、それを心に刺さった「棘」として抱えていた。そして新聞記事を見てから20年の歳月ののち、「私」はこの事件を題材にした小説に取り掛かる。
やがて、完成したその小説は舞台化されることになり、「私」はその舞台の制作過程に立ち会う。

(1)亡くなった二人の女性の物語、(2)小説を書こうとしている「私」の語り、(3)舞台化を前にした「私」の語りと体験が、入り乱れる形で進む。
抑制された、物悲しく、美しくも冷たい小説だ。

学生時代以来、久しぶりに交錯した二人の人生。ちょっと羽根を休めて、一緒に一休み。
やがてまた、それぞれの人生に戻っていき、それぞれの未来を生きる。
そう、この時点では——恐らく、この時の二人は、きっとそう考えていたのだ。

作中作ともなっている、二人の女性のパートは、その行き着く先が分かっているだけに、心に重い。
亡くなった1994年当時、44歳と45歳。現在と比べるとまだ旧平な価値観の社会で、彼女達はそれぞれに、女として賢く人生を選択してきたはずだった。着実に。堅実に。
何が二人を結びつけ、やがて死を選ばせたのか。
文章から、時代の空気と二人の孤独な心情が立ち昇る。

対して「私」のパートは、非常に繊細で内省的なエッセイのような文章だ。
現実と虚構のはざまに生きる小説家という職業。創作を追求することと、そのゴールなきゆえの不確かさ。誰も気づかないような些事への、ざらざらとした違和感。
それらが、冷ややかなほど研ぎ澄まされたトーンで語られる。

モノを作る、あるいは演じる。それはパソコンの中であれ、劇場であれ、映画の画面の中であれ、「場」を作りそこに何かを招聘することであり、何かを出現させることだ。

二人の女性のパートで、印象的なひとつのシーンがある。
結婚式の披露宴会場で、二人(片方は新婦、もう片方は友人として出席している)だけにしか見えない羽根が天井から大量に降ってくるという場面だ。
物語の中でも際立つ場面だが、それだけでなく、このシーンは、小説家「私」のパートでも意味深い登場をする。
舞台のプロデューサーが、この幻想的なシーンをクライマックスに持って来ることにこだわるのだが、ある理由により、「私」はそこに後ろめたさを感じるのだ。
羽根が降るシーンそのものと、この「私」の戸惑いが書かれた部分。ダブルで強い印象を与える、巧い書き方だ。

「私」は小説を書き終えた今も、2人の女性の物語を納得して消化できていないように思われる。
その不安によるものなのか、じわじわとした恐怖や気味の悪い幻想が「私」を弄ぶ。

2人の女性のパートが小説家の生み出した虚構、「私」のパートが小説家の現実として書かれているにもかかわらず、読む感覚としては、前者の方が現実的であり、後者の方が空想の物語のようだ。
それはまさに、「私」が翻弄されている、現実と虚構を巡る混乱とリンクしている。作者の緻密な計算に脱帽した。

現実の出来事と虚構のような幻想が、作者の思考を導き、私達読者も物語に幕が下りるのを見届ける。
時間を忘れて息をひそめて読み、最後の一行とともに、ひそめていた息をゆっくり吐き出した。

恩田陸の作品を読むのは初めてだったが、なんとなく持っていたこの作家のイメージががらりと変わった。
すごい小説だ。