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『そこでゆっくりと死んでいきたい気持ちをそそる場所』 松浦寿輝

インパクト大な題名とおしゃれ怖い装丁のこの一冊。
12の短編を3作品ごとにまとめた4部構成になっているが、その各部には例えば次のようなタイトルがついている。

・黄昏の疲れた光の中では凶事が起こる…
・冷たい深夜の孤独は茴香の馥りがする…

これらを読んで惹かれるものを感じる方ならば、本書を読んできっと満足できるはずだ。
期待通りの不気味、暗澹を心ゆくまで堪能できること請け合いである。
(同時に、かなり好き嫌いが分かれる本でもあるだろう。)


内容をざっくり言うと、「男のエロスと弱さ、自嘲と自己愛のごった煮」であり、ここも好みが分かれるところか。
起伏のない自分語りが続く小説は好きではないという方にはあまりおすすめできない。それほどくどい描写があるわけではないが、性的な内容は苦手という方にも向かないかもしれない。
逆に、例えば、吉行淳之介がかなり好きという方にははまりそうだ。


・死の気配

また一人になったな、一人ぼっちに戻ったんだなと彼は思った。帰りを待ちわびていた妻や子どもの顔を思い出そうとして、それがどうしても浮かんでこないことに気づいても、さしたる驚きもない。

題名も示す通りだが、全作品を通して、死を思わせる無音の薄暗さが支配している。
プールサイドで突然孤独に襲われる男や、ゲイバーで見知らぬ客に絡まれる男。
主人公たちは本人が気づいていないだけで、もうすでに黄泉の国に片足を踏み入れているのではと思わせる。

・曖昧な記憶

そのとき不意に蘇ってきた記憶があり、その記憶の中で彼は階段をゆっくり下りてゆく自分の後ろ姿を見ているのだった。

本書ではまた、記憶という題材が繰り返し扱われている。
子供の頃の妙に怖い記憶で、現実にあったことなのか悪夢の断片なのか定かでなくなっているようなものを、皆様はお持ちではないだろうか。本書に出てくるのは、そのような類の記憶だ。
ある主人公は顔に触れるカーテンの記憶に惑わされ、また別の主人公は小さくて丸い物の感触を記憶にたどる。
曖昧な記憶が生ぬるく引き出されてくる心地悪さがたまらない。

死と記憶をジャグリングする、じっとりと黒い作品たち。
興味のある方は、ぜひこの毒気に陶酔してみてほしい。

・フィリップ・モーリッツ

表の扉に**画廊という小さな札がかかってはいるが、ガラス越しに薄暗い屋内を覗いてみてもがらんとした曖昧な空間が広がっているばかりで誰もおらず、また何が展示されているわけでもない。・・・

異国の画廊との交流が描かれる短編は、本書の導入部であり、比較的穏やかながら読者の心を鷲掴みにする一作だが、この作品ではフィリップ・モーリッツという造形作家の版画について書かれている。表紙に使われている版画もモーリッツによるものだ。エドワード・ゴーリーやエドワード・ケアリーに通じる、不気味で不吉でゾクゾクする版画である。
この芸術家を知ることができたのも、本書を読んだ収穫であった。