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『屋根屋』 村田喜代子

子供の頃、夢中で読んだ本がある。『夢のつづきのそのまたつづきーリッペルのぼうけん』という本だ。
リッペルという少年が、一続きの夢を毎晩見続け、その夢の中で仲間と出会い冒険をして、同時に現実の少年としても成長していくという物語である。

村田喜代子の『屋根屋』を読みながら、懐かしいこの本を思い出した。
『屋根屋』の舞台は2010年前後の北九州。主人公は40代後半の平凡な主婦。
ドイツの少年のお話がどうして、日本の中年主婦の物語とリンクするのか。
それは、この主婦が夜な夜な夢の世界に出掛けて行き、一続きの夢を追って冒険をするからである。

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主人公は、平凡だがそれなりに優雅な(数年おきに女友達と海外旅行をするような)生活を送る専業主婦。会社員の夫と、高校生の息子がいる。
ある梅雨時、屋根の雨漏りがひどいため、主人公と夫は屋根の修理を頼むことにする。
「屋根屋」とは屋根修理専門の工務店のことであり、やってきた職人のことである。

「汚れた船のような」仕事靴を履き、古めかしい博多弁を話す屋根屋は、朴訥としながら妙な凄みを持つ男だ。
作業中に降り出した雨のため家の中で雨宿りをしたり、昼食におかずを出してもらったりするうちに、屋根屋は主人公に興味深い話をするようになる。
彼は、妻を亡くしてから発症した強迫神経症の治療のため夢日記をつけはじめ、以来もう何年も続けている。そして、今では自分の思う通りの明晰夢を見ることもできるようになった、というのである。
そして興味を持った主人公に対し、ある日屋根屋は「夢の誘導」を申し出る。

「安心して先に行ってください。私も後から追いかけます。向こうで必ず逢えますから」

こうして2人は、夢の中で逢瀬を重ねるようになる。
屋根を愛する屋根屋が連れて行く歴史的建造物の寺院の屋根で、まさに「夢の体験」をする主人公。
彼女はじわじわと麻薬のように、夢を見ることに執着し始める。自分達の夢行きは多難含みの気がする、とそんな彼女を牽制する屋根屋。

主人公の執着はあくまで明晰夢の体験に対してであり、屋根屋への男女の感情は、ごく微かなもののように思われる。屋根屋は「友達でもなく、異性とも言えず、屋根屋」なのだと文中でも語られる。

彼女の熱意に押されるように次の「夢行き」を承諾した屋根屋だが、その夢の計画は、数夜をかけてフランスの有名な寺院の屋根を巡るという壮大なものだった。
そして、勇む主人公とそれをいさめる屋根屋という立ち位置がこの辺りから逆になり始める。夢の中で寺院の屋根に並んで座りながら、屋根屋は主人公に、このまま二人でここ(=夢の世界)に住まないか、と誘いをかける。

その後屋根屋は同じ誘いを、別の夢で出かけた法隆寺でもまた持ち出すのだが、もはやこの夢自体がそもそも主人公が一人で作り出した夢または妄想ではないのか、その夢を見る前の現実のあたりからして夢とうつつの関係が怪しいことが後に分かる。

そして本当の現実の世界では、屋根屋は失踪しており、工務店はシャッターを下ろしたまま廃屋と化して行くのだった。

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一体どこからどこまでが現実だったのか。
屋根屋はどうなったのか。
屋根屋との冒険は主人公にとって何を意味しているのか。
じっくりと考えを巡らせたいことがたくさん出てくる、そして読み終わった者同士意見を交わしたくなるような小説だ。

単行本の表紙はシャガールの、空を飛ぶカップルの絵である。
抱き合う男女が空を飛び、空中に動物がぬっと現れる、シャガールの絵はまさに夢をそのまま描いたような世界だ。
著者はこの小説を、シャガールの絵から発想を得て執筆したのだろうか。だとしたらなんて独創的で素晴らしい創作だろうと思う。

現代日本の地方都市に埋もれる中年女性と、鮮やかな色彩が絡み合いたゆたうファンタジーの世界。なかなか生み出せない組み合わせだ。
それが決してふわふわしたメルヘンではなく、骨格のしっかりした小説であるところは、作家としての鮮やかな腕前だろう。
そしてそこにひたひたと描き出される男女の情念、さすが村田喜代子である。
力量に改めて感服した。