『アトランティスのこころ』 スティーヴン・キング
1960年から現代までのアメリカを、いくつかの人生に乗せて描いた長編大作。読書の高揚感をかき立てる、上下巻組の大型本だ。
物語の幕開けは1960年、コネティカット州郊外の住宅地。11歳の少年ボビーは、母親と二人でつましく暮らしている。
ボビーには毎日つるんで遊ぶ気の合う友人がいて、恋人になりそうな女の子もいる。目下の関心事は、どうしても欲しい自転車を購入するために、お金を貯めること。
そしてもうすぐ夏休み。
それは夏空そのもののように晴れ渡った日々になるはずだった。
ボビーの日常に嵐の影が忍び寄る前兆は、アパートメントの上階に、一人の老人が越してきたことだった。
その老人テッドに、ボビーはなぜか惹かれるものを感じる。
気さくで博学、そしてまるで読心術が使えるかのようにボビーの気持ちを読み取るテッドと、急速に距離を縮めるボビー。「物語がすばらしくおもしろいうえに、文章もすばらしい本」としてプレゼントされた『蝿の王』を読み、文学の世界にも目覚めていく。
しかしテッドは何者かから身を隠しているようで、あれこれの怪しいしるしを見つけたら報告して欲しいと、ボビーに奇妙な依頼をする。
テッドが気にする「下衆男たち」。彼らの「目印」である派手な車や上下逆さまの広告、電線から垂れ下がる凧の尻尾など。話を聞きながら「なんだ、この人は頭がおかしいんだ」と考えるボビー。
実際テッドは精神を病んでいるのか。とすれば、心を読んでいるように感じたのは単なる勘違いなのか。
ボビーはテッドに魅力を感じる反面、その正気を疑ってもいたのだが。。。
老人の妄想だと思っていたものが徐々に現実化しはじめるあたりから、物語はバイオレンスを含みながら加速し、ボビーの夏休みは禍々しいものへと変貌していく。
子供らしい気安い世界から引きずり出され、恐怖と苦痛の経験を経て、もう自転車など欲しがる無邪気な子供ではなくなっていくボビー。その顛末が、スピード感のあるストーリー展開で物語られる。
海岸沿いの遊園地、年上の不良少年たち、子供が足を踏み入れてはいけない怪しい界隈といった、読み手を引き込むギズモが散りばめられた超能力SFは、キングの真骨頂だ。
と、ここまでが上巻である。
実はこの長編作品は、まるまる上巻全部を使った一編と、続く下巻に収められた四篇の、五つの長中短編からなる、やや特殊な作りになっている。
下巻の巻頭になる2編目は、ヴェトナム戦争最中にメイン州の大学で寮生活を送っている若者が主人公の物語。
とあるように、ヴェトナム戦争が始まり、反戦運動や新しい価値観の波に飲まれていく青年達の姿が生々しく描かれている。
とはいえ物語の大半が、カードゲーム中毒になって落第ギリギリの危うい生活を送る主人公の単調な日々で埋められており、学生寮のむさ苦しい空気が漂ってきそうなほどリアルな描写が印象的な青春小説だ。
続く3編目は、80年代のニューヨークで過去を背負って三重生活を送る男の物語。彼のとても独特な贖罪の生活が、饒舌な心情描写を駆使して語られる。私が読み物として一番楽しめたのはこの作品だ。
4編目は、50歳になるヴェトナム帰還兵の物語。終盤の、全く予期せぬカタストロフの中で、彼のくぐり抜けた戦争の狂気と、永遠の安らぎである少年期の記憶が繋がる場面が、恐ろしくも美しく胸を打つ。
魔法に満ちた子供時代。不遜で必死な青年時代。悔恨と答えのない問いが煮詰まった人生の秋。それらを写し取ったそれぞれに読み応えのある物語は、一話目でボビーの周辺にいた3人の人物が、後の3つの物語で主人公あるいは関係者として登場するという形で繋がり合う。
少年時代の数年間という、人生の中ではほんの短い期間ながら、人生を決定づけるくらいに濃厚な関わりを持った彼らが、その後どのような道を歩み、互いに離れ、また再び邂逅したのか。
最後の短い一編では再びボビーが登場し、大長編は胸に迫るラストを迎える。
なにしろ長い作品なので、ここに紹介し始めたらキリがないほど様々な仕掛けやメタファーが出てくる。人名も容赦なく大量にとっかえひっかえ登場するので、かなり集中力が必要だ。
キング作品としては、シャイニング、キャリー、スタンド・バイ・ミー、ミストなど、代表作それぞれのエキスを感じられ、言い方が妥当かは分からないが、集大成的な満足感もあるのではないだろうか。
座り心地の良い肘かけ椅子またはソファー、体をすっぽり包める毛布、そして読書に没頭できる数時間。これらを確保して、長い物語を楽しみたい。
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付録として、一編目に登場したクールな老人テッドのセリフで、私が気に入ったものをいくつかここに書いておこうと思う。
ボビーが夢中になるのも納得の素敵な人物だ。