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『ピュウ』 キャサリン・レイシー

こんなに心に訴えかける本はなかなかない。とにかく読んでほしい一冊だ。


この物語の視点であり語り手は、ピュウと呼ばれる人物であり、これは、ピュウがある町に現れてからの一週間の物語である。

わたしは誰の息子でもなければ、誰の娘でもない。それは計り知れない自由であり、計り知れない重荷でもあった──帰ることのできる家も、帰るべき家もないことは。

どこから来たのか分からない。人種も年齢も、性別も定かでない。何を聞いても一切言葉を発しない。そんな不思議な少年/少女が、ある町にある日突然姿を現し、住民たちは彼/彼女をピュウと呼ぶようになる。

ピュウ(pew)とは、教会の信者席のこと。座り心地のそれほど良さそうではない、長い木の板を横に渡してある、あの座席である。
ピュウは、教会の信者席で寝ているところを発見されたため、便宜上ということでピュウと名付けられたのだ。

謎めいたピュウだが、人々はピュウを前にすると、なぜか自然と、つらつらと自分のことを語り出す。
過去の思い出、記憶に残っている夢、そして心の奥に隠している思いや不安を。

人々はピュウを前に話をする。
ピュウはひたすらにその話を聞き、相手を観察する。
彼らの語りを読みながら、読者はつい主観をそこにかぶせたくなるだろう。この人は本心でこの発言をしているのか。語られている内容は真実であるのかないのか。何かしら探りたくなり、またジャッジしたくなるだろう。
しかし、ピュウは探りもしなければジャッジもしない。ただ、聞いて、静かな思考を巡らす。肯定も否定もせず、ただ見つめて純粋に問いを生む。

住民たちの語る内容や行動から、彼らが敬虔で、善良を旨とした人々ではあるが、ここが息苦しさと視野の狭さの否めない南部の町であることが分かってくる。
そしてピュウの見るもの聞くこと、その身に起こることから、やがて、この町の住民たちの隠し持った顔、彼らを縛っている恐ろしい信仰が浮かび上がってくる。

物語の不穏さの中心にあるのは、その週末に執り行われることになっているらしい「祭り」というものだ。

だれかに聞いたかもしれないが、今週の土曜日は祭りがある。一年のうちでとても重要な日でね。住民全員が参加すること、参加する意義を一人一人が噛みしめることがとても大事なんだ。

この時期は──悪ってもののことを四六時中考えちまって──

心配することはなにもない。
ええ、もちろんよ。心配なんてしないで。
わたしたちは、儀式というものをとても重んじているんだ。

様々な住民たちが祭りに関して語ることからは、なにか不気味で邪悪な気配が感じられる。多くの読者の脳裏に、シャーリー・ジャクスンの『くじ』がちらつくに違いない。

いよいよ祭りの当日に、ピュウの身に何が起こるのか。
最後まで謎に満ちた物語を見届けて、読み終わって何を思うかまで、自分の心を観察しながら味わいたい。

ピュウとは一体何者だったのだろう。
その解釈は読者一人一人が自分の感覚に依って生み出すのが良いと思う。
そこに宗教的なものを見出すこともできるだろう。
ささやかに置かれたいくつかのヒントから、ピュウの正体を文学的に探るのも、小説を読む楽しみだ。
私は、ピュウという存在は純粋な案内役であり、その観察を通して作者は人間の様々な本性を示そうとしている、と解釈した。
となるとピュウが見せているのは人間の弱さ、愚かさなのか。あるいは「祭り」に象徴される、善から始まる狂気の恐ろしさなのか。そこにはまた、ミシシッピ州育ちの作者が感じている、アメリカ南部のコミュニティが今も持つ息苦しさも投影されているのかもしれない。
再読すればまた違う解釈が生まれそうだ。

独特な感覚を持ち、深く純粋な思考をするピュウの、その心の中で語られる言葉は、一つ一つが哲学的であり、それだけで読み応えがあった。

言葉はいつも、どれだけ骨を折ってもどれだけ意を尽くしても結局は伝えられなかったことの曖昧な言い換えにすぎず、そこには常に空白がある。

わたしたちは、知らず知らずのうちにどれだけの害をなしているのだろう。自分はこんなにも善良だと思いこみながら、実際はどれだけの害をなしているのだろう。

ピュウの言葉は鋭い。
私たちが生きていく中で時として陥る自己嫌悪や無力感。できれば目を逸らしていたいそれら、いわば人間の限界を、ピュウは直視する。
しかしその言葉は虚を突くと同時に、どこか安らぎも与えてくれる。

「祭り」で行われる強迫的な赦しではなく、ピュウが語る言葉にこそ、赦しの本質を感じた。