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『散歩の一歩』 黒井千次

老作家の日常と住む家、住む町にまつわるあれこれが綴られる。
平日の昼の住宅地に注ぐ暖かな陽射しやどこからか聞こえる作業の音の何となくのどかな響きが、行間から立ち上ってくるような穏やかなエッセイ集である。

前に紹介した『ビル・ビリリは歌う』に収められた短編作品の中では、引退初老男性がよく散歩していたが、彼らの散歩には夫婦間の微妙な空気が後を引いたり、過去に鎮火した恋のかすかな煙が漂ったり、奇妙で幻想的な出会いが潜んでいたりした。
しかし今回紹介するこちらの本では、語り手が初老男性、よく散歩するというところまでは同じだが、なにぶん主人公が著者自身、実在の一市民なだけに、散歩の情景も散歩者の心境も日常的でリアルだ。
すれ違う人々の携帯通話率に思いを巡らせ、駅前デパートの改装を通いで観察する。題材は身近で気負いがない。
とはいえさすが言葉紡ぎの名手、その文章の味わい深さは文学作品級だ。
(特に私が好きなのは「金属のプレート」という短い文章。地方の街の小さな喫茶店について書かれた3ページに満たないエッセイの中に、完璧に美しいドラマがある。)

著者は1932年生まれ。戦前に幼少期を過ごし、戦中戦後を経験した世代だ。
時代の変化を、卓越した感性はこうも詩的に表現するのか。何気ない話題にさらりと差し挟まれる下のような記述に、はっとする。

近頃は室内に夜景が生まれている。電話機があれば、その上には電源の赤い光が見えるし、テレビやテープデッキも赤、青の小さな灯を消さないし、その他ファクシミリ、浄水器、保温状態の電気釜なども、様々な色の小さな明かりを終夜輝かせる。・・・電気器具が眠らないその分だけ、屋内の夜が浅くなったのだといえよう。

また下のような、書き留めておきたくなるような一節も。人生の先輩の言葉には重みがある。

老年期の充実は、老年になって始まるものではない。幼年時代からの限りもない経験の堆積が、ようやく老人の日々を満たしてくれるものに違いない。したがって、人間として貧しく生きた人の老後は貧しいものとなるだろう。たとえ暮らしの上でどれほどの辛酸を嘗めていようとも、それを身体の芯で受け止めてきた人の老年期は、豊かなものとなる可能性を宿しているに違いない。

背筋が伸びるような示唆に富む一文、ほろりとさせる抒情的な描写の一方で、等身大の著者が垣間見える箇所もふんだんにあって面白い。
ちょっと身勝手だったりお茶目だったりするその横顔に心が和む。

悲喜こもごも織り交ぜて人は日常を生きていくのだなと、自分の暮らしにも改めて愛情が湧くような、まろやかな味わいの一冊だ。