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『甘美なる作戦』 イアン・マキューアン

「贖罪」、「アムステルダム」のイアン・マキューアンによる、英国スパイ恋愛文学小説である。

70年代ロンドン。
主人公は大学を出たばかりのセリーナ。
高校までは成績優秀だったけれど大学での成績はいまひとつ。
そんなセリーナは大学時代に一人の教授(トニー)と出会い愛人となり、彼に勧められて、MI5(国家保安部)に入所することになる。
(この教授からは入所前に突然別れを告げられ、その後彼の死亡の報が人づてに伝わる。)

機密機関の一員となることに胸を高鳴らせたセリーナだが、蓋を開けてみると組織内で女性は出世コースの蚊帳の外、単なる事務員の地位しか用意されていなかった。
しかしそこはぐっと堪えるセリーナ、これも今は亡き元愛人が自分に残した形見と思って組織の事務員としての単調な仕事を淡々とこなす。

そうしているうちにとうとう、上から彼女に特別な任務が与えられる。
それは、ある作家の極秘の支援。
MI5はプロパガンダ工作として、目星をつけた反共産主義の作家に秘密裏に助成金を送っている。
架空組織のエージェントという隠れ蓑をかぶって、その対象作家の一人であるトム・ヘイリーに接触するというのが、彼女に与えられた任務である。
任務についた彼女は、お決まりのように、瞬く間にヘイリーと恋に落ちるのだが。。。

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本作はスパイものではあるのだが、「恋愛もの」、「文学もの」でもある。

恋愛ものとしての引力は、主人公の魅力に依るところが大きいだろう。
感情的で公私混同に陥りがちな、スパイらしからぬ主人公セリーナは、美人で優秀であるにも関わらず、多難だ。
歳上の愛人から不条理に振られ、後で重大な裏切りまで発覚する。
親友と思った同僚からも騙していたと知らされ、職場では無実の嫌疑をかけられ。

悲しみに打ちひしがれて、わたしはのろのろとグレート・モールバラ・ストリートを歩きだした。仕事とトニーはおなじひとつのものの側面であり、ひと夏の感情教育だったが、それが四十八時間のうちに崩壊してしまった。彼は妻と大学に戻り、わたしにはなにも残されていなかった。・・・通りの向こう側にふと目をやると、意地の悪い偶然から、リバティの見かけだけチューダー様式のファサードのそばに来ていた。そこでトニーがあのブラウスを買ってくれたのだ。

心理描写はリアルで心に響く。
どこにでもいそうな若い女性として描かれる主人公は感情移入しやすく、健気な彼女を応援したくなるのだ。

恋人もなく一人で簡単な夕食を作り、小さな部屋で毎晩読書をして過ごす生活の描写は切なく、そんな彼女が新しい恋に飛び込んでいくのをハラハラしながら見守るのはこの小説の醍醐味である。

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本書の文学ものとしての面白さは、セリーナ達の口を通して語られる小説論、出版界や作家に関する見解にある。
小説好きであるセリーナと小説家であるヘイリーが文学論議に興じる場面では、エリザベス・ボウエンやミュリエル・スパークなど、様々な作家と作品の名前が登場し、イギリス文学に造詣の深い方には面白く読めるだろう。

ある箇所では、セリーナの元愛人が、本を開いたまま伏せて置いてはいけないと叱ったというエピソードが出てくるのだが、それに続く以下の記述などは著者の意見そのものではなかろうか。

そんなことをしていれば、本の背が傷んで、決まったページがひらくようになり、それは作家の意図にもほかの読者の判断にも恣意的かつ筋違いな押しつけをすることになる

また別のところでは、オースティン賞と比較してブッカー賞を「騒々しい年下のいとこ」と表現するなど、ユーモアもにじむ。

以下の引用のように、セリーナが自身のつましい生活を語る独白にさりげなく文学ネタが添えられているのもにくい。

最下級の事務員としての私の最初の週の給料は、控除後で、十四ポンド三十ペンスだった。・・・部屋代に週四ポンド、電気代に一ポンド支払った。・・・こういうディテールをあえて紹介するのは不平を言うためではなく、むかしケンブリッジでその小説を大急ぎで読んだことのあるジェイン・オースティンの精神に則ってのことである。・・・ある人物の経済状況を知ることなしに、どうしてその内面生活を理解できるだろう?

また作中にはヘイリーの書く小説もいくつか登場し、それらのストーリーを読むことができる。
一つ一つが面白く印象的なストーリーで、おまけつきのような嬉しい読書ができる。

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もちろん、スパイものとしての、謎と疑惑とハラハラも、しっかり楽しめる。
最後の最後には、「こう来たか!」という展開を見せ、そして最後の一行を読む時に味わえる感情はなんともいえず素晴らしい。

マキューアンの筆力と知性、知識をたっぷり味わえると同時に、恋をしている人なら今の恋がさらに燃え上がり、恋にご無沙汰の人なら忘れていた情熱を思い出す、そんな活性化作用もある一冊だ。