『牧師、閉鎖病棟に入る。』 沼田和也
本書は、牧師の沼田和也氏が、3ヶ月の精神病棟への入院を通して見知ったこと、学んだことを綴ったエッセイ/ノンフィクションである。
幼稚園の理事長兼園長としての仕事に忙殺されストレスが爆発してしまった氏は、妻のすすめに従って精神科の病院に入院する。
自分自身が入院患者となったことで、今までの自分が牧師としての役割とはいえ、その溝を自覚せずに「わたしたちは一つになって祈っている」と思い込んでいたことは、勘違いもはなはだしかったと気づいたと著者は書く。
この部分からも分かるように、本書では一貫して、著者の心が感じたことが率直な言葉で語られている。
入院するのは自分なのに、様々な誓約書にサインをするのは妻。かつては自分が保証人としてサインをする立場だったのに今の自分は保証人になってもらう側。
それを情けなく思い、情けなく思うことを情けなく思う。
そんな、自分の内の「差別意識」すら著者はごまかさず曝け出している。
そんな著者が語る精神病院の閉鎖病棟(より重度の患者が入院する、施錠された病棟)の内側。入院患者の目から観察されているという点で、貴重なドキュメンタリーである。
精神病院を取材したルポ番組などでしばしばあるように、その悪環境を告発しているわけではない。あくまで平な目線で「こんなところでした」と書かれているあれこれは、章の区切りに挿入されるイラスト入りの豆知識コラムも含め、ユーモラスな語り口もあり、重くならずに読める。
しかしその内容は、精神を病んだ人の人権、「社会的入院」(医学的な必要性からではなく、生活上の保護者がいないために長期にわたって行われる入院の措置)の問題、看護師の肉体的精神的負担など、日本の精神科医療の抱える多義にわたる難題について考えさせるものである。
著者は特に、病棟で共に過ごした10代の少年患者たちについてページを割いている。
少年からこう聞かれて、著者は何も答えられなかったという。
複雑な環境で育った少年達。著者が語る彼らの素朴な言動を読むと、彼らは精神病者ではなく、環境の犠牲者のように思えるが、しかし、環境が違ったら精神病棟に隔離されることもなかった、と安易に言えるわけではない。
さらには、病院は「勉強するところではない」との理由で、彼らが望んでも静かに学習をする場所は提供されないため、入院が長引くほど彼らの社会復帰への門は固く閉ざされる。
しかしそれは必ずしも、病院の対応が問題なのではない。負担過多な看護師の状況など、解決のためには相当抜本的な変革が必要だろう。
考え込まされる。
本書はまた、一人の真面目な牧師が精神を病むまで、そして回復とその後を、当人自らが明晰な文章で綴っている、示唆にとんだエッセイでもある。
牧師兼幼稚園園長としての業務の負担から、周囲に壁を作り自分の殻に閉じこもっていた頃、ツイッターでの自分語りに依存していたことなどが赤裸々に語られている。
見方によっては強硬とも見えるが、それだけ精神科医としての責任感と自信に満ちた真のプロであろうと思われる主治医との治療の過程、そしてその後のプライベートでの信頼ある関係については、読んでいて目頭が熱くなった。
著者の回復では、「相手にも言い分がある」と考えられるようになったことがポイントだったという。
トラブルがあって自分が精神的に追い詰められたときに、相手にも言い分があると考えることは容易ではない。
精神の健康状態に関わらず、著者の気づきは読者にもアドバイスを与えてくれる。
明快な言葉でさらさらと語られているが、教えてくれることの多い一冊だ。
潔くさわやかな良書である。
牧師にも精神病院にも興味がない人も、一度手に取ってみてほしい。