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『チェルノブイリ 「平和の原子力」の闇』 アダム・ヒギンボタム

威嚇するようなその厚さ、毒々しい黒・赤・黄の表紙。手に取るのを躊躇するような本だが、一度読み始めると抜け出せなくなる。

ずっしりと重いこの一冊に詰まっているのは、核施設の恐ろしい爆発事故について取材調査した、緻密で克明な記述である。
著者は本書で、チェルノブイリ原子力発電所建設までの背景と道のりから、未曾有の大事故に至った経過、事故後の技術的及び政治的な対処、放射線を浴びた人々の身に起きたこと、現在までの関係者の姿までを、その場に居合わせるような臨場感をもって詳細に記す。
難解な言葉も多い専門的な内容ながら、ページを繰る手が止まらない。
原子力発電の仕組みや原子炉の構造についても詳しく記述されているので、門外漢だった人でもこれを読めばかなり原発についての理解が深まるだろう。

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チェルノブイリ原発では、RBMKという原子炉が使われていたが、RBMKには、設計の段階で技術的な問題があった。中性子減速材に黒鉛を使用しているため、炉心の温度が上がり蒸気が増えると、減速される中性子の数が増えて温度の上昇が続き、爆発に繋がりかねないという「正のボイド反応度係数」の問題があったことと、原子炉の出力調整と緊急停止に使われる炭化ホウ酸を装填した制御棒が、その先端に黒鉛をぶら下げているため、制御棒が挿入される最初の段階では核分裂の反応が逆に上がってしまうという、「制御棒の先端作用」の問題である。
どちらも原子炉として稼働するには致命的な問題だが、恐ろしいことにこれらは無視されて原発の建設稼働が進められたのだ。
官僚主義がはびこるソヴィエト帝国で、科学者たちが身につけてしまっていたのは、忌わしい秘密主義と隠蔽文化であった。
操作上の偶然が重なれば、いつ爆発が起きてもおかしくない設備が、国家的な秘密主義により、問題を隠した上で運転されていた。そして、大事故が起きたのである。

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事故の最初の、そして最も壮絶な犠牲者は、当日その場で働いていた技術者達だった。
いずれも有能で希望に満ちた若者達である。
彼らは自分達が動かしている原子炉が欠陥を抱えたものだなどとは知る由もなかった。RBMKが、新しい時代の夢の技術と信じて疑わなかった。
技術者の一人は、爆発で部屋の壁が歪み蒸気が吹き込むという状態にあっても、頭に浮かんだのは「とうとうアメリカとの戦争が始まった」ということだったという。専門知識を蓄えた科学者が、それほどまでに原発事故は起きないということを信じきっていたのである。

そしてやるせないのは、そのようにして意味のわからないまま爆発を目の当たりにし、命を顧みずに職業人の使命感で現場の対処にあたり、放射線症で壮絶な苦しみのうちに亡くなった若い技術者達に、事故の責任が被せられたということだ。

事故後の権威機関の対応は、ひどいものだった。
隠蔽主義は徹底していて、被害者が入院している病院にKGBがいて誰も中に入れず、家族にすら何も知らされなかったという。
当時の書記長ゴルバチョフは世界への情報開示が重要と考えたが、KGBをはじめソヴィエト国家の諸機関には、事故について機密にすべきという立場が根強かった。
そして政府調査委員会は事故の原因を全て所員の原子炉運転規則違反とし、原子炉の設計に瑕疵があったことは隠した。

事故の責を問われ刑を受けた原発の所長ら上層部の人々は、その後秘密主義が解かれた国家で事故の真相が再認識されたことで、汚名が薄らいだ。それでも無念を晴らしたとまではいかないが、命を落とした上に事故の犯人とされた若者達のことを思うと本当にやるせない。

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コントロールの効かなくなった原子炉を鎮め、さらなる壊滅的な惨事を防ぐための手探りの措置、そして除染は、一刻の猶予もない任務だった。
失敗の許されない極限状態で考え指揮をとった人々の奮闘そして精神力は、まさに英雄的であった。
そして上役である彼らも含め、実に多くの人々が恐ろしい前線で文字通り命を削る任務につき、放射能による犠牲者のリストに連なった。
政治局は、高汚染地帯での作業のために全国の若い徴募兵を続々と投入したが、召集の理由については「特別演習」のためと説明したという。

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この本を読んでいる数日間は精神的にやられていた。明らかに読書の影響で、心が重く悲観的になっていた。
青空を見上げて鳥の声を聞いてもどこか物悲しくなってしまう、コップで水を飲みながら、その水をじっと見つめてしまう。
地球という巨大なガス室に閉じ込められているようなどうしようもなく希望のない気分になってしまっていた。

考えてみれば、そもそも宇宙にあまねく存在する放射線。
偶然にも奇跡的にその放射線が私達地球の生命に適したレベルに保たれているおかげで人類は存在している。
自らそこに手をつけて操作することに夢中になったあげく、滅亡の危険を抱えることになったとは、なんとも皮肉なことである。
一度持ってしまった巨大で魅力的な技術を人類が捨て去ることはないだろう。だが同時にそれは最も恐ろしい爆弾を抱えていることでもあるのだ。34歳の若さでチェルノブイリ原発建設の命を受け、原発を作り上げて所長になったヴィクトル・ブリュハーノフは、原発と一緒に作った新しい町プリーピャチの映画館の前に、巨大なプロメテウスの像を立てたという。
神々から火を盗み人類に光と熱と文明をもたらしたギリシア神話の神である。
しかしプロメテウスは、火を盗んだことに怒ったゼウスにより、永遠にワシから内臓をついばまれるという罰を与えられる。

プロメテウス像を立てたブリュハーノフの脳裏に何があったかは分からないが、その符号性には背筋が薄ら寒くなる。

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