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『月とコーヒー』 吉田篤弘

子供の頃から本を読むのが大好きだった。図書館に行っては、児童書コーナーの本を片っ端から読んでいた。
だから、子供の本の文体、語り口は馴染み深く、愛おしい。

その語り口に触れたくて、児童書にふと手を伸ばすことがたまにある。
ところが、いつも何か少しがっかりするのである。
いいなあと思う。名作に感動もする。ノスタルジックな心地良さも感じる。
だが、なにか違うのだ。私が得たいと思った、あの「子供の読書」の悦びが得られないのである。どこか距離を感じてしまう。
多分、その本を私が、あくまで大人としての心で読んでしまうからだろう。
子供の本を子供の時に読んだように読むには、自分のマインドを子供のマインドにセットしなければならなくて、そして私はそんな器用なことはできないのだ。


今の自分のまま、あの頃のあの読書体験をしたい。
ノスタルジーが欲しいのではない。忘れていた何かを思い出したいわけでもない。疲れた心を癒したいわけでもない。
子供の頃に夢中で本の世界に浸っていたのは、何かを思い出すためではなかった。むしろ全く知らなかった世界を教えてくれるのが本だった。当然ながら癒しを求めていたわけでもなく、ただただ、文字によって作り出される世界に、万華鏡を覗くように驚き魅了されていたのである。

そんな「あの頃の読書体験」をそのまま体感したいというツボを気持ちよく突いてくれたのが、この本だ。

ボウルにといた卵をフライパンに流し入れると、じゅっ、という音がして、昨日とそっくり同じ匂いがたちのぼりました。
その嬉しさを何にたとえたらいいでしょう。
自分のような漫然と日々を送っていた者が、たったこれだけの道具と材料を揃えるだけで、あの美味しい卵焼きをつくれる—。
実際、驚くほど簡単につくれました。敷きっぱなしだった布団をたたみ、ひさしぶりにちゃぶ台を出してくると、マキはその上に白い皿に盛った卵焼きをのせて右から左から眺めました。自分が焼いたなんて信じられません。
しかも、本当に美味しかったのです。
それはそれは、ごちそうでした。

語り口はまさにあの頃読んだ子供の本のもの。けれどもその世界はちゃんと大人の世界。だから、子供のマインドになるように自分を仕向けなくても、そのまますっと入っていける。大人のマインドのまま、子供のように万華鏡の世界に身を置ける。
大人の私を、柔らかい語りに乗せて、甘えさせてくれる。
こんな本はなかなかない。

インクをつくる仕事というものがあって、それも、青いインクだけを何年も何十年もつくってきた小さな工場がその町にはあるのでした。
カマンザは男のような女の人で、とても怖い思いをして、ひとりだけ生きのこったのです。

密やかな物語を集めた短編集だ。
青いインクを作る青年、オルゴールの修理をする男、顎関節症の専門医など、静かで孤独な人々が登場する物語はどこか淋しく、それでいて、アンゴラの手袋のような温かさを持つ。

心に灯りを灯すような最後、妙にベタなオチ、書いている途中ですっとペンを離したような幕切れなど、ラストの手際も多様で飽きさせない。
やや小さめの本のサイズも良い。まるで自分自身が童話の中で本を開いているような楽しい気分にさせてくれる。

メルヘンの香りに乗せて、日常からふっと浮かび上がらせてくれる、そんな優しい本だが、大人の童話、大人の寓話、などの言葉は使いたくない。
言うとするならやはり、「あの頃の読書ができる本」だろうか。

かつて本を読むのが大好きな子供だった大人たちと、本を読むのが大好きな子供たちが、一緒に夢中になれる、素敵な一冊だ。
これから始まるクリスマスシーズン、本好きな大事な人へのプレゼントにもぴったりではないだろうか。

(ところで、『月とコーヒー』という題名なだけに、この本には頻繁にコーヒーが登場するが、同じくらい頻繁にサンドイッチも登場する。そして、サンドイッチが登場するたび、食欲がわく。それくらいサンドイッチが魅力的に書かれている本でもある。
飲み物に関して言えば、私の主観としては、どちらかというとコーヒーよりも濃く淹れたダージリンが似合うような気がする。)