写真を撮り続ける、ということ。
写真の勉強を、したいしたいと思ってきました。正確にいえば、しなきゃ、けど怖い。という感覚。一昨年富士フィルムの写真コンテストに応募して、フォトグラファーの方に講評してもらう機会を得ることができました。
そこで言われたのは
「このまま10年くらい撮り続けてください」ということでした。
このまま、、、このまま!?と思いつつ、結局賞を受賞することもできず「くやしーーー!」と思いながら、上手く撮れていないかもしれない、何も進歩していないかもしれない、と思いながらも、毎日飽きもせず、やっぱり楽しい!と写真を撮ってきました。
露出、三分割構図、機材のことなどなど、やっぱり専門の学校に行った方がいいんだろうか?と思いながらも、それでも、今すぐできるのは、今撮りたいものを撮り続けることだけだ、と思って。
そうしたら、何百枚と撮ったら、何枚かは好きな写真がありました。
構図もぐちゃぐちゃ、ピントもあっていない。それでも好きな写真がありました。
見返せば、苦しくなるほどの「今この瞬間の、大好きだったその時」それを写し撮れた、写真たち。
はーそれって、なんて幸運なことだろう、と思います。これは未来の自分が見る宝物、というよりも、その瞬間から、もう過ぎ去ってしまってどんなに頑張っても戻すことのない時間を、今の私がなんども味わうことのできる装置としての写真です。(ネガが痛む前に焼かないとね)
もちろん、未来の自分はきっと見返して咽び泣くかもしれませんが、基本的に、今の私の最高と思った瞬間をとどめている、ごくごく自己満足的な写真たち。
しかもそれは、どこかに出かけた!というのももちろんあるけれど、ほんとうに、毎日の散歩や、家の中、半径500メートルの世界の中の、確かにあった濃密な「残したいと思った時間」
それに気づくことができて、悔しい気持ちの中、写真を撮りつづけると言う選択をして、本当によかった、と思います。
ワタナベアニさんの「写真は、撮る人を写しているんだ。」や、幡野広志さんの「うまいけどダメな写真とヘタだけどいい写真」を昨日読み終わり、もっともっと撮りたいなと思っています。二つの本は、これまで図書館で借りた「写真を上手く撮る方法」みたいな本とは全然違って、とても面白かったし、知りたいことも知ることができました。もちろん、周りの写真を撮る人たちに教えてもらった、最初は標準単焦点、とか知っている話もあったし、幡野さんの「とにかく数を撮ること」とワタナベさんの「それは物珍しさだけで撮っていないかと、考える」ということは違うことを言っているけれど、両方大切にしたいし、「とにかくいつでも写真を撮れる、カメラを持っていることがそもそも重要」とか、写される側への配慮、写される側と写す側は対等、というのも、これが聞きたかったんだー!と思っていたのですっきり。撮りたくないものは絶対撮らない、とか、自分でも気をつけていたことが言語化されていて、すっきり。おすすめの二冊です。もっとたくさん内容があるので、ぜひ読んでみてくださいね。
いまは子どもたち、喜んで撮らせてくれているけれど、撮らせてくれるうちはたくさん撮りたいな、と思うのでした。
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