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光の波。
ここ二週間と少し、返ってくるあてのない手紙のようなものを書いていました。
送ると夜、既読がつきます。
自分でも何をしているのだろうと思いました。見てくれたら嬉しいし、読んでくれたら嬉しい。でも、読んでくれなくなるかもしれないな、とも思います。そしてそれを責めることもしないし、めんどくさくなったら読まないでいてくれていいとすら思っています。
でも、私は言葉を綴り、写真を撮ります。
というよりも、勝手に言の葉が集まってきて、勝手に美しいものが撮ってくださいと声をかけてきて
それを整列してやると『じゃ!いってきます!!』とこちらの話も聞かずに元気よく飛び立ってしまうのです。
あああ、ちょっと待とうよとか、迷惑かもしれないよ、とか、そんなことを叫びながら、それらを聞きもしないでパタパタと自由に、けれども隊列を崩さずに飛んでゆく言の葉たちを見送ることしかできません。
村上春樹くらい文才があったら、牛腸茂雄くらい写真が良かったら返事が来るのだろうか?と考えて少し残念に思いました。
けれど、私は返事を望んでいるんだろうか?
望んでいるとも言えるし、望んでいないとも言えました。
返事が来たらいろんなことが手につかないくらい、その言葉について色々考えてしまうだろうから。どんなふうに見えているか、感想を聞いたらぶれてしまいそうだから。
そんなことを、昼間のお風呂にちゃぷちゃぷと浸かりながら考えていました。
乳白色のお湯に、夏の空が映っています。
きれい。
ふつふつと皮膚について、ぱちぱちと弾けていくビーズのような炭酸の気泡を全身につけながら、詩集をめくります。
この頃の私のお気に入りは、休日、晴れた日に自転車で銭湯に向かい、昼間からぬるめの湯船にひとりで浸かって、詩を読むことです。
家で詩集をなかなか開けず、お風呂に入って読んだらこれがかちりと嵌ったのでした。きっと一人の時というのが必要だったのでしょう。
中でも尾形亀之助の詩が好きです。
その詩は、活字に印刷されて、音読されてこそ生きると感じます。
ごぽごぽと無数の泡が出て音がかき消されてゆく。誰もいないのを見て、一編、小さな声で呟くように口に出して読みました。
昼
太陽には魚のようにまぶたがない
やっぱり亀之助が好きだと思って、全部読んだらくらりとしてぬるい湯船にまた浸かります。
寂しさ が評価される傾向にある亀之助ですが、何年か掛けて折に触れて飴玉を口の中で転がすように味わってきた私にとっては、凪いだ水のようだと感じていて、この間友人と見た海を、一人で車窓から見た海を思い出して、透き通る湯の中の自分の体に視線を落としました。
水を通った光が、お腹の上に波を作ります。
よく似た
おへその下の妊娠線もまた海の漣の名残。
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私は公衆浴場というものが好きです。
銭湯でも温泉でも。
大きな湯船にぷかりと浮かんでいるだけでもいいし、こうして本を読むのもいい。脱衣所で脱皮するようにワンピースを脱ぐのも好きだし、昼間のお風呂はどこか牧歌的です。
甘やかな匂いの塊が顔をかすめて、湯船からぐるりと首を回すと、梔子が茶色くなりながら甘い匂いをただよわせていました。大好きな梔子、咲いているものを探しに行こうと考えました。もう、夏は足を止めてはくれません。
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お風呂場で見る色々な裸体は年輪みたいで、生を強く感じさせます。
つるりとしているたっぷりとしているかとおもえば、枯れ木のように細く頼りないのものもある。でも、みんな生きている。
お風呂にいる裸のままの人間たちは、無防備なゆえに生を強く感じさせ、他のどんな生き物ともかけ離れていて、すこしこわいと思いました。まるで宇宙人。
黄金を信用しているのか、ピアスやネックレスをぴかぴかと光らせるかっこいいおばあちゃんたち。未熟なわたしはコインロッカーの鍵だけつけて湯船に浸かって、弾け続ける泡の残像をぼーっと眺めます。
再びぱらりと捲ったページに手が止まりました。
花
街からの帰りに
花屋の店で私は花を買っていた
花屋は美しかった
私は原の端を通って手に赤い花を持って家へ帰った
メスシリンダーに薔薇の花を生けているんだと話していた人を思い出しました。花が枯れるとまた新たな花を、花屋さんに買いに行き、一輪だけ持ち帰るというその人を想います。
亀之助の花の詩を一編と、撮った花の写真を送りました。
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いまいち印刷されていないと、詩って伝わらない気がして、紙という質量が必要なのかもしれません。日頃はどんなに物思いに耽っていても手は動き、アサリの味噌汁のアクを掬います。少し陽の当たる湯船でゆらゆらと海月のように揺られていると、言葉が後から後から溢れてきて、掬い取るようにメモをとりました。多分アサリのお味噌汁を作っているみたいな時に思い浮かんで、出されずに降り積もった言葉たちが、本当はあの時こう感じていたんだとか、ああ感じていたんだとかずるりと出てくるのだと思いました。
送ったあと、しばらくして既読がつきます。
あ、読んでるのかなと思って、夕飯を作り、子供達と食べてお風呂に入れて、動物の映像を見ている間に片付けを済ませました。
ブブッと携帯が震えて、しばらくしてからそれを見ました。
返信はしてませんが、一枚一枚しっかり見てます。一言一言しっかり読んでます。
病んでいる訳でもありませんので、ご心配なく。
尾形亀之助の詩集も借りています。
ただ、言葉にならず、なりかけても飛んでいかないのです。
全身をざぁっと血が巡るのを感じました。
ああ、読んでいてくれて、見ていてくれたのかと思いました。もうそれでとても嬉しく、成仏しているのですと返しました。
私がこんなに文章を書くようになったのは、かつてその人に本を読むきっかけをたくさんもらったからでした。
今は友人のその人は、私に本と、音楽と、映画を沢山おしえてくれました。
それを見たり読んだり聴いたりした感想を伝えたくて、美しいものがあれば見せたくて、どうしたら伝わるかを試行錯誤して、言葉にするって面白いと思い、その人に宛ててせっせとたくさんの言葉を紡ぎました。話したり、書いたり。
一番伝えたい人に、伝わっているということは、震えるほど嬉しくて、頭の奥が痺れるものなのかと知りました。
揺らぐ光の波のゆらめき、咲いたばかりの藪萱草の鮮やかさ、子供の寝顔、朝日に照らされたサンキャッチャー、夜空に動く雲、夜に鳴くアオバズクの静かな声。見つけた沢山の美しいものを一つ一つ思い返しながら、それをわかってくれる人がいることにまた、心が震えています。
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季節は巡り、私はまた写真を撮り、言葉を紡ぎ続けるのでしょう。
それがまた、届くといいなと願いながら。
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