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わたしを通り過ぎた本/出口晴久さんの場合

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デザインを学びたい!

小さい頃から絵が好きで、工作や家庭科が得意だった。小学校6年生の時の担任の先生がおもしろい先生で、授業中、みんなにテストをさせているのに船の模型をつくるような先生だった。保護者からは問題視されていたけれど、その人が自由な発想を持っていた。竹ほうきで掃除しなくちゃいけない時間に、僕がほうきを削って穴開けて竹笛つくったことがあって(笑)。めっちゃ怒られたんやけど、その先生だけが「すごい」って認めてくれて、「出口は、勉強するよりものをつくる方がいいんじゃないか」と言ってくれた。 

そういうこともあって中学のときからデザインのアトリエに通っていた。グラフィックデザインで、当時はパソコンもなかったからポスターカラーでデザイン画を描いていた。高校は地域のいちばん近い県立高校へ行ったけれど、そこは超進学校で学校の記憶はあんまりなくて、でもその頃に展覧会や映画にはよく行っていた。大学受験のときもデザインの大学行くって決めていたけど、ことごとく落ちて…。僕より後からアトリエに入ってきた子がどんどん受かる中で、僕はようやく最後にいちかばちか洋画コースで受けたところは合格できた。入学した大学は開校したばかりで、一期生だったから、写真やテキスタイル、立体、芸術計画などそれぞれのコースの子たちと仲良くていろんなところに出入りしていたな。(パートナーの)真弓もおんなじ学校だった。

彫刻で有名だけど絵も描いているジャコメッティの作品集『GIACOMETI』は当時よく見ていた。僕は、装飾を加えていくようなものがあんまり好きじゃない。削っていくというのが究極だなと思っている。ブランクーシーもよかった。なんとなく好きで心に留まった感じがする。あとは、ヤン・ファーブルの青いボールペンを使って描いた作品も好き。ヨーゼフ・ボイスは大学生の頃に知ったかな。政治と芸術に燃えていて問題を起こす同級生が多かった(笑)。

その当時、デレク・ジャーマンのただ青い画面が流れ続けるという映画『BLUE』も見ていた。映画はよくわかんなかったけれど、『Derek Jarman's Garde』という写真集がすごく好きだった。その当時は農業とかガーデンとか関心がなかったけれど、なんとなく自分の感覚にあっていてずっと好き。大学生の頃は、あたらしいものにいっぱい触れていて、デザインの絵ばっかり描いていた狭いところから、なんでもありみたいなことになって、わけがわからなくなって…。

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サラリーマンをしてみたものの…

大学を卒業するときに、進路に困って仲の良かった哲学の先生に「大学を出てからどうしようか悩んでいる」って言ったら「普通に働いてみ」って言われて、ごく普通にスーツ着て仕事をするサラリーマンになった。働いていた会社は、車のショールーム用品(のぼりやカタログ)をデザインする会社だった。

まだイラストレーターが出始めの頃で、大学ですこしかじったから「イラストレーターやフォトショップを入れましょ」と言って導入してもらって、でも使い方があんまりわからないから猛勉強して…。朝から晩までずっとパソコンをさわっていたから、マウスだこができて、身体の半分がしびれたこともあった。

そんな会社員をしていた一年目にディジュリドゥに出合って、はまってしまった。真弓が「あんた絶対好きやと思うわ、この楽器」と言って、吹田の民族学博物館(以下、民博)で日本のディジュリドゥ奏者のライブがあったときに無理やり連れていかれたけれど、すぐに自分のディジュリドゥを作って、仕事にもディジュリドゥをかついで行って、仕事がおわると猪名川の河川敷で吹いていた(笑)。

音楽は苦手だったけれど、ディジュリドゥには音階もないし、リードもなくって純粋に音が出るのがおもしろかった。まだディジュリドゥなんてほとんど知られていなかったから、関西でディジュリドゥ吹いている人はほとんど知り合いだった。その頃、大阪の中之島公園でディジュリドゥのミーティングがあって、その様子を民博の教授が「日本のディジュリドゥ奏者たち」という記録映像を取りに来ていて、インタビューを受けたりもした。

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いざ、オーストラリアへ

結局、新卒で入った会社には、6年間いたけれど、さほど車が好きじゃなくて一生続けられるかというと「無理やな」と思った。会社を継いでもらいたいという話も言われたけれど「そこまでやるかな?やらへんな」と思って、であれば早めに断って別のことをしようと仕事は辞めた。

その頃(2000年代)、ディジュリドゥについて日本に入ってくる情報は欧米経由でしか入ってこなくて、「アボリジニの人たちにとってのディジュリドゥってなに?」という思いがあってディジュリドゥかついでオーストラリアへ渡った。30歳になる間際にワーキングホリデーで渡ったけれど、英語がわかんないから語学学校にまず入った。でもアボリジニの人たちのことしか考えていなかったから、語学学校にもほとんど行かないで彼らの村を訪れたり、美術館や図書館ばかり通って本ばっかり読んでいた(笑)。

その時に『saltwater』というアボリジニの人が描いた絵について書かれた本に出合った。オーストラリアでは、本屋とか美術館で一般的に販売されている。この絵が物語になっていて、伝えていくものなんだって。自分たちの祖先はどこからきて、どういうものを食べていいかとか、水がどこにあるかとか掟が書かれているらしく知識があると読めるねんて。具体的なものが書いてあるものはそれほど重要ではなく、抽象的なものであればあるほど意味が深くなっていくみたい。家紋のようなデザインもあって、その絵でどこの人かわかるとか教えてもらった。

その当時、アボリジニの人が住む村は行政府の許可がないと入れなくて、許可を取るには村に住む人の紹介も必要なんだけれど、日本のディジュリドゥ奏者の人たちに交渉してもらって、紹介をしてもらって許可を取って、初めは飛行機で、2回目はレンタカーで行った。

アボリジニの人たちは伝統的な暮らしをしていると思われているけど、車の免許も持っているしマクドナルドにも行っているし電化製品はめっちゃ好きという生活で。お金のない僕らが砂浜で貝を集めて食べていると「おまえらそんなことよぉやるな」と言われて(笑)。その村にいるときはお金がなかったから、魚釣りもよくしていた。けっこうサバイバルで、なけなしのパンを犬に取られたり、カラスにソーセージを持っていかれたりもした(笑)。

そんな彼らも狩へ行くと伝統的な食生活になる。カニを取りに行ったときに同行したんだけれどすごくおいしいものを食べた。マングローブの木の中にいる白い長い幼虫みたいなのを取って、その辺に生えているハーブ系の葉を入れた海水が入った缶の中に入れて、おこした火で茹でる。幼虫みたいなのは貝の仲間らしくて、塩水に出汁がでてめっちゃおいしかった。

ハチミツもおいしくて。シロアリが食べて空洞になった木の穴の中に針のない蜂が巣をつくっているので、それを倒して、がばっとあけたら蜜だらけ。蜂が群がっていても針がないからみんなかぶりついていた。「僕らの分は?」って聞いてもなかなか分けてくれなかった(笑)。

そういう中で過ごして、その日に食べるものや食べ方というところに興味がむいていった。食べるということは月並みな言葉で言うと生きるということだから、どこへ行ってもなくならない、日本に帰ったら普遍的な仕事をやろうと思った。

結局、サラリーマンを一回経ているけれど、芸術大学にいたときの感覚とあんまりかわらへん感じで、またはまっちゃった。笑。そういうことしかできひんねん。

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いざ、食の道へ

日本に戻って、調理ができたらどこでも行けるかなと大阪・池田にある「ばんまい野菜の広場」に調理で入ったのだけれど、どうも身体が大きいから「調理場が狭くなる」ということもたぶんあって(笑)、半分八百屋も手伝っていたらだんだん八百屋の方がおもしろくなっていった。

ビオ・マルシェ関連の八百屋で、センターに野菜などが仕分けしてあって、それを引き取って並べるんだけれど、それがおもしろくなく感じて、僕がいろんな農家さんに連絡を取って直接納品に来てもらったり、直接販売してもらったりしていた。自然栽培や自然農がまだ駆け出しの頃で積極的に販売していたけれど、店長と意見が合わなくて「自分で八百屋やります」と8年くらいで辞めた。

その頃に、八百屋が野菜を売るだけでなく、農家さんもお客さんもいろんな人が来てお互いが知る場になるというオーガニッククロッシング(有機的交差点)というイメージが浮かんできた。「ばんまい」もそういう場所にしたいという目標を立てて、いろんな企画をした。

特に、自然食品の卸をしているGAIA(ガイア)がイベントの母体となった農業や食関係の古本をあつかうイベントは人気で、遠くからもお客さんが来てくれた。「全国で一番売れていますね」と言われたこともあった。当時、GAIAには中古の本の部門があったからできたこと。

僕は、食の本はあんまり読んでいない。レシピどおりに料理もしないけれど、『あなたのために―いのちを支えるスープ』辰巳芳子(文化出版局)はおもしろかった。辰巳さんは厳しい人らしいけれど…。料理は科学であると理論立てて書かれていることや野菜の特性をよく知っているとところもよかった。レシピ本を見ていると、野菜の扱い方、火の入れ方、切り方、つぶし方など「この野菜こうする?」と疑問に思うものもよくある。同じ野菜でも塩野加減、茹で加減、ちょっとした下ごしらえの仕方、切り方でめっちゃかわるから、そういうことを理論立てて考えている点も興味深かった。

(パートナーの)真弓のお父さんが家庭菜園をしていて、そこの野菜を届けてもらうようになって野菜のおいしさ、香り、味、食感に「なにこれ!」という衝撃があった。そこから、野菜がおいしいと思いはじめたかな。そこから、「野菜がおいしい」ということが好きなお店の基準に入ってきて…。でも、野菜がおいしいお店ってないねん。少ない。その頃に、夙川のアミーンズオーブンさんでパンとサラダのプレートを食べてサラダがめっちゃおいしくて、パンおいしいっていう前に「野菜がめっちゃおいしいですね!」って言うてもうて(笑)。その野菜が、自然農法、無施肥栽培とかをしている若い人の野菜だった。

おかずとごはんのお店はブームでもあるから、本当にその野菜の扱い方がうまいかっていうとそうでもないかなと。「ん?」「あれ?」というお店が結構あって…。

あと、「いまの時期に、これ?」っていうのもある。春にかぼちゃを炊いたものが出てきたら「あれっ?」となる。にんじんの葉っぱがおいしい時期ににんじんの葉の和え物ががでてくるとうれしい。その時期にあわせたおいしいものを出せる人なんだなとわかる。地方の旅館へ行っても、山の中なのに刺身が出てくると「あれっ?」となるし。スイバの塩漬け、胡麻油で炒めたものが出てきたりすると派手じゃないけれどすごくおいしい。ヤマメやイワナの料理や山菜が出てくると「すごいですね」ってなる。端境期に豆料理や乾物で乗り越えようとしている人を見ると「こんだけできるんやー」と。季節と料理と食文化が一致していると、「ここすごい!この人すごい!このお店すごい!」と思う。

いままで、意識はしていなかったけれど僕は、「食」より食文化に興味があるんだと思う。八百屋をしているけれど、地域に根付いた食や野菜も野菜というできあがったものだけじゃなく、種や花など成長していくなかでの野菜を伝えたい。そして食文化に根差した気候や風土のことも。

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めぐる流域のこれから

この本は、カンボジアの戦争で疲弊した村の再生をさせた森本喜久男さんとその村を追った写真集『いのちの樹』内藤 順司(主婦の友社)。その地域に根づいていた木を植えて伝統的な染物を復活させたんだけれど、地域の仕事のない人たちに染物や織物で自立していける村になった。そういうことをやるという覚悟と信念がすごい。

僕も、猪名川の源流から加工までの食文化を含めた食の時給圏をつくりたいと思って、めぐる流域をやっているけれどなかなか本格的に動きださなくて、そこにかける想いとか自分がまだ足りないのかなと思っている。

地域の循環ができるとこの辺りはめちゃくちゃいい地域になると思う。教育の中に地域のことや地域を循環させることを学ぶ場を作って、地域の山、街、工業地帯を含めてうまくまわる地域になるといいなと。この本には、最近影響を受けたかな。

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いまだから知識を深めたいと思うこと

自然災害が多くて、気候変動の影響で野菜も厳しくなってきている。ことしも梅雨の土砂降りのあと、梅雨が明けたらこんどはほとんど雨が降っていない。「この先、露地栽培はできるのか?」というところまできているからこそ、本来の形や自然のサイクルについて知りたい。微生物が分解をして土をつくる過程、水の流れ方、山の在り方など、そういうことを知らないとこの先乗り切っていけないのではないだろうかという思いがある。微生物の在り方、発酵、眼に見えない世界のありように関心がある。よく見る、耳を澄ますということに気持ちが向かっているかな。すぐ忘れるねんけど(笑)。行きつ戻りつ。

きっとジャコメッティとかブランクーシーもものの在り様を見ようとしていた人たちなんだと思う。その土とか森とか野菜版かなと思っている。

その他、紹介いただいた本

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『サラダの本』ささたくや(エムエム・ブックス)
辰巳芳子さんのようにとんがった、突出しているという視点で、このささたくやくんの本は、野菜をあつかうということについて、イメージを積み重ねていることがおもしろかった。

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『シュナの旅』宮崎駿(徳間書店)
大学生の頃に読んだと思う。これは、ベースになっている本。旅をすること、種を取って、巻いてということも芯をとらえているように感じる。ナウシカよりもずっと簡潔でまとまっている。

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めぐる八百屋 オガクロ
〒665-0816宝塚市平井2-7-11
電  話:0797-20-5472
営業時間: 11:00〜17:00
定休日 : 日・月休
最寄駅 :阪急宝塚線山本駅


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2020.08.25
インタビュー・構成:福島杏子(casimasi)
写真:米田真也

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