自己開示プロンプト

自己紹介をしましょうね、してくださいね、という機会にあまりにも恵まれ過ぎていないか。私の何を、どう紹介すれば、いいというのだろう。何を答えたとしてもそれで私のことを知ることはできないだろうし、初対面の人間に自分のことを知ってもらおうという気持ちもない。

そうはいっても自己紹介を拒否することはできないため、仕方なく想定されるプロンプトに対する返答を用意することにしている。

/趣味はなんですか? →「麻雀」
最近麻雀人口が増えているためアプリや雀荘の話など相手もキャッチしやすい。話の方向がある程度決まるため、対応しやすくなる。

/休日は何をしていますか? →「バイト」
次にバイトは何をしているんですか?という質問に相手がつなげやすいし、それに対してこちらも決まった答えを話せばよい。

上記二つのポイントは、アニメ、映画、音楽、読書といった内容が定まっていないコンテンツを答えないことだ。流行のものをチェックしているわけでもないし、カテゴリーが大きすぎると会話のキャッチボールにも不安定さが生まれる。それを極力避けることが会話のストレスを減らすことになる。

/好きな映画・アニメはなんですか? →
/好きな本・漫画はなんですか? →
/好きな音楽はなんですか? →

これらの質問に関しては用意することが困難である。好きなものがないのではなく、相手の持つ情報量と自分の知識量がどれくらい違うのかを把握しないと、会話のわずらわしさを回避する最適解は見つけることができないという結論に至った。
なにか質問をしてくるということは最低限そのジャンルの知識があると思ったらとんだ大間違いである。そのため、「逆にどういうものを見る(読む・聞く・遊ぶ)んですか?」と聞くことで相手の傾向や相手が拾える範囲を推し量ることもある。

/ゲームは何かしてますか? →
/ユーチューブでは何を見ますか? →

これは好きかどうかではなく事実を聞いている反面、同じゲームや動画を共有していない場合は会話が続かなくなる。もういっそのこと登録チャンネルリストやスチームのプレイ履歴でも見せて共通点を探してもらう方が合理的なのではないかと思う。


そもそも私はそのコンテンツが好きなのかというとそういうわけでもなく、その作品の核にある本質的な何かを好んでいるような気がしてきた。だから表象それ自体に特別固執して好きということはあまりないのかもしれない。推しというのも一度もできたことがない。好きなキャラクターもあまりいない。
それに加えて二つ傾向があると自身に対して思う。一つ目に、私は物事を類型化やファイリングすることが好きなので、こういうジャンルが好きな人はこれも好きなんじゃないかというサジェスト目線で調べたり試しに鑑賞したりすることが多い。二つ目は、コンテンツを構成する要素やその作品を作品たらしめる点を分析・考察するのが好きなので、まず批評における軸や理論、テンプレートなどの基準を知るために文献を読むことがある。

具体例として、私は音楽が好きで、音楽のリズムや歌詞、旋律を感性に従って純粋に楽しむ。プラス、あるジャンルやインスピレーションを共有しているアーティストたち、曲調に類似性がある音楽を集積してプレイリストを作成するファイリング、音楽理論やジャンルマップ、音楽史、DTMの音声ソフトを調べるデータ収集も楽しんでいる。

私は質問に正直に答えることよりも、会話でストレスを感じないように回答に責任を持つことの方が結果的に楽だと思っている。自分の好きなことを話して相手が反応に困ったり、関心がなさそうにされる経験は誰しもあるのではないだろうか。
自己開示をせまる質問は、(相手との関係性にもよるが、)純粋な「あなたのことを知りたい」という気持ちだけでなく、"時間を消費するための便宜的な会話ツール"であるという側面を持っている。

そういう軽いパスに釣り合わない熱量を返すと、奇跡的に話が合ったとき以外のパターンは失敗に終わるのである。
というかそれを期待してオープンクエスチョンをする人もいるんだろうが、リスクヘッジがとれていなさすぎる。例えばレッチリ好きな人が、好きな音楽はなんですか?という開けた質問をして、「あー、アメリカのロックバンドとかですかね、レッチリとか?」と相手が答える確率は限りなく低い。11巡目ドラ3s辺張待ち立直の和了率より余裕で低い。てか相手がボーカロイド好きだったらどうするんだよ。お前にそのボールを返せる技量はあるのか。大概は「へえ~そうなんですね。あーあれ、Adoとかですかね?」と好きな人にとってはトレンド遅れかつ謎のかすりを残して適当に場をつなげるのである。

インターネットが普及して、コンテンツが多様化・複雑化しサブスクや情報インフラ整備などで過去作品を閲覧するまでの敷居の低くなった趣味個人化社会では、メインストリームといわれるようなカルチャーでさえ全員が共有しているとは言えなくなってきている。
テレビが共通の情報元ではなくなっていることもその一つの要因で、例のクッキーを許可し自身の関心に基づいたエコチェンバー・フィルターバブルで構築されたメディアサービスからは自身の関心をより強化することにしか働かない。
SNSでは傷つくことなしに同じ趣味の人とつながることができる。リアル・対面で好きなことを開示することは現代人にとっては裸で殴り合うようなコミュニケーションであるように感じる。

現代人はLINEやDMなどで、温度感や距離感をお互いに調整しながら会話する傾向があると社会学の論文で読んだ。チャット上のコミュニケーションでは一度メッセージをどう返すかを考える猶予が与えられる。そうして、内容以外の情報(返信の速度や口調や雰囲気など)も考慮にいれつつ、お互いが傷つかないような言葉を選ぶという。

そう考えると、やはり初対面同士における従来のコミュニケーションと現代人の行うのでは質的に変化が生じているのではないだろうか。
自己開示の対義語は自己隠蔽だが、積極的に自己隠蔽をしているという自覚ではなく、"結果的に自己開示に対して消極的である"というのが正しい表現の仕方だし、感覚に合っていると感じる。

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