人と比較し続けた人生から解放された今日までのこと【5】
33歳の今、人と比較することを辞める術を見つけて、人生で1番体が軽い。
今日までのことを、ここにつらつらと書いていこうと思う。
【1】はこちらから
一社目の会社は、
昭和風の陳腐なTVCMを頻繁に打っていた。
キャッチフレーズは誰しもが知っていた。
私は何も調べずにそこに入った。
完全に昭和のままのデザインの制服を着て、受付に座っていた。
無気力だった。
ある時、同じ高校だった男の子がたまたま来店した。立派なスーツを着ていた。私を見て一瞬驚き、そしてにやりと笑った。
学年の中で1番偏差値の高い大学への進学を決め、「きっと大物になるよ!」なんて言われて送り出された私が、まさかそこにいるとは。(笑)
そんな表情だった。
私は消えたかった。
その頃から躁鬱が酷くなり、希死念慮が絶えず頭にあった。
どうすれば楽に消えられるのか、休日は死んだようにそのことばかり考えていた。
ただ一つ、ここで私は運命的な出会いをした。
一生の親友との出会いだ。
その親友は、同期だった。
太陽のように眩しく笑い、母のような温もりがあり、何故か自分自信に対しては無気力な少し偏ったバランスの女性だ。
彼女はいつも私を受け止めてくれた。
彼女と当時の彼氏に依存しながら、なんとか会社に出て、躁鬱の治療も始めることができた。
父は、私がその会社に行ったことを嫌がっていた。
同居になった父方の祖母は、名家の出身で一流企業で長く勤めていたので、私を大変残念がった。
姉は会社で立派な営業成績を残して帰ってきた。
兄は大学を中退したあたりで勘当され家を出ていた。
1度目の転職
躁鬱の治療をしながら、私は転職活動を始めた。
きっかけは、あからさまなセクハラに対して上司に報告したところ「めんどくさい事を言い出すなら、君が辞めてくれ」と言われた事だった。
全く会社から必要とされていなかったのだ。
接客業に転職した。
学生時代のアルバイトの経験を思い出し、自分の得意を活かせるのではないかと考えたのだ。
それは当たった。
みるみる間に成績を伸ばした。
休みの日も、専門知識の勉強をした。
どんな質問にも答えられる販売員を目指した。
天職だと思った。
3ヶ月に一度くらい、躁鬱の鬱が来る時以外は社内でトップクラスの営業成績だった。
嬉しかった。
ある日、会社での成績を父に報告した。
「よくやったな。でも、所詮は接客業だからな。キャリアはないな。」
と言った。
認められる仕事ではなかったのだ。
その頃、姉は東京に転勤になり、会社の経営を担う仕事に就いていた。
同居の祖母はこの時も、私を大変残念がっていた。
日に日にアルコールの量が増えた。
仕事の後は父と祖母が寝るまで帰りたくないので、ひたすら飲んで帰った。
酩酊した意識の中で、自分を褒めた。
当時の彼氏に何度も何度も、成績順位を話した。
SNSには、仕事がうまくいっていることが伺える内容を頻繁に投稿した。
わたしは「たまたま」あの時、あの会社で受付に居たのであって、本来は営業成績のトップになれる人間なのだと、焦ったように発信していた。
「仕事ができる人」と思われたくて、誰かに認められたくてもがいていた。
密かな趣味
休みの日は、よく絵を描いていた。
それは母が与えてくれた私の数少ない趣味のひとつだった。
そんなある日、よく行く飲み屋でたまたま知り合った人に絵を見せた。
大層に褒めてくれて、欲しいと言ってくれた。
その縁で、そこのお店に飾る絵を描かせてもらうことになった。
心を込めて、何週間もかけて描いた。
私はその絵をとても気に入ったし、店主はすごく喜んでくれた。
小さな個人店だったが、私はそれがとても嬉しかった。
家から近くの店だったので、家族に話したかった。飾られた絵を見せたかった。
ただ、"嬉しかったこと"を傷つけられるのがこわくて、なかなか話せずにいた。
ほどなくして、姉が個展を開いた。
大学で芸術をしっかりと学んでいた姉の絵は、素晴らしい油絵ばかりだった。
大人になってもこれほど本格的に絵を描いているとは知らずに驚いた。
一緒に見に行った母は感動して涙した。
多彩な色で、考え抜かれた画角で描かれた絵は一枚一枚が輝いていた。
私の絵は田舎町の小さな飲食店で、ひっそりと息を潜めているように見えた。
誰にも私の絵の話をしていなくてよかったと心底思った。
私は画材道具を処分しながら、いつまでも公立の話みたいだと思った。