場所と風景が媒介するもの 三鷹の跨線橋にて
三鷹の跨線橋が取り壊されるとのことで足を運んだ。初めて渡ったのは近くの「トリオ模型」に通っていた小学生の頃か。不思議な構造物の印象がある。
三鷹に住んでいた太宰治のお気に入りの場所で、親しい友人も案内したと言われている。一方で太宰の作品には登場しないのだとか。この「場所」と「風景」に価値は無いのだろうか?多くの人々に愛された場所について、太宰治の風景を通して考えてみたい。
『東京八景』に描かれているもの
太宰の作品に東京の風景をテーマにした『東京八景』という短編がある。三鷹の自宅から眺める夕陽を「東京八景」に選ぶ一節がある。
太宰が述べるのは、風景を介して自分が芸術になるということか。
さらなる一説には三鷹ではないものの、新橋駅の橋の上から銀座を眺める情景が記されている。
東京市外の三鷹を東京八景に選ぶのを躊躇していた太宰は、都心の新橋で夕陽を描く。橋の上で武蔵野の夕陽に触れながら、三鷹の跨線橋と重ね合わせていたのだろうか。太宰は西の夕陽について語り、Sさんは北東の銀座を指差す。二人は違う方向を見ながらもこの場所でひとつの風景をなす。
芸術になるということ
「芸術になるのは(略)風景の中の私であった」
「芸術は、私である」
やはりこの部分がわかりにくい。太宰にとって「芸術」とはなにか?太宰が芸術について書いた部分から、その芸術感が垣間見える。
太宰は芸術の美しさを気ままに楽しめないものを病弱者と呼び、芸術に意義や利益を見出すことに疑問を呈する。
「『東京八景』だけでは、何か足りないような気がして」と書かれた『十五年間』では、上辺だけの上品な芸術家は醜いと言いつつも、真の美しさを芸術に見る。
一筋縄では読めない太宰だか、あらためて「芸術になるのは(略)風景の中の私であった」を素直に読み解いてみよう。太宰にとって風景に身を置くことは一時的にせよ、自分が「意義や利益」ではなく、芸術のように「美しく気ままに」あるいは「真に美しく気高に」生きる存在となることだと読み取れるだろう。
太宰の「内的アイデンティティ」
『東京八景』に見たとおり、太宰は風景を介してアイデンティティや他者との関係性を強化するような、いわば場所の媒介作用を描写する。
地理学者エドワード・レルフによれば、いわゆる「場所」とは「個人的なまたは社会的に共有されたアイデンティティの重要な源泉」であり「人々が深く感情的かつ心理的に結びついている人間存在の根源である」という。さらに場所には大衆的、客観的な「外側のアイデンティティ」と感情移入的な「内側のアイデンティティ」があり、後者を重要視する。
実存を巡って揺れ動く太宰にとって、おそらく跨線橋は重要な場所だったのだ。ここからは想像を巡らすしかないのだけれど、太宰は跨線橋で自分の「内的なアイデンティティ」を担保していたのかもしれない。独りの時や親しい友人との時間をここで過ごしつつ、作品=「外的なアイデンティティ」としてこの場所を切り売りすることは無かったのではないだろうか?作品に描かれなかったことが、逆説的に個人にとっては重要な場所であることを示している。
人々にとっての跨線橋
あらためて跨線橋に足を運んでわかったのは、この場所が元々は人を楽しませるために作られていないことだ。展望台としてではなく、あくまで人が通るための陸橋で、結果的に展望を享受できるようになっている。しかも電車庫を跨ぐことで最短距離にはならず長い橋になってしまう。理屈では作りえない場所なのだと。
各地でふと聞いた、そこに住む人たちの個人的な居場所とよく似ている。前橋の駐車場の屋上、柏の夜の湖畔、鳥取の橋の下、ニュータウンの谷にある農地、、どこも近代に取りこぼされながら風景に開かれた場所だ。
人々の営みは自然の際限のなさに抵抗する営みとも言える。営みは合理的になって方法論化すると、場所も「どこにでもありそうな場所」になりがちだ。ゆえに人はこのような必ずしも合理的ではない場所、「どこにも現れにくい場所」に惹かれてしまうのかもしれない。
これまで跨線橋で風景を眺める人たちの姿が、独特の立ち姿をしていることが印象的だった。今思えばかけがえのない自分の存在を、太宰と同じくこの「どこにも現れにくい場所」に重ね合わせているように見えてくる。アイデンティティを抽象や記号に求めると、過剰な政治性や見せ物につながってしまうこの世の中に「場所」と「風景」の重要性が浮かび上がってくる。
いろんなことがもうすこし豊かになると、跨線橋を再建する時が来るだろうと想像してみる。そのときはどんな素材が良いのだろう?積み重ねられた塗料は再現できるのか?そもそもこの場所性はどうなるのか?考えることはたくさんあるけれど、跨線橋のような場所が存在しうる社会の条件を考えて行きたい。
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