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中二病的書物『暗黒の啓蒙書』を読む 名前がダサいから『ぴんく啓蒙』がよい

宮台真司が加速主義という言葉を多用するので、その造語を作り出した生みの親であるニック・ランドの「暗黒の啓蒙書」という本を読んでみた。読んでみると宮台真司が定義する加速主義とニック・ランドが提唱した加速主義が全然異なった意味であることに驚いた。宮台真司は「社会の崩壊を加速させることによって既得権益をぶっ壊そうぜ」みたいな意味で加速主義を使っている。しかし、ニック・ランドは「ポリコレを捨てて対立を加速しようぜ。どうなるかは未知数だけど」みたいな意味で加速主義を提唱している。

ニック・ランドはイギリス人の著述家であり、民主主義の問題点を遺伝主義的決定論と社会構築主義の対立の無意味さに求めている。アメリカやEU諸国のような白人国家はマジョリティである白人とマイノリティである黒人の利害が対立することにより民主主義的な調和が取れていない。アファーマティブアクションと呼ばれる実質的な黒人優遇措置を何年も続けているにも拘わらず、未だに黒人と白人の経済格差は埋まっていない。遺伝主義者は、黒人と白人には遺伝的な差があり、制度設計でその差を埋めるのは不可能であると主張し、黒人優遇措置の副産物であるプアホワイト(貧困白人)の問題を見て見ぬふりするリベラル知識人の欺瞞を攻撃する。一方で、社会構築主義者たちは黒人と白人の経済格差が埋まらない理由は、是正措置や社会制度の見直しが足りていないからであると主張する。このような対立はアメリカやイギリスに限った話ではない。日本でも男女の不平等や親の年収などの格差を再生産するとされている問題に対して同様の対立が起きている。「暗黒の啓蒙書」ではアメリカとヨーロッパに限定されて語られていた加速主義が日本でも応用可能なのかについて考える。

国民性の問題ではない

日本人と欧米諸国の国民性は似ても似つかない。我々がアメリカ人やイギリス人の社会学者の書籍を退屈だと感じる理由は、意識のレベルで彼らの分析が腹落ちしないことにあるのだろう。そもそも国民の分断は先進国共通の問題であり、国民性に問題の本質が帰結していないことの方が多い。しかし当事者たちはそうは感じていないようである。まずはニック・ランドの白人国家に対する分析を見ていこう。彼はアメリカ人がポリコレに過剰に依存する理由を以下のように分析している。

アメリカ人はその多くがキリスト教徒であり、楽天主義者で、なにごとにつけても「やればできる」と考えている人々である。つまり彼らは、その「集合的な感情」のレヴェルで希望を放棄することに全く適していない者たちなのだ。アメリカという国は、絶望をたんに間違いや弱さとして解釈するのではなく、罪として解釈するように文化的に組み込まれている国なのである。

暗黒の啓蒙書

アメリカ人の楽天主義が災いして、差別の問題を解決可能な課題として捉え続けることが加速主義的な言論人が容認されない理由だと述べている。これが正しいとするとアメリカ人よりも遥かに悲観的な日本人が毎日ヤフーコメントで格差に対して呪詛を吐いている理由が説明できない。皆さんが大好きな経済学者の成田悠輔によれば、日本は寧ろ経済的な格差が足りておらず成長のためにはもっと格差を作るべきであるらしいのだ。

日本はアメリカの半分以下の格差しかない

そもそも先進国には絶対的貧困は存在しない。あるのは隣の家と比べて裕福ではないという相対的貧困だけである。だからといって「日本には格差はあまりないんだ。明日から自分の幸せを噛みしめて生きよう~」となるだろうか。それは人間というものを全く理解していない。格差があろうがなかろうが、格差を容認しようとする思想がマジョリティーから共感を得ることは有り得ない。ニック・ランドもリベラルと保守が対立した際に、保守が常に劣勢になることに憤りを感じているようだが、それに関してはどうしようもない。経済学者は得てして新自由主義的な思想を持ちやすいが、国民に是非を問うたときに新自由主義的な政策が賛成多数を得ることはあまりない。資本主義の加速や格差の加速ということは原理的に無理なのである。国民性や宗教の違いなどは誤差に過ぎず、問題の本質ではない。

大聖堂の倒し方

実際は弱者vs弱者でポリコレ戦争してるだけ

ニック・ランドは人権や平等、民主主義、多文化主義などのリベラルな諸価値を守り布教しようとする動き、または組織や機関を「大聖堂(カテドラル)」と呼んで批判している。それについては私も概ね賛成するところである。特に民主主義は我が国である日本でも正常に機能しているとは言いづらい。リベラルな諸価値が全て悪であるという極端な主張をするつもりはない。だが、大聖堂による抑圧により議論の余地すら奪われてしまうのは問題である。進歩的な考えを議論の土俵に迎え入れるためにはなにが必要なのだろうか。「格差は是正すべきだ」というポリコレ的前提を否定すれば、それは逆張りとして捉えられる。成田悠輔のような経済学者がお茶の間のニュースで発言すれば、ある程度の注目を集めるかもしれないが、一般人が真剣に格差を容認するような発言をしたら煙たがられることは間違いがないだろう。機会の平等は保証されるべきであるというのは人間の感情に根差しており、それ以上の深堀は難しい。ニック・ランドは言論の場でのヘイトを容認すべきであるという主張を展開しており、このような感情を逆なでする主張で誰かを「啓蒙」できると本気で思っているのか甚だ疑問である。

大聖堂を攻撃するには、既存の価値を批判するだけでは不十分なのである。成田悠輔が「老害は切腹せよ」「若者は独立国を作れ」などとメディアで発言しても干されずに言論活動を続けられているのはなぜだろうか。単に実現不可能な逆張り発言であり既得権益に対するなんらの脅威にもなっていないからである。一方で、週刊誌がやっているような行為を個人で行って警察権力に目を付けられてしまったガーシ―こと東谷義和は国会議員であるのにも関わらず日本に帰国できず、実質の島流し状態にある。売名のために政治家や大物芸能人に対する攻撃を行った結果、権力が動いたのである。積極的攻撃を行うと反発があり、個人や集団が行動を起こす際にリスクを伴う一方で、どんなに過激でも抽象的で実現不可能であれば言いたい放題である。

結果として「崩壊や格差が拡大して国家が自壊するのを待つしかないね」という加速主義という腰抜けイデオロギーが最適解のように思えてしまう。既存の価値を攻撃するという一見正しそうな方法を見直すことで、この問題を解決した方が良い。北風と太陽という寓話を知っているだろうか。旅人から外套を脱がせることを競い合う北風と太陽の話である。北風が力業で服を脱がそうとすると、旅人は余計に外套を抑え込んでしまう。太陽は明るく旅人を照らしただけであるが、旅人は暑がって外套どころか帽子まで脱いでしまったというお話である。『奨学金を無償化しろ!』『老人の社会保障は削れ!』『雇用の流動性を上げろ!』ではなく、『学歴自慢ってダサくね~』『友達いない老人って惨めだよね~』『いまどき雇われで働いてるの~』というカウンタームーブである。これらはルサンチマンだと思われるかもしれないが、ルサンチマンがルサンチマンたる所以は、価値が価値として正常に機能していることにあるのだ。

私は世間的に言うと底辺Youtuberである。経済的に言えば登録者という価値が欲しいのも事実ではあるが、それ以上に有能な底辺Youtuberを発掘したり、デビューさせたりする方に大きい価値を置いている。Vtuber事務所のANYCOLOR(にじさんじ)は底辺Vtuberで人気Vtuberを囲ませることでキズナアイたち先行優位組という既得権益を潰した。経済的価値は既得権益を潰せば手に入るので、情報商材を作って貧乏人から小銭を集めても意味はない。ニック・ランドは新自由主義を有難がっているが、そんなものは既得権益であれば誰でも有難がっている。その一方で社会主義的経済もくだらない。経済をどういう方向にもっていくかという政治的イシューは、対立や分断の問題として持ち込むべきではない。なぜなら経済を自由化しようが、再配分しようが経済的に割を食う人間は発生する。ニック・ランドが白人至上主義者で、プアホワイトを救いたいというのならば、彼ら彼女らをYoutuberにすべきだ。ハリウッド映画に黒人起用が半ば強制されるのならば、ハリウッドなど捨てればよい。『エンタメの最高峰はハリウッドだ』という既存の価値を有難がっているから、アファーマティブアクションに対して憤るしかないのである。地上波には到底出れないアウトローが、Youtubeの番組で格闘技をやって人気を博している。当たり前の光景だと思うかもしれないが、一昔前はテレビを干されたら芸能人は仕事が出来なかった時代であったことを考えると、価値というものが如何に移ろいやすいかが良く分かる。

まとめ

結局、ニック・ランドの主張は「ポリコレは窮屈だよね。別に黒人嫌いでも、新自由主義者でもいいよね」ということに過ぎない。しかし現代社会では平均的な主張以外は世間から無視されてしまう。オタク評論家の岡田斗司夫はこの動きをホワイト革命と呼んだ。大衆は過激な意見をインターネット上でミュートし、少数派のエコーチェンバーとしてしか過激意見が機能しない。分断を肯定するはずの加速主義者が、大衆との分断によってホワイト革命されるとはなんという皮肉だろうか。分断の時代には、価値を自身で選定し過剰に他人を攻撃しないというパーソナリティが一番生きやすい。あなたが批判的な言論スタイルを持ち味にしていたとしても、最終的には対話して落としどころを見つけなければ、その分断相手とは共存することは出来ず、永遠に別の島宇宙で暮らすことになるだろう。要するに喧嘩してもいいけど、お互いにプロレスしているという『ごっこ遊び感』が持てることが重要なのかもしれない。成田悠輔もひろゆきも、議論を楽しんでいる感じが嫌な真剣さを緩和して大衆に受け入れられている原因なのだろう。ニック・ランドはYoutubeを始めた方がいい。チャンネル名は『ニックのぴんく啓蒙』でどうだろう(暗黒啓蒙は中二病すぎる)。真剣すぎると伝わらないのだから。




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