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なろう小説は恥ずかしい?オタクの妄想は読む価値がない理由

在宅ワークになったこともあり時間的余裕が増えたので最近アニメを観るようになったのだが、自分がどうしても好きになれないのが異世界転生や学園ハーレムといった所謂なろう(小説投稿サイト)原作アニメである。とにかく共感性羞恥が酷くて観ていても自然に動画を止めてしまう。それと同時にある疑問が思い浮かんだ。これらの作品群を視聴している層は誰なのだろう。そう思って感想サイトなどを覗くと原作との違いなどについて語っているコメントが多く、小説からの根強いファンがいることが伺える。私はてっきり文章や行間の読めない頭の悪い人種が視聴しているのかと思っていたが、なろうファンは最低限の文章は読めるらしい。しかし一介の文学ファンとして言わせてもらうが、なろう小説は文学ではない。こういうと急に老害のような意見に感じてしまうかもしれないので、本記事で色々理屈付けをさせてもらおうと思う。

俺TUEEEEというオタクの妄想

なろう小説は何故気持ちが悪いのか。第一に傾向として主人公の人格と持ち合わせている能力に整合性がないことが思い浮かぶ。なろう小説の主人公はその殆どが若い男性で、異世界でモンスターや盗賊相手に無双したり、全寮制の学園(高等学校であることが多い)に入学して、持っている能力がゆえに求めていなくても美少女を集めてしまうというご都合人生を謳歌することになる。勿論、このような作品が全てであると言いたいわけではないが、少なくない数の作品を視聴してきて明らかにこのタイプに傾倒が偏っているのは疑いようがない。主人公は能力や権力に貪欲というわけではなく、どちらかというと謙虚さが目立つ。謙虚すぎるので周りが主人公の凄さを代弁するという展開を何回も見てきた。謙虚さがセールスポイントのやれやれ系主人公が一流の能力や技術を持ち合わせているということは現実ではありえない。この現実との乖離がオタクの妄想感が強くて、作者がマスターベーションをするために創作した物語であることを作品の節々から感じてしまう。

能ある鷹は爪を隠すということわざがある。能力をひけらかさない謙虚さを称えた日本らしい言葉だ。しかし、程度の差はあれ能力のある者が能力を隠してその道の凡人として振舞うことなどあるだろうか。少なくとも私は出会ったことがない。人並み以上の能力があれば、それを強みとして首から下げて歩くのが一般的だろう。一流の者にとって能力を謙遜することはデメリットが大きい。一流を開示しないことで、他の一流との交流機会を減らすことになり機会損失に繋がる。一流は格下を圧倒して優越感に浸るという発想がない。現実の社会ではそんなことをしても意味がないからだ。極端な例を出せば、ウサイン・ボルトが日本の高校陸上の選手相手に試合をしないのと同じである。スポーツは興行であり、トップレベル同士でなければスポンサーも観客も金を払うことはない。経済の争いでも同じである。孫正義やイーロン・マスクはそこら辺にいる中小企業の社長と資産総額を張り合ったりしないだろう。資産総額や自社の株価を競うのであれば競合として名を馳せている会社を仮想敵に設定するのではないだろうか。一流が一流であるためには、同じレベルか自分より格上と競わなければならない。なろう小説のように他のキャラクターを凌ぐような圧倒的な力を持ち合わせていながら、穏やかに暮らしつつ、外敵となる雑魚が現れたときだけ隠された力を使って無双するなどということは有り得ない。一流であるために当たり前に持ち合わせるべきはずのストイックさがないやれやれ系が、事件を解決するたびに『お前はどうやってその境地に到達したんだよ』とオタクの妄想が鼻について動画の視聴を一時停止してしまうのである。

承認欲求の公衆便所としての女

なろう小説の気持ち悪さの第二の要素はヒロインと承認の関係性にある。なろう小説で忘れてはいけないのが、ヒロインの存在である。基本的に主人公の本命となるヒロインは存在するが、その他複数の美少女キャラが追加で登場して彼女らも主人公と親密な関係を築こうとする。最強の力を持った主人公にも精神的な負い目やコンプレックスは設定されている。このお情け程度のマイナス要素には2つのパターンがある。1つは主人公はかなりの実力者であるが周囲の評価が実際の実力と乖離しているパターンである。主人公は不適合者や劣等生といった評価を社会や周囲から受けているが、少数の理解者は彼のことを認めているというパターンである。この場合、認めている側の人間たちも主人公には匹敵しないにしろ能力値が高い傾向にある。

タイトルのデジャヴが半端ない

もう1つは元々は評価されない立場の主人公が、魔法や幸運で一転してハイスペックになるというパターンである。おっさん、無職、童貞などの現代社会におけるマイナス要素を異世界への転生で1回リセットして、その後の能力付与イベントで、そのまま周囲に認められて行くという流れなので、主人公には無力だった時代のコンプレックスが描写される。しかし、これは申し訳程度の設定に過ぎず、理解者(多くの場合美少女)によって肯定される。

簡単に思いつくマイナス要素がニートや童貞な時点で作者の人生経験が伺える

第一のパターンはオタクの妄想であり、現実世界では存在しないことは既に述べた通りである。周囲に正当に評価されていないというコンプレックスは、理解者の数を絞るための舞台装置である。『周囲vsヒロインたち』という構図を作ることで、ヒロインたちが自発的に自らの感性に基づいて主人公を承認したことが際立つ。寧ろ、このマイナス要素がなければ、優秀な主人公を祭り上げるミーハーなヒロインたちという印象を読者に与えてしまう。問題は第二のパターンである。無職やおっさんであることと承認されることには因果関係がないどころか寧ろ承認を得られないことの原因になる。しかし、能力が運や偶然によって獲得されているので承認を得るためのベースとなる前提条件はクリアしている。しかし能力の劣っていた時代の卑屈な感性が主人公に色濃く残り、それを慰め、肯定するのがヒロインたちの役目である。これが本当に気持ちが悪い。学生時代モテなかったガリ勉の青年が、大人になって経済力を身に付け今までモテなかった分の鬱憤を金と承認の交換によって発散する様を見ているようである。自身の捻くれた性格や相手への無配慮を差し置いて『能力がない=承認されない』を連呼し続ける大人は観ていて痛々しい。モテることよりも引きこもることを優先する人生も選択の結果であり誰も否定しない。しかし、ひきこもりや無職を選びながら行動もせずに卑屈になっているのが気持ち悪いし、尚且つ女に駄目な自分を肯定してもらおうとしている態度がさらに邪悪である。恐らく作者もそういった気持ち悪い層をターゲットにして文章を書いているのではないだろうか。

陽キャ哲学的おすすめラノベ

上記のような内容に当てはまらない、つまり私がストレスフリーで読める&視聴できるなろう小説関連の作品を紹介しよう。※幼女戦記は『小説家になろう』とは別の小説投稿サイトのArcadiaに投稿された作品だが、なろう小説として紹介する。

Re:ゼロから始める異世界生活

主人公が『死に戻り』という回数無制限のループ能力を持っているものの、痛覚や身体能力は平均的であるため、イベントの攻略に試行錯誤を要する点で起承転結の結びつきに違和感がなく視聴できる。主人公の責任転嫁や諦めなど負の行動を周りから咎められるところにも好感が持てる。ファンタジーなのだから出来事のご都合主義は当たり前だが、感情や人間関係にご都合主義を持ち込まないところが素晴らしい。世界観は壮大に、人間模様はリアリスティックにというのが傑作ファンタジーの前提条件である。

幼女戦記

主人公が魔力のある世界に幼女の姿で転生して無双する話ではあるが、私がもっとも嫌悪する似非の謙虚性が主人公から感じられないところが良い。主人公が幼女に転生しているという設定上、ハーレムが発生しないのもポイントが高い。複数の女キャラクターから好意を寄せられるのは良いが、なろう小説は未来際の好意ありきでイベントが練られているために、イベント一つひとつが浅いことが多い。主人公が朴念仁であるならば、恋愛や惚気は最低限に留めてくれた方が主人公の人格と世界の整合性が取れるだろう。

ログ・ホライズン

SAOやオーバーロードのようなMMORPG(オンラインゲーム)の世界に閉じ込められ脱出できなくなってしまうという作品は昨今珍しくないが、その先駆け的な作品がログ・ホライズンである。しかもゲームの世界でチート級の力を持っているという王道のなろう転生系とは違い、ログ・ホライズンの主人公は性格穏やかで内政特化型である。オンラインゲーム内で発生するPKと呼ばれる違法行為や窃盗などを暴力により排除するのではなく、ギルドの土地購入や法律の制定によって解決するという主人公の地頭の良さを感じさせる描写が良い。『ぼくの考えた最強の能力』で無双するというのは知性を感じない。ワンパターンなアンパンチでばいきんまんを排除し続けるアンパンマンと同じである。幼児にはウケるのかもしれない。

まとめ

本文中でも述べたが、ご都合主義が悪いわけではない。人は過去に意味付けしながら現在を生きている。過去があるから今があるのだ。そういう意味では我々の人生もご都合主義的であると言える。しかし、自分の承認を得るための装置としての他者を設定した瞬間に、それは主体性の枠を大きく踏み外した認知の歪みになる。主体性はオタクカルチャーではセカイ系として顕現することが多い。セカイ系では世界への単純な関係性への妄想は成り立っても、関係性が与える承認は自己と世界観の関係性への基礎付けによって成立しなければならないからである。他人をコントロールできると考えている作者やターゲット層のファンの思想が滲み出ている作品には吐き気を催してしまうのである。単に私の好き嫌いに理屈付けをしただけの記事ではあるが、ここまで読んでくれた読者の皆さんには感謝したい。また次回の記事で!


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