ep.4 北欧研究所での個人研究プロジェクトについてご紹介
皆さんこんにちは!
デンマーク留学中のあいりです。今回は、私がインターン生として働く北欧研究所での個人プロジェクトについてお話ししようと思います。
(北欧研究所メールマガジン2024年2月号から来てくださった方、ありがとうございます!)
私は現在、「北欧研究所」というコンサルティング機関でインターンをしています。日本・デンマーク両方の公的機関や企業が双方の市場を調査したり実際にコンタクトをとったりする際のお手伝いをさせていただく、というのが主な業務内容です。
そういった業務とは別に、学生それぞれは研究テーマを持ち、そのフィールドワークやレポートの執筆にも取り組んでいます。
私のテーマはずばり、
「包括的性教育の普及とジェンダー規範の形成」です。
(??なんぞや??という方はこちらのnoteを読んでみてください!
私がなぜ包括的性教育に興味を持ったのか、なぜデンマークなのかということを説明しています👀)
今回は、そこから少し経ってみて、現在私が「これはキーワードかもしれないぞ?」「お、少し見えてきたぞ?」ということについてお話ししようと思います。
キーワード:バウンダリー
本当に、真髄はこれかもしれないと思ったキーワードはずばり、「バウンダリー」です。
この言葉は、デンマークでインタビューさせていただいた性教育団体のスタッフの方、スウェーデンで訪問した施設の方、皆さんの発言の中にあった言葉です。
自分には自分の、他人には他人のバウンダリーがあり、守られるべきものである。そしてその存在は互いに表明し合うことによって確認され、尊重されるべきである。
とまあ、彼らの主張を私の理解でまとめると上記のようになります。
私はこの考え方を聞いたとき、正直
「他人と境界線を作る教育」っていうことなのか?
他者の感覚を分かち合う、わかり合う、
それが教育で目指されることではないのか??(ーー;)
(と思いました。だって他人と境界線を作るなんて、なんだかわかり合えないみたいで悲しいし。。。😢)
しかしよく考えてみれば、これは性教育の文脈だけではなく、現在日本でその重要性が指摘されている「主体的な教育」にも当てはまることなのではないかと思ったのです。
振り返ってみれば、日本で私が受けてきた教育は「バウンダリーを築く」ことを目指すのでは無く、「バウンダリーを無くす」「他者とバウンダリーを共有する」ことが目指されていたのではないかと思いました。
たとえばクラス内の班行動などに代表されるように「集団で協働すること」が重視されていて、協力すること、皆とわかり合うことに注力していたりなど・・・。
すなわち、個人のバウンダリー構築ではなく、複数人が共有する境界線内での立ち回りが重視されているのではないかということです。
もちろん、他者と協力し合ったり、互いに痛みを想像したり、相手をおもんぱかることは大切なことです。
しかし、
という、自分の肌感覚に正直になるスキル、そしてさらに言えばそれを他者に言葉で伝えるスキルは、バウンダリーの考えと通底しているし磨かれなければならない技術なのではないかと感じるのです。
教え方にもっと注目する必要がある・・・?
その例として、先日インタビューさせていただいた、デンマークの性教育普及団体であるSex og Samfundのスタッフの方がこんなことを言っていました。
これを聞いたとき、私は、性教育において重要なのは「何を教えるか」というコンテンツの問題だけではなく、「どう教えるか」という教え方の問題なのだなと気づきました。
性教育はややもすると「倫理観の強制教育」になりかねません。自分の意見や行動を身につけるプロセスを提供することが重要で、いわば「答えが決まっていないこともある」という少しやっかいな側面もあります。
ですが、だからこそ教え方・学び方の工夫は私が思っている以上に重大な要素かもしれない。そのことに初めて気づかせて貰いました。
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とまあ、色々ここまで書いてきましたが、まだうまくまとまっていません笑
これから学びを消化して、レポートにしていけたらと思います。
デンマークでの滞在が残りあと2週間になりましたが、このレポートの執筆やらアンケートの回収やらで忙しい日々になりそうです。
きちんとやりきることができますように、頑張ります!🔥
それではまた✨
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